第12話「八月十日、月曜日」
月曜日の朝、庭でのトレーニングを半分ほど終えたところで、堂島が珍しく庭先まで駆けてきた。
「蓮司様、至急のご報告がございます」
「トレーニング中に来るとは、珍しいな」
「九州の西部拠点で、大型台風の直撃が予想されております。上陸は明日未明の見込みです」
俺はタオルで汗を拭う手を止めた。九州西部といえば、先月稼働を始めたばかりの、沿岸部にある倉庫拠点だ。まだ防災設備の整備が完了していない拠点だということも、頭に浮かんだ。
「被害想定は」
「現時点で、高潮による浸水リスクが最も懸念されております。在庫の一部は、まだ防災対応が十分でない可能性がございます。気象庁の予報では、記録的な高潮になる恐れがあるとのことです」
「規模は」
「過去十年で最大級、との予測です」
「すぐに書斎に行く」
着替えもそこそこに、俺は書斎に駆け込んだ。モニターには、すでに気象庁の予報データと、現地拠点からの状況報告が並んでいた。堂島が手早くタブレットを操作し、関連する資料を次々と表示していく。
「現地責任者と、すぐに繋げるか」
「はい、お待ちください」
待つ間、俺は予報データにもう一度目を通した。進路予測円は、九州西部を直撃するコースで、時間の経過とともに狭まっている。逃げ場のない状況が、数字の上でも明確に示されていた。
数分後、画面に現地責任者の緊張した顔が映った。声には、隠しきれない焦りが滲んでいる。背景には、慌ただしく動き回る作業員たちの姿もちらりと見えた。
「本社の方、朝早くから申し訳ございません。現状をご報告いたします」
「聞かせてくれ」
「倉庫の在庫のうち、精密機器関連の一部が、浸水想定エリアに保管されております。移動には最低でも半日かかる見込みですが、上陸まで時間が限られており……」
「作業員の人数は」
「常勤十二名、本日は応援を含めて二十名ほどが出勤しております」
「その人数で、半日での全量移動は、現実的に可能か」
「――正直に申し上げますと、厳しいかと」
現地責任者の声に、隠しきれない苦渋が滲んだ。数字と時間の制約が、目の前で衝突している。判断を下すのは、この場にいる俺の役目だった。
俺は素早く、頭の中で選択肢を整理した。全量移動は時間的に不可能。だが、優先順位をつければ、被害を最小限に抑えることはできる。
「優先度の高いものから、上層階へ移動しろ。人員の安全を最優先に、無理な作業はさせるな。作業が間に合わない分は、廃棄も視野に入れていい」
「――廃棄、でございますか」
「人の命より優先すべき在庫はない。損失は後でいくらでも計算できるが、失った人命は取り戻せない」
画面の向こうで、現地責任者が一瞬、言葉に詰まった様子だった。経営判断としては、決して軽い決断ではない。だが迷う余地など、最初からなかった。
「……かしこまりました。その方針で、直ちに動きます」
「安全が確認でき次第、作業員は全員、速やかに避難させろ。無理な判断をした責任者がいれば、後で俺に直接報告するように伝えておけ」
「承知いたしました」
「それと、避難先の確保は済んでいるか」
「近隣の指定避難所に加え、内陸部の別拠点にも、緊急の受け入れを要請しております」
「よし。追加で必要なものがあれば、遠慮なく言ってくれ」
「――ありがとうございます」
現地責任者の声が、わずかに和らいだのが分かった。
通話を終えると、堂島が静かに口を開いた。
「見事なご判断でした」
「見事、というほどのことじゃない。当たり前の判断をしただけだ」
「その『当たり前』を、迷いなく即座に下せることこそが、蓮司様の強みかと存じます。多くの経営者は、損失の大きさに目を奪われ、判断が遅れるものです」
「損失より、人の命だろう。それだけの話だ」
「その簡潔さが、時に何よりも力を持つのでございます」
堂島の言葉に、俺は小さく息を吐いた。数字の裏には、いつも人がいる。中村の物流拠点を視察したあの日から、その実感は、以前よりずっと具体的なものになっていた。
午前中はそのまま、現地との連絡調整に費やされた。避難計画の確認、保険関連の手続き、近隣拠点からの応援人員の手配。一つひとつの判断が、誰かの安全に直結している緊張感の中、時間はあっという間に過ぎていった。堂島は横で、次々と入ってくる情報を整理し、優先順位の高いものから俺の判断を仰いでくる。その連携の速さに、俺自身も助けられていた。
「保険会社への連絡は」
「先ほど、一次連絡を済ませました。損害額の算定は、台風通過後に改めて行う予定です」
「分かった。引き続き頼む」
昼過ぎ、ようやく一区切りついたところで、堂島が茶を運んできた。
「現地の避難は、無事完了したとの連絡が入りました」
「そうか。よかった」
安堵から、思わず肩の力が抜けた。桐生物産の件のような、じっくり証拠を積み上げる案件とは違い、今回は一刻を争う判断の連続だった。どちらが得意かと問われれば、正直まだ分からない。ただ、どちらの判断からも、逃げるつもりはなかった。
「作業員の方々からも、感謝の言葉が届いております。廃棄の判断も含め、迷いのないご指示だったと」
「感謝されるようなことじゃない。当然の判断をしただけだ」
「その姿勢こそが、感謝される理由かと存じます」
「桐生物産の件は、本日は特に動きはございません」
「今日はそれでいい。台風の方に集中させてくれ」
「承知いたしました。……それにしても、優先順位を切り替える判断の速さも、蓮司様らしいと感じました」
「褒めすぎだ」
「いえ、本心です」
午後も、断続的に現地からの続報が入った。倉庫の一部が浸水する可能性は依然として高いが、人的被害のリスクは、大幅に軽減されたとの報告だった。
「移動作業は、どこまで進んだ」
「精密機器の約七割は、無事上層階への移動を完了しております。残りは、時間的制約から断念せざるを得ませんでした」
「よくやった。それでいい」
七割という数字を、多いと見るか少ないと見るかは、立場によって分かれるだろう。だが、人的被害をゼロに抑えた上での七割だと思えば、十分すぎる結果だった。数字だけを追っていた頃の自分なら、この判断にどこまで納得できていただろうかと、ふと考える。
夕方、書斎の窓の外で、遠い空に灰色の雲が広がり始めているのが見えた。九州とは遠く離れたこの地にまで、台風の気配が届いているのかもしれない。
夜、明日の予報を確認しながら、俺は今日一日を振り返っていた。判断を急がず証拠を積み上げる案件と、一刻を争って即断する案件。まったく性質の異なる二つの重さを、今日という一日で、同時に感じ取った気がした。
書斎の窓に、ぽつりぽつりと雨粒が当たり始めていた。九州の現地では、もっと激しい雨風が吹き荒れているのだろう。画面の向こうにいた現地責任者や作業員たちの顔を思い浮かべながら、俺はしばらく、その雨音に耳を澄ませていた。無事に朝を迎えてほしいと、柄にもなく祈るような気持ちになっている自分に、少し驚いた。
八月十日、月曜日。人の命を守るための判断を、初めて自分一人で下した一日。その重みは、これまでのどんな決裁とも違う手触りを持っていた。桐生物産の件が「誰かの過去の行いを正す」判断だとすれば、今日下した判断は「これから起こることを防ぐ」判断だった。性質はまるで違うのに、どちらも「誰かの生活」に直結している点だけは、同じだった。




