第10話「八月八日、土曜日」
土曜日の朝、庭でのトレーニングを終えて戻ると、書斎の机の上に、見慣れない細長い箱が置かれていた。
「これは?」
「昨日申し上げた件でございます。次に湖へ行かれる際にと思い、手配いたしました」
こんなに早く用意してくるとは思わなかった。堂島の仕事の早さには、いつも驚かされる。
箱を開けると、中には子供用ではない、しっかりとした作りの釣り竿が収まっていた。木製の持ち手には、蓮司の名を象徴するような細かな彫刻すら施されている。継ぎ目のない滑らかな仕上げから、決して安物ではないことが一目で分かった。
「気が早いな」
「善は急げ、と申します。もっとも、次にお使いいただけるのは、当分先になるかもしれませんが」
堂島の口ぶりに、俺は小さく笑った。休日らしい休日を過ごした翌朝から、また普段通りの一日が始まる――そのことを、この釣り竿が静かに告げているようだった。竿を鞄にしまいながら、堂島がふと付け加える。
「本日届いたご報告の内容次第では、しばらく忙しくなるかもしれません。だからこそ、今のうちに」
「――気を回しすぎだ」
「これも、私の仕事のうちでございます」
「本日のご予定でございますが、午前中に堂島より監査状況のご報告、午後は特に業務は入っておりません」
「昨日みたいに、丸一日空けたわけじゃないんだな」
「はい。旦那様からのご指示は、あくまで金曜日限定でございました。ただ、午後は蓮司様のご自由にお使いいただければと」
「そうか」
昨日一日だけの特例だったと知り、少しだけ残念に思う自分がいることに、俺は内心驚いていた。贅沢を覚えるというのは、案外こういうことなのかもしれない。
朝食を済ませ、書斎に入ると、堂島がタブレットを差し出した。表情が、いつもよりわずかに硬いことに気づく。
「監査法人から、第二報が届いております。前回よりも、踏み込んだ内容です」
「聞かせてくれ」
「下請けの資材加工会社から桐生物産本体への資金移動の一部について、桐生物産の役員名義の書類に、直筆と見られる署名が確認されました。これにより、少なくとも一部の取引について、本体側の関与が疑われる状況となっております」
俺はしばらく、画面に映し出された資料を見つめた。数字と固有名詞の羅列だったものが、初めて「誰の意思か」という輪郭を持ち始めた瞬間だった。書類の隅に添付された署名の拡大画像を、俺はもう一度、じっと見返した。
「役員名義、というのは」
「桐生物産の専務――桐生蓮の父親でございます」
その名前を聞いても、不思議と心は動かなかった。感情が湧かないことに、むしろ自分でも戸惑うくらいだった。あの教室で見下してきた桐生蓮の顔と、この署名の主とが、同じ血を分けた父子だという事実が、頭の中でゆっくりと結びついていく。
「まだ、断定はできないんだな」
「はい。署名の真贋や、当該役員が実際に内容を認識していたかどうかは、今後さらに調査が必要です。憶測での判断は避けます」
「筆跡鑑定には、どれくらいかかる」
「専門家に依頼した場合、二週間ほどを見込んでおります。急がせることも可能ですが、精度を犠牲にしては本末転倒かと」
「精度を優先しろ。急いで間違った結論を出す方が、よほど厄介だ」
「仰る通りです。監査法人にも、その旨、改めて申し伝えます」
「その方針で進めろ」
「承知いたしました。なお、この件は旦那様にもすでにご報告済みです。何かご意見があれば、追ってご連絡があるかと存じます」
「そうか」
父がこの報告にどう反応するのか、想像もつかなかった。橘の言葉ではないが、父にもかつて、こうした判断を迫られた瞬間があったのだろうか。今度、機会があれば聞いてみようと思っていた矢先に、まさにその判断の場面が巡ってきたことに、俺は妙な巡り合わせを感じていた。
堂島が退室したあと、俺はしばらく窓の外を眺めていた。桐生蓮の父親――教室で「その他大勢くん」と嘲笑った息子の、その背後にいる人物の名前が、初めて具体的な形を持って浮かび上がってきた。この案件が、単なる「不正会計」から「特定の個人の責任」へと、少しずつ姿を変えつつあることを、俺ははっきりと自覚していた。
これまでは、どこか抽象的な「桐生物産」という組織の問題として処理してきた。だが今、目の前にあるのは、誰かの家族の生活そのものに直結する話だ。桐生蓮にも、まだ見ぬその母親にも、この先どんな影響が及ぶのか。想像しかけて、俺は静かにその思考を打ち切った。今はまだ、考えても仕方のないことだった。
それでも、頭の片隅から、その想像は完全には消えなかった。父の書斎で見た経営学の本にあった「なぜ社員を大切にするのか」という一節が、また蘇る。桐生物産にも、何百人もの従業員がいるはずだ。専務個人の罪と、そこで働く人々の生活は、切り分けて考えなければならない。堂島の言う「憶測では動かない」という方針が、これほど重く感じられたことは、今までなかった。
午後、久しぶりに何も予定のない時間ができた。堂島に勧められるまま、庭に出て、贈られたばかりの釣り竿を手に取ってみる。もちろん、近くに釣れる場所などない。ただ、竿を握り、キャストの真似事をしてみるだけの、他愛のない時間だった。振り出すたびに、竿先がしなり、風を切る小さな音が響く。子供じみた遊びだと分かっていても、やめる気にはならなかった。
「様になっていらっしゃいますね」
いつの間にか庭に出てきた堂島が、そう声をかけてきた。
「初めて触るものだぞ」
「筋がよろしいのでしょう。何事も」
「――堂島。お前が俺くらいの歳の頃は、どんな高校生だった」
不意の問いに、堂島は少し驚いたような顔を見せた。
「私でございますか。特に、語るほどのものはございません。ただ、目の前のことに、一つひとつ向き合うだけの日々でございました」
「今と、変わらないな」
「左様でございますね」
堂島がそう言って、小さく目を細めた。何気ない会話だったが、今日という一日の中で、俺の心を一番柔らかくしてくれた瞬間だったかもしれない。
軽口めいたやり取りに、俺は小さく笑った。こうした何気ない時間の中に、案外、大事なものが詰まっているのかもしれない。
スマートフォンを見ると、桐生のSNSには、部活の練習風景がまた投稿されていた。「夏の大会まであと少し、気合入れていくぞ」というキャプション。汗だくになりながらボールを追う姿には、屈託のない充実感が滲んでいる。その隣には、結衣が応援に駆けつけたらしい写真も添えられている。二人とも、屈託のない笑顔だった。
自分たちの足元で、静かに何かが動き始めていることを、彼らはまだ何も知らない。それを憐れむ気持ちも、ざまあみろという感情も、今の俺にはなかった。ただ、事実として、そこにある構図を見つめているだけだった。
もし桐生蓮の父親の関与が確定すれば、桐生の家族の生活は、大きく揺らぐことになるだろう。桐生自身が、そのことをどう受け止めるのか。今のこの屈託のない笑顔が、この先どんな表情に変わっていくのか。俺には、まだ想像がつかなかった。ただ、少なくとも自分がその引き金を意図的に引いたわけではない、ということだけは、はっきりしている。桐生物産が自ら積み重ねてきた行いの結果が、今、静かに姿を現しつつあるに過ぎない。
夜、明日の予定に目を通しながら、俺は今日届いた監査の第二報を思い返していた。憶測では動かない、というのがこの家の流儀だ。だが、静かに積み上がってきた証拠が、いよいよ「誰か」の名前に辿り着き始めている。その先にある判断を、いずれ自分が下すことになる。
窓辺に置いた釣り竿に、ふと目をやった。何も生まない、ただの遊び道具。だが今日一日、それを手にしていた時間だけは、桐生物産のことも、経営陣の視線も、忘れていられた。堂島が用意してくれたこの小さな贈り物の意味を、俺は今更ながら噛みしめていた。
八月八日、土曜日。証拠の輪郭が、初めて特定の人物の姿を映し出した一日。夏の終わりに向けて、何かが少しずつ動き出している予感が、確かにあった。




