第17話「九月一日、火曜日」
二学期の朝は、思っていたより静かに始まった。
裏道の桜並木の陰で、黒いセダンが音もなく停まる。後部座席から降りる直前、俺は眼鏡の位置を指先で直し、肩から力を抜いて背を丸めた。ドアが閉まる音が背中に響くころには、もう「佐藤蓮司」の顔ができあがっている。
「行ってらっしゃいませ、若様」
運転席から降りた堂島が、深く頭を下げた。俺は振り向かずに、小さく片手を上げただけで歩き出した。
校門へ向かう道には、夏休みの余韻を引きずった生徒たちの声があふれていた。日焼けした顔、伸びた髪、やけに大きな笑い声。誰も、俺の方など見ない。それが、三年間変わらない、この場所での俺の居場所だった。
昇降口で上履きに履き替えると、廊下の掲示板に、警備強化の通達が貼り出されていた。二学期の行事に伴い、外部の来訪者は事前登録制とする、という文面。あの草案が、正式な形になったのだろう。読み流して、教室へ向かう。
三年生の教室は、朝から騒がしかった。窓際の席で、結衣が友人たちに囲まれて笑っている。日焼けした肩、夏の間に少し明るくなった髪の色。俺が入ってきても、視線一つ動かなかった。
教室の中央では、武田と遠藤が机に腰かけて、旅行の自慢話をしている。その輪の少し外に、桐生の姿があった。
一目見て、違和感を覚えた。
いつもなら、教室の中心で一番大きな声を出しているはずの男が、今日は椅子に浅く腰かけたまま、窓の外を眺めている。取り巻きに何か言われて笑い返すが、その笑いは、どこか薄かった。目の下には、うっすらと影が落ちている。
あれから一週間。父親が会社を去ったことを、彼はもう知っているのだろう。どこまで、何を聞かされているのかは、分からない。
俺は自分の席に鞄を置き、何も見なかった顔で腰を下ろした。
「おい、佐藤」
頭の上から声が降ってきた。武田だった。
「久しぶりだな。夏休み、どうせ家でゴロゴロしてたんだろ」
「……はい、まあ」
「だよな。ついでに、購買でパン買ってきてくんね。焼きそばパンと、あと遠藤の分も」
当たり前のように、千円札が机の上に置かれた。三年間続いてきた、いつもの光景だ。
「今、始業式の前ですけど」
「だから何だよ。すぐ戻ってくれば間に合うだろ」
反論は、しない。それが「佐藤蓮司」だ。俺は千円札を受け取り、無言で立ち上がった。背後で、遠藤が「相変わらず使えるわ」と笑う声がした。
購買から戻る途中、廊下の角で、桐生とすれ違った。
彼は一人だった。珍しいことだった。俺の顔を見ても、いつものように「お、その他大勢くんじゃん」と声をかけてはこない。ただ、ぼんやりとした目で、こちらを一度だけ見て、通り過ぎていった。
その背中は、夏休み前よりも、少しだけ小さく見えた。
始業式は、体育館で行われた。
壇上に立った校長は、以前よりさらに顔色が悪かった。片手で腹のあたりを押さえながら、原稿に目を落として話し始める。
「えー、二学期を迎えるにあたり、皆さんには、本校の生徒としての誇りを持って――」
話の途中で、校長の視線が、ふと生徒の列の前方に向いた。桐生や結衣たちが並ぶ、いわゆる目立つ生徒たちの集団だ。その一角に、校長の目が留まったまま、しばらく動かない。
――やはり、あの中に「一条様」がいる、と思い込んでいるのだろう。
俺は列の後ろのほうで、猫背のまま、退屈そうに床を見つめていた。
「なお、今学期は、行事に際して警備体制を一層強化いたします。生徒の皆さんにおかれましては、ご理解とご協力を」
声が、途中で裏返った。校長は慌てて咳払いをし、額の汗を拭った。笑いを堪える生徒たちのざわめきが、体育館の高い天井に、小さく響いた。
始業式のあと、教室に戻ると、担任の三浦が出席簿を抱えて待っていた。三十代半ばの数学教師で、感情の起伏が少なく、誰に対しても同じ調子で話す人だ。
「はい、席に着いてください。二学期の主な予定を伝えます。体育祭は十月、学園祭は十一月。どちらも三年生にとっては最後の行事になります。準備の担当決めは来週のホームルームで行いますので、そのつもりで」
教室のあちこちで、歓声とため息が入り混じった。結衣が友人と顔を見合わせて、「実行委員やろうよ」と囁いているのが聞こえる。最後の行事、という言葉が、いつもより少しだけ重く耳に残った。
最後、か。俺にとっての最後は、卒業式まで、あと半年ほどしかない。
三浦の話が終わると、古文の大木が、待ち構えていたように教壇に立っていた。
「では、夏休みの課題を提出してもらう。前から順に回収する」
俺は鞄から、課題のプリントを取り出した。きちんと仕上げてある。提出を待つ列に並び、大木の手に、それを渡した。
大木は、プリントに一瞬だけ目を落とし、それから俺の顔を見た。
「佐藤。お前の字は、相変わらず汚いな。これでは読めん。やり直してこい」
「……読めない、ですか」
「聞こえなかったのか。やり直せと言っている」
プリントを突き返される。教室のあちこちから、忍び笑いが漏れた。
字が汚い、というのは事実ではない。大木の気に入らない誰かの、その代わりの標的が、俺だというだけのことだ。
「……分かりました」
俺は、静かにプリントを受け取って、席に戻った。腹は立たなかった。ただ、羅針盤のログには、今日もまた一行、記録が増えるのだろう。そう思うと、奇妙なほど、心は凪いでいた。
昼休みは、教室の隅で、購買のパンを一人で食べた。すぐ近くの席で、結衣たちが弁当を広げている。話題は、夏休みの海の写真と、二学期の体育祭のことばかりだった。
「ねえ、蓮、最近元気なくない? 夏休み終わってから、なんか変だよね」
「部活の疲れじゃない? 県予選、結構ハードだったし」
結衣は、そう答える友人の言葉に、「そうかなあ」と首をかしげた。その視線が、一瞬だけ窓の外の桐生の席に向き、また戻る。俺のいる方向には、最後まで一度も向かなかった。
彼女の世界に、俺はもう、存在していない。それでいいと、思う。
放課後、俺はいつものように、誰よりも遅く教室を出た。
廊下の窓から、夕方の光が差し込んでいる。階段を下りる途中で、下の踊り場に、桐生の姿があった。
彼は、壁にもたれるようにして、一人でスマートフォンを見つめていた。画面の光が、疲れた横顔を、青白く照らしている。
俺は足を止めなかった。彼の横を、何も言わずに通り過ぎる。
その時、背後から、かすかな声が聞こえた。
「……なあ、佐藤」
振り返らずに、足だけを止めた。
「お前さ、親父に何か言われたこと、ある? 将来のこととか、その……ちゃんとしろ、とか」
意外な問いに、俺は少しだけ間を置いた。
「……いえ。うちは、あまり」
「そっか。そうだよな。悪い、変なこと聞いた」
桐生は、それきり黙り込んだ。俺も、それ以上は何も言わず、階段を下りた。
昇降口を出て、校門をくぐる。裏道の桜並木まで歩くあいだ、背中に残った声の余韻が、なかなか消えなかった。
あの問いは、何だったのだろう。父親に、何か言われたことがあるか。ちゃんとしろ、と。家の中で、彼が今、何を聞かされているのか。その一端が、たった一言の中に、滲んでいた気がした。
同情をするつもりはない。けれど、教室で「その他大勢くん」と笑っていた少年と、階段の踊り場で弱い声を出していた少年が、同じ人間だということを、俺は初めて、はっきりと目にした。
黒いセダンの後部座席に乗り込むと、堂島が、いつもの静かな声で言った。
「お帰りなさいませ、若様。本日は、いかがでしたか」
「……いつも通りだ」
「古文の大木先生の件は、記録に上がっております。校長先生の始業式での様子も、あわせて」
「どちらも、放っておいていい」
「承知いたしました」
堂島は、それ以上は何も言わなかった。踏み込まない、この男の流儀に、今日ばかりは救われた気がした。
窓の外に目をやる。夕暮れの街並みが、ゆっくりと後ろへ流れていった。
九月一日、火曜日。何も変わらない教室に戻ったはずなのに、何かが、確かに違っていた。




