第2話「七月十日、金曜日(放課後)」
第2話です。
教室を出て、廊下の窓から差し込む夕方の光を横目に、俺――佐藤蓮司は、いつもと同じ速度で階段を下りた。
結衣に別れを告げられ、桐生に乗り換えられた、その日の放課後。背後では、まだ結衣たちの笑い声が響いている。俺が去った教室で、彼女はきっと桐生の腕に絡みつきながら、もう俺の名前すら口にしていないのだろう。
不思議なほど、何も感じなかった。
怒りも、悲しみも、悔しさすらも湧いてこない。あるのはただ、長い出張の後に感じるような、乾いた徒労感だけだった。
(――ようやく、終わったか)
三年間、伊達眼鏡をかけ、猫背を作り、わざと冴えない喋り方を練習してまで維持してきた「佐藤蓮司」という仮面。その仮面の下で、俺は誰にも本当の自分を見せることなく、ただの空気のような高校生として過ごしてきた。
結衣と付き合っていた一年半も、結局のところ同じだった。彼女が見ていたのは「地味だけど話しやすい男子」であって、一条蓮司という人間ではなかった。思い返せば、彼女が俺に向けていた言葉のほとんどは、俺自身についてではなく、俺がどれだけ「便利な相手」であるかについてだった気がする。愚痴を聞いてくれる、荷物を持ってくれる、都合のいいときだけ隣にいてくれる。それだけの存在。
だから今日、あっさりと桐生に乗り換えられたことに、驚きすらない。
驚くとしたら――むしろ、自分がここまで何も感じない人間になっていたことに、だ。
教室を出る間際、桐生が取り巻きたちと一緒に投げつけてきた言葉が、今さら頭の中を反響していた。「その他大勢くん」「陰顔」。悪気があるというより、そう呼ぶことに何の抵抗も感じていない様子だった。誰かを傷つけているという自覚すらない、ただの日常会話の延長。むしろその無邪気さの方が、よほど根が深いのかもしれない。
だが、それすらも今の俺にはどうでもいいことだった。彼らの世界での「価値」など、最初から求めていない。求めていたのは、ただ一人の人間として扱われることだけだったはずなのに、いつの間にかその望みすら忘れかけていた自分に、少し驚いただけだ。
昇降口で靴を履き替え、校門をくぐる。制服のポケットに入れたスマートフォンが、一度だけ短く震えた。画面を見ずとも、誰からかは分かっている。
校門からしばらく歩いた、住宅街の外れ。桜並木の陰に、黒く磨き上げられたセダンが一台、音もなく停まっていた。学校の関係者には絶対に見せない場所――これも、三年間変わらないルールのひとつだ。校内で送迎の姿を一瞬でも見られれば、「佐藤蓮司」という存在そのものが崩れてしまう。だからこそ、車は必ずこの裏道の、桜の陰にだけ停まる。
後部座席のドアが、内側から静かに開く。
「お帰りなさいませ、若様」
運転席から降りてきたわけでもないのに、いつの間にか車の脇に立っていた初老の男が、深々と頭を下げた。仕立ての良い黒のスーツに、皺ひとつない白手袋。長年一条家に仕えてきた執事、堂島だ。
「……ああ」
俺は短く応え、車に乗り込む。ドアが閉まった瞬間、空気が変わるのを感じた。埃っぽい教室の匂いも、結衣の香水の残り香も、ここには存在しない。防音と空調で完璧に管理された車内には、ただ静寂だけがある。
堂島が運転席に座り、車が静かに発進する。バックミラー越しに、堂島の目がこちらを一瞥するのが分かった。
「本日、学園にて何かございましたか」
声には、驚くほど抑揚がない。だが三年間この男に仕えられてきた俺には分かる。この静けさの中に、隠しきれない懸念が滲んでいることが。
(――もう、耳に入っているんだろうな)
どうせ、俺が教室で何を言われたか、堂島はすでに把握しているはずだ。学園内の音声データも映像データも、羅針盤――一条グループが世界中の拠点を監視するために運用しているシステム――を通じて、逐一処理されている。俺の身に何かあれば、それは自動的にタグ付けされ、報告として上がってくる。
だから、この質問は確認に過ぎない。本人の口から聞きたいだけだ。
「別に。何も」
俺はそう答えて、窓の外に視線を移した。夕暮れの街並みが、後ろへと流れていく。
「そうですか」
堂島はそれ以上、何も聞かなかった。踏み込まない。それがこの男の流儀だ。主が語りたくないことを、無理に暴こうとはしない。ただ、必要なときにだけ、必要な分だけを差し出す。
その沈黙が、今はありがたかった。
車は市街地を抜け、やがて高台へと続く道に入っていく。窓の外の景色が、次第に庶民的な住宅街から、広々とした緑地へと変わっていった。この先にあるのは、一条家が地方拠点として所有する別邸――表向きには「関連企業の保養施設」として登記されている、俺のもうひとつの家だ。
「本日の予定でございますが」
堂島が、話題を変えるように切り出した。
「十九時より、欧州法人のオンライン会議がございます。半導体関連の供給網再編について、現地責任者からの報告を」
「分かった」
「また、明後日の理事会資料につきましても、事前に目を通していただきたい案件がいくつか」
「後で見る」
言葉数は少ないが、堂島にはそれで十分伝わる。三年間、この男との呼吸だけは変わらない。
――そう。ここから先が、俺の本当の日常だ。
地味な高校生・佐藤蓮司として過ごす昼間の六時間半など、一条蓮司の一週間の中では、ほんの小さな断片に過ぎない。世界中の拠点から上がってくる報告、判断を仰がれる案件、決裁を待つ契約。その量と密度は、同年代の誰とも比較にならない。
結衣は知らない。今日俺を捨てた女が別れを告げたその同じ日の夜、俺が欧州の役員たちを相手に、数千億円規模の意思決定を下すことになるなどとは。
知る必要もない。もう、俺の世界には関係のない人間だ。
ふと、堂島がバックミラー越しに、また視線を寄越した。
「若様。ひとつだけ、申し上げてもよろしいでしょうか」
「言ってみろ」
「本日の件で、多少なりとも心を痛められたのであれば、無理にご自身を偽る必要はございません。私の前では」
俺は一瞬、言葉に詰まった。
(――見抜かれているな)
結衣に振られたこと自体は、正直どうでもいい。だが、三年間、誰からも「一人の人間」として見られなかったという事実は、思っていたよりも深く、俺の中に沈殿していたのかもしれない。肩書きでも、資産でも、権力でもなく、ただの「佐藤蓮司」として誰かに見てほしかった。そんな子供じみた願望が、心のどこかにまだ残っていたことに、今更ながら気づかされる。
「……別に、なんとも思っていない」
結局、俺はそう答えるしかなかった。堂島は小さく頷いただけで、それ以上は何も言わなかった。分かっていて、それでも深追いしない。それが、この男なりの気遣いなのだろう。
車は別邸の門をくぐり、緩やかな坂道を上っていく。庭園の木々の間から、灯りの点り始めた屋敷の姿が見えてきた。
その頃、俺の知らないところで――羅針盤のシステムには、すでにひとつの名前が、静かに登録されようとしていた。
桐生物産。
地方では名の知れた、建設資材関連の中堅商社。桐生蓮の実家であり、彼が「カースト上位」として振る舞う余裕の源泉でもある会社。
その下請け企業の不正会計の兆候が、たまたま羅針盤の監視網に引っかかった――ただ、それだけのことだった。まだ、何かが決定されたわけではない。制裁でもなければ、報復でもない。取引停止の判断も、まだ誰も下していない。
ただ、ひとつの名前が、静かに、リストに載っただけ。
その意味を、桐生蓮はまだ知らない。結衣も、校長も、誰も知らない。今日、教室で「その他大勢くん」と嘲笑ったことが、自分たちの足元をどれほど揺るがすことになるのか、想像すらしていない。
車が別邸の玄関前で停まる。堂島がドアを開けながら、いつもと変わらぬ静かな声で告げた。
「お帰りなさいませ、蓮司様」
ここでは「若様」ではなく、「蓮司様」。制服を着ていない、本来の俺への呼び方だ。
俺は車を降り、屋敷を見上げる。夕陽に照らされたその佇まいは、教室で見せつけられた見下しも、結衣の冷たい言葉も、まるで別の世界の出来事だったかのように、静かに俺を迎え入れていた。
玄関ホールに足を踏み入れると、すでに数人のスタッフが待機しており、俺を見て一斉に頭を下げる。誰もが「一条蓮司」に対する当然の礼として、それを行っている。教室で向けられていた侮蔑の視線とは、あまりにも対照的な光景だった。
(――さて)
明日からも、俺は「佐藤蓮司」として、あの教室に戻る。何も変わらない顔で、何も知らないふりをして。
だが、羅針盤は止まらない。俺が動かずとも、俺の代わりに、世界が勝手に動き始める。
書斎に向かいながら、俺は腕時計に目をやった。十九時の会議まで、あと少し。欧州法人からの報告書には、すでに目を通しておく必要がある。
書斎に入ると、堂島が音もなく後に続き、タブレット端末を差し出した。画面には、半導体関連の供給網再編に関する資料が、すでに整理された形で表示されている。俺はソファに腰を下ろし、上着のボタンを外しながら、資料に目を通し始めた。
三年間で染みついた癖だった。学校では「佐藤蓮司」として言葉少なに俯き、屋敷に戻れば「一条蓮司」として大量の情報を瞬時に処理する。その切り替えに、もはや違和感すら覚えない。
結衣に振られた男の一日は、こうして静かに、しかし途方もない規模の仕事へと切り替わっていく。
七月十日、金曜日。学校では「終わった一日」として処理されたこの日は、この屋敷の中では、いつもと変わらぬ、ただの平日の続きに過ぎなかった。
それが、これから起こることの、ほんの小さな始まりだった。




