第14話「八月十八日、火曜日」
あれから一週間あまりが、静かに過ぎていった。
十二日から十七日にかけては、これといって大きな出来事もなく、いつもの日々が淡々と流れた。東南アジア拠点の追加報告、欧州法人との定例会議、相馬との学習指導が二回。桐生のSNSには、夏の大会で県予選を勝ち上がったらしい投稿が続き、結衣が応援する写真も相変わらず添えられていた。九州の拠点は、屋根の修繕が順調に進み、来週には通常稼働に戻る見込みだという。堂島との日課も、いつも通りの静かなリズムを刻んでいた。橘からは、あの台風対応について、経営陣の間でも評価が高まっているとの連絡が、ごく短く一度だけ届いた。
そうして迎えた八月十八日、火曜日の朝。庭でのトレーニングを終えて書斎に下りると、堂島の表情が、いつもと明らかに違っていた。
「おはようございます、蓮司様。筆跡鑑定の結果が、予定より早く届きました」
「早いな。まだ一週間しか経っていないだろう」
「鑑定機関側の優先度が、想定より高く設定されていたようです。詳細は分かりかねますが」
「金で急がせたわけじゃないんだな」
「もちろんでございます。あくまで、鑑定機関側の通常の業務判断によるものと理解しております」
「結果は」
「――署名は、本物です。桐生物産専務、桐生浩一氏の直筆であると、専門機関が断定しました」
俺はしばらく、その言葉を静かに受け止めた。想定していた結果ではあった。だが、実際に「断定」という言葉で突きつけられると、これまでとは違う重みがあった。書斎の空気が、心なしか変わった気がした。
「認識の有無については」
「そこまでは、筆跡鑑定だけでは判別できません。ただ、署名した書類の内容自体が、資金の不正な移動を明確に示すものでしたので、認識していなかったと主張するのは、かなり無理があるかと」
「つまり、専務は知っていて署名した可能性が高い、ということか」
「はい。あくまで可能性ですが、極めて高い可能性です」
「他の役員は、この件を知っていたのか」
「その点についても、追加調査が必要です。少なくとも、現時点で判明しているのは専務お一人の関与のみです」
「専務以外の役員に、累が及ぶ可能性は」
「現段階では低いかと。ただし、追加調査の結果次第では、変わる可能性もございます」
一人の不正が、どこまで組織全体に波及するのか。その線引きを見極めることもまた、これから下すべき判断の一部だった。
俺は椅子の背にもたれ、しばらく天井を見上げた。証拠が積み上がるのを待つ、というこれまでの方針は、今日という日で一つの区切りを迎えた。次に待っているのは、「その証拠をもとに、何をするか」という判断だった。
「次の段階に進む前に、経営陣に諮る必要があるな」
「橘様には、すでに一報を入れております。臨時の役員会議を、ご希望であれば手配可能です」
「頼む。できるだけ早く」
「かしこまりました。本日中に、日程を調整いたします」
「桐生物産側には、まだ一切気づかれていないんだな」
「はい。監査自体が『定期的な業界監査』として処理されておりますので、専務ご本人も、これが一条グループの意向によるものだとは、露ほども思っていないはずです」
「桐生――息子の方は、当然何も知らないな」
「もちろんでございます。学園でも、家庭内でも、この件が話題に上っている形跡は一切ございません」
教室で見せる軽薄な笑顔の裏で、桐生蓮の家庭には今、静かに嵐が近づいている。その事実を、当の本人だけが知らない。
堂島が退室したあと、俺は一人、書斎の窓辺に立った。桐生蓮の父親――桐生浩一。これまで顔も知らなかった男の名前が、今、確かな重みを持って、俺の目の前に立ちはだかっている。
この先、どんな判断を下すにせよ、それは桐生蓮の家族の人生に、決定的な影響を及ぼすことになる。教室で「その他大勢くん」と嘲笑ってきた少年の、その足元が、静かに崩れ始めようとしている。
ふと、あの教室での光景が蘇った。「陰顔」と笑われた日から、まだ一か月あまりしか経っていない。それなのに、随分と遠くまで来た気がする。あの頃の自分なら、この結果を知って、少なからず溜飲を下げていたかもしれない。だが今は、そうした感情よりも、この先どう判断すべきかという重さの方が、はるかに大きく胸を占めていた。
中村や相馬、橘、そして堂島――この一か月で出会い、関わってきた人々の顔が、次々と頭に浮かんだ。彼らは皆、それぞれの立場で、誠実に日々を積み重ねている。桐生浩一という一人の男の判断が、そうした誠実さの積み重ねを、どれだけ揺るがすことになるのか。想像すると、単純な勧善懲悪では割り切れない、複雑な感情が胸の奥に広がった。
昼過ぎ、橘から連絡が入った。役員会議は、明日の午前中に設定されたという。
「明日までに、こちらの方針を固めておく必要があるな」
「はい。旦那様にも、すでにご報告を入れております。何かご意見があれば、追ってご連絡があるかと」
「父上は、何か仰っていたか」
「いえ、特には。ただ、『蓮司の判断に任せる』とだけ、一言」
その一言に、俺は少なからず驚いた。これまで何かにつけて指示を出してきた父が、今回に限っては、完全にこちらの判断に委ねてきている。信頼されているのか、試されているのか――おそらく、その両方なのだろう。橘が語っていた「父の若き日」の面影が、この対応の中にも、少しだけ透けて見える気がした。
午後は、これまでの資料をすべて読み返す時間に充てた。下請け企業の帳簿、資金移動の記録、署名の鑑定結果。一つひとつの証拠を、改めて自分の目で確かめ直す。感情ではなく、事実だけを見て判断を下すために。
資料を読み進めるうちに、ある一点が気になった。不正な資金移動の一部が、従業員の給与遅配を穴埋めするために使われていた形跡があったのだ。専務が私腹を肥やすためだけの不正ではなく、経営の苦しさを取り繕うための側面もあったのかもしれない。だからといって不正が許されるわけではないが、単純な「悪人」として切り捨てるには、事情が複雑すぎるように思えた。
夕方、相馬から二学期の教材が届いたとの連絡が入った。何気ない日常の一コマが、今日という重い一日の中で、奇妙なほど普通の温度を保っていた。地味な高校生としての日常と、経営者としての重大な判断が、これほどまでに近い距離で同時に存在していることに、俺は改めて不思議な感覚を覚えた。
「教材の受け取り、いかがいたしましょうか」
「いつも通りでいい。明日の会議とは、別の話だ」
「承知いたしました」
堂島の淡々とした対応に、俺は少し救われる思いがした。どれだけ重大な判断が待っていようと、日常は日常として、変わらず回り続ける。その当たり前さが、今はありがたかった。
夜、明日の会議に向けて、俺は自分の考えをノートに書き出してみた。不正は正す。だが、罪のない従業員の生活は守る。この二つを両立させる道を、まだ完全には見つけられていない。
ノートに書き殴った案の一つに、専務個人の引責と、会社そのものの存続を切り分ける、という方向性があった。完全な正解かどうかは分からない。それでも、今の自分に思いつく、精一杯の落としどころだった。
八月十八日、火曜日。証拠が、ついに動かしようのない事実として確定した一日。静かに積み上げてきた一か月あまりの時間が、明日、いよいよ次の局面へと進もうとしていた。窓の外の蝉の声は、まだ夏の盛りを思わせるほど賑やかだったが、季節はもう、確実に次へと移り変わろうとしている。




