第18話「九月八日、火曜日」
二学期二週目の火曜日、六限目のホームルームは、いつもより落ち着かない空気で始まった。
黒板には、担任の三浦の几帳面な字で、「体育祭・学園祭 担当決め」と書かれている。教壇の横には、見慣れない中年の男が立っていた。灰色のスーツに、きっちり撫でつけた髪。教頭の篠原だ。年に数回、生徒の前に姿を見せるだけで、普段は職員室の奥で書類に埋もれている人物だった。
「本日は、行事の警備と来場者管理について、私から簡単に説明します」
篠原は、手元の紙に目を落としたまま、淡々と読み上げた。外部からの来訪者は、事前に登録した氏名の確認が必要になること。撮影は指定の区域に限ること。保護者であっても、例外は認めないこと。
「規則は、規則です。皆さんの安全のためですから、協力するように。校長の権藤も、そのように申しております」
権藤、という名前が出た瞬間、教室のどこかで、小さな笑いが起きた。始業式で声を裏返した校長の姿を、思い出したのだろう。篠原は、その笑いを咎めることも、拾うこともなく、軽く一礼して教室を出ていった。無駄のない、事務的な背中だった。
思えば、あの男は、校長のように取り乱したことが一度もない。堂島と「教頭の方が、よほど頼りになる」と言い合ったことを思い出し、その評価が、少しだけ実感を伴って、胸に残った。
「では、担当を決めます。まず、実行委員長から。立候補する人はいますか」
三浦の声に、真っ先に手が挙がった。結衣だった。
「はい、やります。最後の行事だし、みんなで盛り上げたいので」
拍手が起きた。結衣は、照れたように笑って、教室を見回した。その視線が、一瞬だけ桐生の席で止まり、すぐに離れた。
「じゃあ、副委員長は、桐生でいいんじゃね? サッカー部の顔だし」
武田が、いつもの調子で声を上げた。周囲が「いいじゃん」「蓮しかいないだろ」と同調する。
桐生は、机に頬杖をついたまま、しばらく黙っていた。それから、静かに手を下ろした。
「……悪い。俺、今回はパスするわ」
教室が、一瞬だけ静まった。
「え、何で。お前、去年も体育祭で仕切ってたじゃん」
「いや、ちょっと家のことでバタバタしててさ。表に出る係は、他のやつに頼むわ。裏方でいい」
桐生は、それだけ言って、また窓の外に目をやった。取り巻きたちは顔を見合わせたが、それ以上、踏み込む者はいなかった。結衣が、心配そうな目で彼を見ている。
副委員長には、別の女子が決まった。準備の担当は、装飾、会計、渉外、そして会場設営の四つに分かれ、順に希望者を募っていく。
装飾と渉外は、あっという間に埋まった。会計にも、数字に強い眼鏡の男子が手を挙げた。残ったのは、会場設営だった。机や椅子を運び、ステージを組み、当日は撤収まで走り回る、いわば雑用係だ。
「設営は、あと三人ほど必要ですね。誰か、いませんか」
誰も、目を合わせようとしない。俺は、席で猫背のまま、ノートの端を見つめていた。ここで手を挙げるのは「佐藤蓮司」らしくない。だが、残り物を押し付けられるのは、いかにも「佐藤蓮司」らしい。
「……俺、設営やるわ」
声を上げたのは、桐生だった。
教室が、また少しだけざわついた。
「マジで? お前が?」
「体力あるし、ちょうどいいだろ」
桐生は、それだけ言うと、椅子に深く座り直した。取り巻きたちの怪訝な視線を、気づかないふりで受け流している。
三浦が、名簿に桐生の名前を書き込み、それから、教室を見回した。
「あと二人。……ええと、佐藤君、お願いできますか。誰も手を挙げないようなので」
「……はい」
俺は、小さく頷いた。予想通りの展開だった。教室のあちこちで、忍び笑いが漏れる。
「あ、それと、遠藤君も。設営、体力ありそうなので」
「げ、俺かよ」
遠藤が大げさに嘆き、周囲が笑った。こうして、会場設営係は、桐生、遠藤、そして俺の三人に決まった。
ホームルームが終わって、教室が騒がしさを取り戻したころ、桐生が、俺の席の横を通りかかった。
「よろしくな、佐藤」
それだけ言って、彼は、教室を出ていった。嫌味も、嘲笑も、その声にはなかった。ただ、疲れた人間の、乾いた挨拶だった。
俺は、返事のタイミングを失ったまま、その背中を見送った。三年間、あの男の口から、名前を呼ばれたことは一度もなかった。「その他大勢くん」か、「陰顔」か、そうでなければ、呼ばれることすらなかった。それが、今日は、佐藤、と、たった二文字で呼ばれた。それだけのことが、妙に耳に残った。
その日の掃除の時間、廊下の隅で、結衣と桐生が話しているのが、視界の端に入った。
「ねえ、蓮。何かあったなら、言ってよ。最近ずっと、変だよ」
「何もねえよ。ただ、疲れてるだけだ」
「うそ。……私、心配してるんだけど」
「分かってる。ありがとな。でも、本当に、大丈夫だから」
桐生の声は、優しかったが、どこか遠かった。結衣はまだ何か言いたそうにしていたが、やがて、唇を結んで、その場を離れた。彼女の背中が、少しだけ寂しそうに見えた。
俺は、ほうきを動かす手を止めずに、その光景を、聞こえなかったことにした。二人の間で何が起きようと、俺の知ったことではない。そう自分に言い聞かせながら、なぜか、胸の奥に小さな棘が残った。
放課後、いつもの裏道で、黒いセダンが待っていた。
「お帰りなさいませ、若様。本日は、いかがでしたか」
「……設営係になった」
「左様でございますか」
「桐生も、同じ係だ」
バックミラー越しに、堂島の目が、わずかに動いた。
「偶然、でしょうか」
「偶然だ。俺は、何もしていない」
「承知いたしました」
車が走り出す。窓の外を、夕方の街並みが流れていく。しばらくして、堂島が、思い出したように口を開いた。
「桐生物産の件ですが、今週月曜より、監視役のお二方が着任されました。財務担当の氷室氏、法務担当の神谷氏です。自治体への説明も、先週のうちに滞りなく終わっております」
「反応は」
「担当部署は、驚きつつも、透明性のある対応を評価しているとのことです。報道には出ておりません」
「そうか」
従業員への説明会は、社長の剛造が自ら行ったという。壇上で深く頭を下げ、給与遅配の経緯を隠さず語った、と。会場は静まり返り、やがて、あちこちから「社長、頭を上げてください」という声が上がったそうだ。
「会社は、残るんだな」
「はい。少なくとも、当面は。なお、専務であられた浩一氏は、現在、ご自宅で静養されているとのことです。今後の処遇は、社長が別途決められるようです」
「静養、か」
「表向きは、そういう扱いのようです」
それを聞いて、胸の奥の、固く締まっていたものが、少しだけ緩んだ気がした。同時に、その家の中で、今夜も誰かが、静かに息を潜めているのだろうという想像が、胸の別の場所を、そっと押した。
屋敷に戻り、制服を脱いで、いつもの服に着替える。鏡の前で伊達眼鏡を外し、素の顔に戻る。
ふと、今日の桐生の横顔を思い出した。「裏方でいい」と言った時の、あの乾いた声。かつて教室の中心にいた男が、自分から、表舞台を降りていった。
その隣で、俺は、来月の体育祭に向けて、机と椅子を運ぶことになる。誰も想像しなかった、奇妙な並びだった。
夕食のあと、書斎の窓辺に立って、庭を眺めた。夏の名残の虫の声が、まだ弱々しく続いている。釣り竿は、部屋の隅の、いつもの場所に立てかけてあった。
あの湖の静けさを、ふいに思い出した。何も決めず、何も背負わず、ただ水面を眺めていた一日。あの時間の中に、桐生の乾いた声も、結衣の寂しそうな背中も、入り込む余地はなかった。今は、そのすべてが、現実の側に立って、こちらを見ている。
逃げるつもりはない。ただ、この夏に積み上げたものの重さを、これからは、教室という小さな場所で、毎日のように思い知らされることになる。それを、静かに覚悟した。
九月八日、火曜日。桐生蓮と、机を並べて運ぶ日々が、始まろうとしていた。




