第16話「八月二十五日、火曜日」
通告の日は、朝から曇っていた。
庭でのトレーニングを終えて空を見上げると、灰色の雲が低く垂れ込めている。蝉の声も、いつもより控えめに聞こえた。夏の終わりの空気というのは、こういうものなのかもしれない。
「おはようございます、蓮司様。橘様は、予定通り九時に桐生物産へ到着されました」
書斎に下りると、堂島がいつもの落ち着いた声で告げた。窓の外の曇り空が、部屋の中まで薄暗く染めている。
「監査法人の最終報告書は」
「先週金曜日に届いております。橘様が、その写しを携えて先方に赴かれました」
「先方の反応は、まだ何も入っていないな」
「はい。橘様からは、終わり次第ご連絡をいただく手筈です」
「そうか」
それ以上、言うことはなかった。俺はコーヒーを一口だけ飲み、タブレットに目を落とした。だが、画面の文字は、ほとんど頭に入ってこない。
この場にいない自分にできることは、待つことだけだ。証拠を積み上げ、方針を決め、橘に託した。あとは、結果を受け取るだけ。分かっているのに、時計の針の進みが、いつになく遅く感じられた。
「落ち着かれませんか」
「そう見えるか」
「少し」
堂島の短い返事に、俺は小さく息を吐いた。
「他人の人生を左右する決定を、自分の名前が出ない場所で下すというのは、妙な気分だ」
「その重さを感じておられること自体が、大切なことかと存じます」
「軽く感じるようになったら、終わりだろうな」
「仰る通りでございます」
堂島は、それ以上は何も言わず、空になったカップに静かに新しいコーヒーを注いだ。湯気がゆっくりと立ちのぼり、曇り空の光の中に溶けていった。
昼前、庭に出て、釣り竿の手入れをしてみた。何度も拭いた竿を、もう一度拭く。意味のない作業だと分かっていても、手を動かしていないと、余計なことばかり考えてしまいそうだった。
ふと、あの教室の光景が脳裏をよぎった。放課後の窓際で、結衣が桐生の腕に絡みついていた姿。取り巻きの笑い声。「その他大勢くん」という、悪気のない呼び名。あの日から一か月半、彼らは何も知らないまま、夏を過ごしてきた。そして今日、その足元が動く。
復讐だと思ったことは、一度もない。だが、無関係だとも、もう言い切れなかった。自分が何もしなくても、世界の側が勝手に動く。その仕組みの中心に、自分が座っている。その事実だけが、竿を握る手に、じっとりとした重みを与えていた。
昼食は、ほとんど喉を通らなかった。堂島は何も言わず、皿を下げるときにだけ、小さく頭を下げた。
午後一時過ぎ、父から短いメッセージが届いた。
『結果が出たら、報告は簡潔でいい。夜に聞く』
それだけの文面だった。突き放すようでいて、こちらの負担を減らそうとしているのだと、今なら分かる。俺は「承知しました」とだけ返し、端末を伏せた。
橘からの連絡が入ったのは、午後二時を回った頃だった。
「蓮司様、ただいま桐生物産を出ました。ご報告をお伝えしてもよろしいでしょうか」
「聞かせてくれ」
画面に映る橘の顔は、疲れの色こそ見えるものの、穏やかだった。
「先方には、社長の桐生剛造氏、専務の桐生浩一氏、それに顧問弁護士の三名が同席されました。応接室は古い建物の二階で、壁には創業当時の写真が飾られておりました。まず、監査法人の報告書を提示し、署名の鑑定結果をお示ししたところ、専務は最初、身に覚えがないと否定されました」
「予想通りだな」
「はい。ですが、資金の流れと書類の日付を一つずつ突き合わせていくうちに、次第に言葉を失われていきました。最後には、俯いたまま、何もお話しにならなくなりました」
俺は黙って、続きを待った。
「社長は、終始静かに聞いておられました。報告書を最後まで読み終えたあと、専務に向かって、たった一言、『何をしていたんだ』と」
橘の声が、わずかに低くなった。
「その後、社長ご自身から、条件の受け入れを申し出られました。専務の辞任、監視役の受け入れ、自治体への開示。すべて、その場でお答えいただきました」
「早いな」
「私も、正直驚きました。社長は、こうも仰っていました。『会社を守るためではなく、従業員を守るために、受け入れる』と」
その言葉が、胸の奥に静かに落ちた。桐生蓮の祖父にあたる人物が、孫の教室での振る舞いとは似ても似つかない、筋の通った判断を下したのだと知って、俺は少し意外な気持ちになった。
「顧問弁護士は、何か言ったか」
「異議を唱えようとされましたが、社長が手で制されました。『お前の仕事は、この人たちの話を聞くことだ』と」
「引き際を心得た人物だな」
「はい。創業者の血を引く方らしい、と感じました。ただ、ご自身の息子については、最後まで目を合わせようとなさいませんでした」
「専務は」
「辞表を、その場で書かれました。ペンを持つ手が、ひどく震えておりました。書き終えたあと、しばらく机に額を押しつけるようにしておられて、社長も弁護士も、声をかけられずにいました」
「……そうか」
「ただ、最後に一つだけ、私に尋ねられました。『これは、どなたの指示ですか』と」
「何と答えた」
「監査法人の指摘に基づく、当社としての判断だと。それ以上は、申し上げておりません」
「それでいい」
「もう一点。不正資金の一部が給与の穴埋めに回っていた件について、社長が、その経緯を従業員に隠さず説明するとお約束くださいました。専務個人の弁明としてではなく、会社の責任として、と」
従業員の生活のために動いた金が、結果として会社の信用を損ねた。その矛盾を、社長は受け止めたのだろう。橘の報告を聞きながら、俺はこの件に、単純な勝ち負けの色をつけることが、いよいよできなくなっているのを感じた。
通話を終えたあと、堂島が静かに口を開いた。
「お疲れ様でございました。ひとまず、山は越えたかと」
「山は越えた、か」
俺は窓の外に目をやった。いつの間にか、雲の隙間から、細い光が差し込んでいる。
「今後の手順は」
「明日以降、監視役の人選に入ります。財務と法務、各一名。人選は橘様にお任せいたしますが、蓮司様の最終確認は必要かと」
「分かった。資料が揃い次第、見せてくれ」
「それと、自治体への開示は、来週前半を予定しております。報道発表は行わず、担当部署への個別説明に留める方針です」
「妥当だな。無用に騒ぎを大きくする必要はない」
「はい。従業員の方々への説明も、社長ご自身が行われるとのことです」
二学期の始業まで、あと一週間足らず。世間が夏の終わりを惜しんでいるあいだにも、動き出したものは、静かに次の形へと移っていく。
桐生蓮は、今夜、家に帰って、何を知るのだろう。父親が会社を去ることになった事実を、彼はどんな顔で受け止めるのか。あの教室で見せていた、軽薄な笑顔のままではいられないだろう。
それを思うと、胸の奥が、かすかに疼いた。憐れみとも、後ろめたさとも違う、名前のつけられない感情だった。二学期が始まれば、俺はまた「佐藤蓮司」として、あの教室に座る。何も知らない顔で、何も変わらない顔で。その時、桐生の目に映る俺は、どんな姿をしているのだろうか。
夜、堂島が書斎の灯りを落としに来た。
「今夜は、早くお休みください」
「ああ。……堂島」
「はい」
「お前は、今日の判断を、どう思う」
「蓮司様のご判断は、誰の人生も踏みにじらず、それでいて筋を曲げないものでした。私に申し上げられるのは、それだけでございます」
それだけで、十分だった。
八月二十五日、火曜日。通告は、静かに終わった。だが本当に重いものは、これから、それぞれの家の中で、ゆっくりと形を取り始めるのだろう。夕暮れの空は、朝の曇り空が嘘のように、淡い橙色に染まっていた。夏は、もう終わろうとしている。




