第19話「九月十四日、月曜日」
放課後、校庭の隅にある倉庫の前で、俺は初めて、桐生と二人だけになった。
設営係の仕事は、思っていたより地味だった。体育祭で使う得点板や、来賓用のテントの骨組み、放送設備のコードを、倉庫から運び出して整理する。汗の滲む単純作業の連続だ。遠藤は今日、部活の用事で早退していて、この時間は二人だけだった。
先週の顔合わせでは、三人とも、ぎこちない距離感のまま作業を終えた。遠藤は相変わらず武田や桐生の顔色を窺うような口調で喋り、俺は普段通り、口数少なく指示に従うだけだった。だが今日、遠藤がいないというだけで、空気が少しだけ違って感じられた。
「これ、重いな」
得点板の脚を持ち上げながら、桐生が声を上げた。木製の古い板で、見た目以上に重量がある。
「持ちます」
俺が反対側を持つと、桐生は少し驚いたように、こちらを見た。
「お前、意外と力あるんだな」
「……そうですか」
三年間、猫背で通してきた身体でも、多少の腕力は隠しきれないらしい。少し気を抜きすぎたかと、俺は内心で反省した。次からは、もう少し重そうなふりをしよう、と場違いなことを考える。
得点板を校庭の端まで運び終えると、次はテントの骨組みだった。錆びかけたパイプを一本ずつ運び出し、地面に並べていく。単調な作業だったが、二人で黙々と手を動かしていると、不思議と気詰まりな感じはしなかった。
二人で得点板を運び、校庭の端に立てかける。それを何度か繰り返すうちに、自然と会話が生まれた。会話というより、雑談に近いものだった。
「なあ、佐藤」
「はい」
「お前、いつも一人で帰ってるけど、家って近いのか」
「……そこそこ、です」
嘘ではない。校門から少し歩いた場所に、車が待っているのだから。
「そっか。俺は自転車。片道、二十分くらいかかる」
桐生は、汗を拭いながら、そう答えた。取り巻きに囲まれている時とは違う、飾らない声だった。
テントの支柱を並べ終えると、桐生は、倉庫の壁にもたれて、水筒の水を飲んだ。しばらく無言の時間が続いたあと、彼が、ぽつりと言った。
「……佐藤って、親父さんと、仲いい方?」
先週の階段での問いと、同じ方向の質問だった。俺は、少し言葉を選んだ。
「……仲がいいかは、分かりません。ただ、話はします」
「そっか。いいな」
「桐生さんは」
初めて、こちらから尋ねてみた。桐生は、一瞬だけ驚いた顔をして、それから、小さく笑った。
「さん、はいらねえよ。……うちの親父、今、家にいないんだ。しばらく、療養するとかで」
「療養、ですか」
「会社の仕事で、色々あったらしい。俺には、詳しいことは教えてくれねえけど」
桐生は、乾いた笑いを漏らした。自嘲でも、強がりでもない、ただ疲れた笑い方だった。俺は、続く言葉を、静かに待った。
「そうなんですか」
「詳しいことは、俺もよく分かんねえ。ただ、家の空気が、なんか重くてさ。じいちゃんも、いつもより無口になった」
桐生は、それ以上は語らなかった。俺も、それ以上は聞かなかった。知っている事実を、知らないふりで受け止める。それが、今の自分にできる、唯一のことだった。
テントの布を畳みながら、桐生が、独り言のように続けた。
「じいちゃんが、従業員のみんなに頭下げたらしいんだ。あの人が、そんなことするの、初めて見た人ばっかりだったって」
「……そうですか」
「なんか、家族なのに、俺だけ蚊帳の外って感じでさ。情けねえよな」
桐生は、自分に言い聞かせるように、小さく笑った。俺は、何も言えなかった。この状況を作った一端が、他ならぬ自分にあることを、桐生は知らない。知らないまま、目の前で、素の弱さをさらけ出している。
「学校では、いつも通りにしてる方が、楽なんだよな」
「……分かります」
その一言だけは、心から言えた。三年間、そうやって過ごしてきた自分がいる。
「お前、なんか、話しやすいな」
桐生が、ふと漏らした一言に、俺は少し戸惑った。
「そうですか」
「うん。他のやつらは、俺のこと見ると、気ぃ遣うか、逆にヘラヘラするかのどっちかだから。結衣も、心配してくれてるのは分かるけど、正直、今はそっとしておいてほしいんだよな」
結衣の名前が、思いのほか自然に出てきたことに、俺は少し驚いた。二人の間にも、夏の前とは違う距離が生まれているのかもしれない。
「お前は、変に気ぃ遣わないから、楽だわ」
それは、これまで浴びせられてきたどんな言葉とも違う、ただの本音だった。俺は、何も答えなかった。答え方が、分からなかった。
作業を終えて倉庫の鍵を返す頃には、日はすっかり傾いていた。校舎の窓に、オレンジ色の光が反射している。
「じゃあな、佐藤。また明日」
「……お疲れ様でした」
桐生は、自転車置き場の方へ歩いていった。その背中を見送りながら、俺は、妙な感覚に包まれていた。
三年間、俺を見下し、パシリのように扱ってきた男。その父親の人生を、静かに変えてしまった張本人が、今、目の前で「話しやすい」と笑っている。
これは、罪悪感なのか。それとも、別の何かなのか。考えてみても、答えは出なかった。ただ、はっきりしているのは、あの教室で見下されていた頃の自分なら、今日のようなやり取りを、想像すらできなかっただろうということだ。人は、立場が変われば、こんなにも簡単に、違う顔を見せるものなのか。それとも、桐生の中の何かが、この夏を境に、本当に変わったのか。
名前のつけられない感情を抱えたまま、俺は校門へ向かった。
裏道の桜並木に着くと、黒いセダンが、いつも通り音もなく待っていた。
「お帰りなさいませ、若様。本日は、いかがでしたか」
「……桐生と、少し話した」
「左様でございますか」
「あいつ、親父のことで、家が重い空気だと言っていた」
堂島は、それ以上、何も聞かなかった。ただ、バックミラー越しに、一瞬だけ、こちらを見た。
「蓮司様は、それを聞いて、どう感じられましたか」
俺は、しばらく答えられなかった。
「……分からない。ただ、あいつを嫌いだと思う気持ちが、前より、薄くなった気がする」
「それは、悪いことではないかと存じます」
「そうか」
「ええ。憎しみを持ち続けることより、目の前の相手を、ありのままに見ようとすることの方が、よほど難しく、そして意味のあることかと」
堂島にしては、珍しく踏み込んだ物言いだった。俺は、それについて何も返さず、ただ、その言葉を胸の内で繰り返した。
車が走り出す。窓の外を、夕暮れの街並みが流れていく。
自分が下した判断の先に、こうして誰かと言葉を交わす日が来るとは、思ってもみなかった。復讐でも、同情でもない、名前のない距離感が、少しずつ、変わり始めている。
九月十四日、月曜日。設営係という、誰も望まなかった係の中で、俺は、思いがけない何かを見つけ始めていた。体育祭本番までは、まだ一か月ある。その間、何度、こうして桐生と二人きりになる時間が訪れるのだろう。想像すると、これまで感じたことのない、落ち着かない気持ちになった。悪い意味ではなく、ただ、未知の感覚として。




