第11話「八月九日、日曜日」
日曜日の朝、庭でのトレーニングを終えて書斎に下りると、堂島がいつもとは少し違う報告書を手にしていた。
「おはようございます、蓮司様。羅針盤より、学園関連の定例報告が上がっております」
「珍しいな、日曜に」
「月に一度、学内の異常検知ログをまとめてご報告する日でございます。本日はその日にあたります」
「毎回、こんなに分厚いのか」
「いえ、通常はもう少し簡潔です。今月は、先日の警備計画の件があった分、やや厚くなっております」
俺はコーヒーを受け取りながら、資料に目を通した。大半は、いつも通りの些末な記録だった。だが、その中に一件、目を引く項目があった。
「校長の面談記録、というのは」
「はい。先日の警備計画の草案を巡り、教頭先生と校長先生の間で、少々緊張感のあるやり取りがあったようです」
資料を読み進めると、校長が「なぜここまで厳重な警備が必要なのか」と教頭に詰め寄る様子が、簡潔にまとめられていた。教頭が「一条グループ関係者への配慮」と説明しても、校長は要領を得ない様子で、「まさか、あの底辺の連中の中に、そんな人物がいるはずがない」と繰り返していたという。挙句の果てには、「うちの優秀な生徒――桐生君あたりが、実は関係者なのではないか」などと、的外れな推測まで口にしていたらしい。記録を読みながら、俺は思わず声を出さずに笑ってしまった。桐生蓮が一条グループの関係者だと本気で疑うあたり、校長の見立ての甘さが、いっそ清々しいほどだった。
「相変わらずだな」
「はい。校長先生は、いまだに『地味で目立たない生徒の中に本人がいる』という発想そのものに至っていないご様子です」
俺は思わず、小さく笑った。三年間、この男の鈍さに何度も救われてきた。皮肉なことに、校長が愚かであればあるほど、佐藤蓮司としての正体は安全に守られる。むしろ校長には、このまま何も気づかないまま卒業式を迎えてほしいくらいだった。
「教頭先生は、どのように収められたんだ」
「『念のための対応です』の一点張りで、最終的には校長先生も納得された、というより、根負けされたようです」
「教頭の方が、よほど頼りになるな」
「同感でございます。教頭先生には、一条グループとの取引先――という表向きの説明で、これまでも幾度か助けていただいております」
「そうだったのか」
「はい。校長先生には内密に、という条件付きではございますが」
知らないところで、こうした水面下の調整が積み重ねられていたことに、俺は改めて感心させられた。
「引き続き、監視は続けてくれ」
「承知いたしました」
午前中、久しぶりに父から連絡が入った。定例の面談ではなく、突然のビデオ通話だった。珍しさに、堂島も一瞬だけ手を止めたのが分かった。
「旦那様からの、予定外のご連絡でございます」
「珍しいな」
「はい。何か、直接お話しになりたいことがあるのかもしれません」
画面をつなぐと、いつもと変わらぬ抑揚のない父の顔が映った。だが、心なしか、その表情はいつもより幾分和らいで見えた。
「蓮司。桐生物産の件、堂島から報告を受けた」
「はい」
「専務の署名が本物だった場合、お前はどうするつもりだ」
不意の問いに、俺は少し言葉を選んだ。
「従業員の生活への影響を最小限にしつつ、正すべきものは正す。それ以外に、答えはないかと」
「理由は」
「不正は不正として扱わなければ、他の取引先にも示しがつきません。ですが、罪のない従業員まで道連れにするのは、一条グループの理念に反すると考えます」
「――悪くない答えだ」
父の声に、珍しく微かな柔らかさが滲んだ気がした。
「父上にも、こういう判断を迫られた時期が、あったんですか」
思い切って尋ねてみた。橘の言葉から、ずっと気になっていた問いだった。
「……あったな。お前くらいの歳の頃だ。今のお前と、似たような立場にいた」
「聞いても?」
「いずれ、時が来たら話す。今は、目の前のことに集中しろ」
父らしい返事だった。それでも、初めて「拒絶」ではなく「先延ばし」という形で応じてくれたことに、俺は小さな進歩を感じていた。かつての父も、誰かに正体を隠しながら、静かに証拠を積み上げていた時期があったのだろうか。その想像は、これまでの父の印象を、少しだけ違う角度から照らし出すものだった。
「他に、何か」
「いや。以上だ。引き続き、報告を頼む」
「承知しました」
通話が切れると、画面が静かに暗転した。俺はしばらく、その暗い画面を見つめたまま、動けずにいた。「いずれ、時が来たら話す」という父の言葉が、これまでとは違う響きを持って耳に残っている。拒絶ではなく約束として受け取っていいのか、まだ確信は持てなかったが、少なくとも今日という日を境に、何かが変わり始めた気がした。
通話を終えたあと、堂島が静かに口を開いた。
「旦那様が、あのように踏み込んだお話をされるのは、珍しいですね」
「そうだな」
「橘様の進言も、無駄ではなかったということでしょう」
「お前も、一枚噛んでいたんじゃないのか」
鎌をかけるように尋ねると、堂島は珍しく、わずかに視線を逸らした。
「――さて、何のことでしょう」
その反応だけで、十分な答えになっていた。この男は、俺の知らないところで、いつも静かに手を尽くしてくれている。改めて、そのことを実感させられた。
午後は、二学期に向けた準備に時間を充てた。制服の裾を少しだけ伸ばす直し、伊達眼鏡の新しいフレームの確認、教材の補充。地味な高校生を演じ続けるための、細かな作業の一つひとつを、堂島と一緒に片付けていく。
「フレームは、前回と同じ型で?」
「ああ、それでいい。変える必要はない」
「かしこまりました。猫背の姿勢についても、念のため、鏡の前で確認しておかれますか」
「――そこまでしなくていい」
三年前は、必死に練習した所作の数々も、今ではすっかり身体に染みついている。もはや意識せずとも、教室に入った瞬間に「佐藤蓮司」の姿勢が出来上がる。そのことに、少しばかりの寂しさを覚えるのは、贅沢な悩みなのだろう。
「二学期も、変わらず『佐藤蓮司』として過ごされるのですね」
「当然だろう」
「失礼いたしました。愚問でした」
堂島の言葉に、俺は小さく苦笑した。分かりきったことを、あえて確認してくるのは珍しい。それだけ、この一週間の変化が、堂島の目にも印象的だったということかもしれない。
「何か、気になることでもあるのか」
「いえ。ただ、この一週間の蓮司様を拝見していて、少し感慨深いものがございまして」
「感慨深い、とは」
「三年前、まだ幼さの残っていた蓮司様が、随分と遠くまでいらっしゃったものだと」
珍しく感傷的な物言いに、俺は少し面食らった。だがそれ以上、深く追及する気にはなれなかった。
夜、この一週間を振り返ってみた。物流拠点の視察、家庭教師の相馬との時間、桐生物産の監査進展、経営陣との対話、湖への小旅行、そして今日の父との会話。慌ただしくも、これまでとは違う手触りのある一週間だった。三年間、ただ数字と判断力だけを積み重ねてきたつもりだったが、この一週間だけで、中村や相馬、橘、そして父との間に、これまでになかった種類のやり取りが生まれている。
窓の外を見上げると、夏の夜空に、ひときわ明るい星がひとつ瞬いていた。来週からは、また新しい一週間が始まる。監査の行方も、二学期の準備も、まだ何一つ終わっていない。それでも、今この瞬間だけは、静かにこの一週間の余韻に浸っていたかった。
八月九日、日曜日。校長の的外れな懸念と、父との小さな一歩。対照的な二つの出来事が重なった一日は、静かに、しかし確かに、俺の中の何かを変えていった。この夏が終わる頃、自分はどんな顔で二学期を迎えているのだろうか。まだ想像もつかないが、少なくとも、この一週間分だけ、確かに何かが積み重なった実感があった。




