第13話「八月十一日、火曜日」
火曜日の朝、庭でのトレーニングを終えて書斎に下りると、堂島が穏やかな表情で待っていた。昨日とは打って変わって、緊張感のない顔つきだった。
「おはようございます、蓮司様。台風は未明に九州西部を通過し、現在は温帯低気圧に変わりつつあります」
「拠点の被害は」
「精密機器の一部で浸水被害が発生しましたが、想定の範囲内です。何より、人的被害はゼロでした」
「倉庫本体への被害は」
「屋根の一部が破損した程度で、復旧には一週間ほどを見込んでおります。保険の適用範囲内で対応可能とのことです」
その一言に、俺は心底ほっとした。数字の上での「想定の範囲内」という言葉より、「人的被害はゼロ」という事実の方が、比べ物にならないほど重かった。
「現地責任者から、改めてご報告と御礼のメッセージが届いております」
「読ませてくれ」
堂島がタブレットを差し出す。画面には、昨日通話で話した現地責任者からの、丁寧な文面が並んでいた。「迅速かつ的確なご指示のおかげで、一人の怪我人も出さずに済みました」という一文に、俺はしばらく目を留めた。文面の後半には、作業員一同からの寄せ書きのような、短いコメントの数々も添えられていた。
「他の作業員からも、メッセージが届いているのか」
「はい。何名かが、個別にコメントを寄せてくださっています」
一つひとつに目を通す。「家族の元に無事帰れました」「本社がここまで考えてくれるとは思わなかった」――そうした素朴な言葉の数々が、これまで数字の裏側にしか感じてこなかった「人」の存在を、より鮮明に浮かび上がらせていた。中には、幼い子供の似顔絵が添えられたメッセージもあった。差出人の名前を見ても、誰なのか分からない。それでも、その一枚が、これまで見てきたどんな決算資料よりも、俺の胸に響いた。
「何か、返事をしたいな」
「よろしければ、私の方で文案をお作りしましょうか」
「いや、自分で書く」
珍しい申し出に、堂島は少し驚いた様子を見せたが、すぐに頷いた。
「かしこまりました。少々お時間をいただければ」
「いや、待たなくていい。今すぐ書く」
俺はキーボードに向かい、しばらく考えてから、短い返信を打ち込んだ。いつもなら、堂島や秘書チームが整えた定型文を使うところだ。だが今回だけは、誰かの手を借りずに、自分の言葉で伝えたかった。「判断を下したのは俺だが、それを実行し、無事に成し遂げたのは現場の皆さんだ。改めて感謝する」――そんな趣旨の文面を、何度か書き直しながら仕上げた。
「送信しました」
「すぐに返信が届くかもしれません」
堂島の言葉通り、数分後、現地責任者から再び短いメッセージが届いた。「身に余るお言葉です。これからも、この拠点を精一杯守ってまいります」という一文に、俺は小さく頷いた。
「良い返事だな」
「はい。蓮司様のお言葉が、届いた証かと存じます」
数字と資料だけでは決して得られない種類の手応えが、そこにはあった。三年間、こうした感覚を知らずに過ごしてきたことが、少しもったいなく思えるほどだった。
午前中、堂島が別件の報告を持ってきた。決算資料の合間に、今週予定されている物流子会社の追加人員採用についても、簡単な確認があった。中村の拠点が好調な数字を出していることもあり、増員計画は順調に進んでいるという。
「中村の拠点、順調そうだな」
「はい。今回の台風でも、周辺拠点との連携が功を奏し、迂回輸送がスムーズに行われたと聞いております」
「あの視察が、無駄じゃなかったわけだ」
「間違いなく」
堂島の短い言葉に、俺は密かな満足を覚えた。数字だけでなく、現場の人間関係までもが、良い方向に回り始めている。
「そういえば、相馬先生から、来週の指導日の確認が届いております」
「予定通りでいい」
「かしこまりました。二学期の授業進度に合わせて、内容も少し前倒しにしたいとのことです」
「相馬先生らしいな。相変わらず熱心だ」
「はい。蓮司様の伸びしろを、本気で信じていらっしゃるのだと思います」
二学期、という言葉に、俺は少しだけ意識を引き戻された。台風や桐生物産の件に気を取られている間にも、夏休みは着実に終わりへと近づいている。あと三週間ほどで、また「佐藤蓮司」として、あの教室に戻ることになる。
結衣や桐生たちは、この夏をどんな気持ちで終えるのだろうか。桐生物産の件が、いずれ彼らの日常を揺るがすことになるかもしれないことを、今の彼らはまだ何も知らない。教室に戻れば、また何事もなかったかのように、「その他大勢くん」として過ごす日々が待っている。それでいいと、俺は改めて思う。今はまだ、証拠が積み上がるのを待つ時間だ。
「桐生物産の件、筆跡鑑定の専門機関が正式に着手したとの連絡がございました」
「予定通りか」
「はい。結果が出るまで、おおむね二週間の見込みです」
「鑑定機関は、こちらの意向を知らされているのか」
「いいえ。あくまで匿名の依頼として処理されております。依頼主が一条グループであることは、一切伝わっておりません」
「徹底しているな」
「これも、三年間かけて整えてきた仕組みのひとつでございます」
「分かった。気長に待つ」
「承知いたしました」
昨日の台風対応とは対照的に、こちらは相変わらず、静かに時間をかけて進む案件だ。即断が必要な場面と、じっくり証拠を待つ場面。その両方に対応できる自分でありたいと、俺は改めて思った。
夕方、橘から短いメッセージが届いた。台風対応の一件が、すでに経営陣の間でも話題になっているという。「迅速なご判断、感服いたしました」という一文に、俺は少し面映ゆい気持ちになった。橘の言葉には、いつも単なる社交辞令以上の重みがある。
午後は、久しぶりに何も予定のない、穏やかな時間が流れた。庭に出て、贈られた釣り竿の手入れをしながら、昨日までの慌ただしさを思い返す。台風、桐生物産、経営陣、家庭教師――この一週間あまりで、驚くほど多くのことが動いていた。竿の継ぎ目を丁寧に拭きながら、こうした単純作業に没頭する時間もまた、悪くないものだと感じていた。
「蓮司様。少し、お疲れではございませんか」
いつの間にか隣に立っていた堂島が、静かに尋ねてきた。
「疲れてはいない。ただ、色々なことが一気に動いた気はする」
「無理をなさらず、ご自身のペースで進んでいただければと存じます」
「ペース、か」
「はい。台風のような案件は、常に起こるわけではございません。日々の積み重ねを大切にしていただければ、それで十分でございます」
堂島の言葉に、俺は小さく頷いた。三年間、常に効率と速度を求め続けてきた自分にとって、「自分のペース」という言葉は、まだ少し馴染みが薄い。だが、少しずつでも、その感覚を掴んでいきたいと思う自分がいた。父から言われた「いずれ話す」という言葉も、湖での穏やかな時間も、今日の現地からのメッセージも――どれも、急いでは得られなかったものばかりだった。
窓の外を見ると、昨夜の雨が嘘のように晴れ渡り、星空が広がっていた。九州の現地でも、きっと同じ星が見えているのだろう。遠く離れた場所で働く人々の無事を、こうして静かに思う時間が、自分にもあるのだと知った。三年間、数字とスケジュールだけを見つめてきた日々の中で、こうした感覚は、これまで意識して持とうとしたことすらなかった。
八月十一日、火曜日。嵐の後の静けさの中で、俺は改めて、自分の言葉で誰かに感謝を伝えることの大切さを知った一日だった。明日からも、地味な高校生としての日常と、経営者としての判断が、変わらず並行して続いていく。だがその中に、今日感じたような小さな手応えを、これからも少しずつ増やしていきたいと思った。




