第15話「八月十九日、水曜日」
臨時の役員会議は、午前十時に始まった。画面には、橘をはじめとする主要な役員七名の顔が並んでいる。前回の中間決算報告会よりも、明らかに緊張した空気が漂っていた。
「本日は、お集まりいただきありがとうございます」
俺の言葉に、橘が代表するように応じた。
「蓮司様。まずは、これまでの調査、お疲れ様でした。筆跡鑑定の結果については、すでに皆で共有させていただいております」
「資料には、目を通してもらえたか」
「はい、全員が事前に確認しております。かなり重い内容だという認識で、一致しております」
「では、本題に入る。桐生物産への対応について、それぞれの意見を聞かせてほしい」
最初に口を開いたのは、法務担当の役員だった。眼鏡の奥の視線は、資料の文字を追ったまま、こちらには向けられていない。長年の癖なのだろう、感情を交えず、事実だけを淡々と述べるその話し方に、俺は密かな信頼を寄せていた。
「法的な観点から申し上げますと、悪質性の高い不正会計であり、取引停止はもちろん、監督官庁への情報提供も検討すべき案件かと存じます」
「取引停止した場合、桐生物産の経営はどうなる」
「規模から見て、数か月以内の資金繰り悪化は避けられないかと。最悪の場合、倒産の可能性も否定できません」
次に、財務担当の役員が続く。
「一方で、桐生物産は地元自治体の公共事業を複数請け負っております。取引停止が即座の経営破綻につながれば、下請け企業や従業員、さらには地域経済にまで、大きな影響が及ぶ可能性がございます」
「従業員数は、把握しているか」
「正社員だけで、約百二十名。関連する下請け企業まで含めれば、数百人規模の生活に影響が及びます」
二つの意見は、正反対の方向を向いていた。法と秩序を重んじる立場と、現実的な影響を重んじる立場。どちらも、間違ってはいない。
「橘は、どう考える」
「私は、両者の折衷案を提案したく存じます。専務個人の引責辞任と、外部からの経営監視役の受け入れを条件に、取引継続の道を残す。ただし、不正の全容を自治体側にも開示し、透明性を確保する。これにより、法的な筋も通しつつ、地域経済への影響も最小限に抑えられるかと」
橘の提案に、俺はしばらく考え込んだ。他の役員たちも、それぞれ資料に目を落としながら、無言で反応を窺っている。
「経営監視役、というのは具体的に」
「一条グループから、財務と法務の専門家を各一名派遣し、今後三年ほど、経営体制の健全化を監督する形を想定しております」
「桐生物産側の負担は」
「監視役の人件費は、原則として一条グループ側が負担する形で調整可能かと」
「そこまでこちらが負担する理由は」
「不正の再発防止と、地域経済への影響緩和、双方に資する投資と考えております。長期的に見れば、決して高い代償ではないかと」
「専務が、その条件を受け入れる保証は」
「保証はございません。ですが、拒否すれば、我々との取引全体を失うことになります。桐生物産にとって、一条グループとの取引は、事業規模の三割近くを占めております。冷静に損得を考えれば、受け入れる可能性は高いかと」
「桐生蓮――専務の息子については」
思わず、その名前を口にしていた。役員の一人が、怪訝そうな顔をした。会議の議題とは直接関係のない名前が急に飛び出したことに、当然の反応だろう。
「息子さんの処遇については、我々が関与する範囲外かと存じますが」
「分かっている。ただ、この決定が、罪のない未成年にまで、不必要な形で及ばないようにしたい。それだけだ」
俺の言葉に、橘が小さく頷いた。
「承知いたしました。その点も踏まえ、開示の範囲や手法については、慎重に検討いたします。学校関係者への説明は不要かと存じますが、念のため、報道等で名前が出る可能性がある場合は、事前にご報告いたします」
「頼む」
議論は、さらに一時間ほど続いた。開示のタイミング、自治体との調整方法、従業員への説明責任。細部を詰めていくうちに、橘の提案を軸とした方針が、少しずつ形になっていった。法務担当の役員も、最終的には「透明性さえ確保されれば、この折衷案には賛成できる」と歩み寄りを見せた。財務担当の役員も、監視役の受け入れという条件に、一定の納得を示していた。
「では、この方針で進める。専務への通告は、いつ頃になる」
「準備が整い次第、来週にも。監査法人からの正式な最終報告書が届いてからになります」
「通告は、誰が行う」
「私が、蓮司様の代理として直接お伝えする形でよろしいでしょうか。一条グループの名を出さず、あくまで監査法人を通じた指摘という体裁を維持したく存じます」
「それでいい。頼む」
会議が終わり、画面が一つずつ暗転していく。最後まで残った橘が、静かに口を開いた。
「蓮司様。今回のご判断、私は正しかったと思います」
「まだ、結果は出ていない」
「結果がどうであれ、法と情理の両方を見据えようとする姿勢そのものが、大切なのだと存じます。旦那様にも、後ほどその旨、ご報告いたします」
「ああ、頼む」
「それと、これは私見でございますが――」
橘が、珍しく言葉を切った。
「今回のように、勝ち負けだけでなく、その先にいる人々の生活まで見据えたご判断は、経営者として何より貴重な資質かと存じます。臆せず、その姿勢を貫いていただければと」
思いがけない言葉に、俺は少し面食らいながら、短く応じた。
「肝に銘じる」
橘の画面も暗転し、通話が終わると、堂島が静かに茶を運んできた。
「お疲れ様でございました」
「ああ。長い会議だった」
「見事な采配だったかと存じます」
「まだ、何も終わっていない。これからが本番だ」
「仰る通りです。ですが、証拠を積み上げ、複数の立場から意見を募り、最善と思われる道を選ぶ――そのすべての過程を、蓮司様は誠実に果たされました。結果がどうあれ、その過程に悔いはないはずです」
堂島の言葉に、俺は静かに頷いた。悔いのない過程、という言葉が、今の自分には何より心強く響いた。
午後は、いつも通りの業務に戻った。決裁書類の確認、翌日の予定調整。会議の余韻を引きずりながらも、日常は変わらず続いていく。その落差に、俺は少しずつ慣れ始めていた。
合間に、相馬から届いていた課題の返信にも目を通した。地味な高校生として、二学期に向けた準備も、これまで通り怠るわけにはいかない。世界を左右しかねない判断を下した同じ日に、高校の宿題に取り組んでいる自分を、俺はどこか他人事のように眺めていた。
夕方、窓の外を見ると、夏の日差しが、心なしか和らいでいるように感じられた。八月も後半に差し掛かり、暦の上ではまだ夏だが、光の色にはすでに、秋の気配が混じり始めている。
夜、今日の会議を振り返りながら、俺はノートに書き殴った案を、静かに見返した。専務個人の引責と、会社の存続を切り分ける。あの日思いついた方向性が、橘の提案という形で、より具体的な輪郭を持つに至った。
ノートの端に、小さく「桐生浩一」と書き添えてみる。顔も知らない、会ったこともない男の名前。それでも、この一文字一文字が、これから多くの人の生活を左右することになる。その重みを、俺は改めて自分の手のひらで確かめるように、ペンを握り直した。
八月十九日、水曜日。証拠から判断へ、そして判断から行動へ。桐生物産を巡る一件が、いよいよ動き出そうとしていた。会議室という名の静かな戦場で下した決断が、来週には現実の出来事として、誰かの人生に届くことになる。その日が来るまで、俺にできることは、ただ静かに準備を整えることだけだった。




