第20話「九月十八日、金曜日」
放課後、昇降口で靴を履き替えていると、背後から声をかけられた。
「……ねえ、佐藤くん」
振り返ると、結衣が立っていた。夏休み前までは、毎日のように隣にいた顔。今は、教室の反対側の席から、視界に入ることすら稀になった顔だった。
「はい」
「急にごめん。ちょっと、聞きたいことがあって」
彼女が、俺に話しかけてくるのは、あの放課後――別れを告げられたあの日以来、初めてのことだった。武田や遠藤の陰で見え隠れする笑い声はあっても、結衣本人と、面と向かって言葉を交わす機会は、これまで一度もなかった。
「蓮のこと、なんだけど」
やはり、そうか。俺は、表情を変えないよう努めながら、先を促した。
「桐生さんが、どうかしましたか」
「最近、様子おかしいの、佐藤くんも気づいてるでしょ。設営係、一緒なんだよね」
「……はい」
「なんか、話してた? 家のこととか」
その問いに、俺は一瞬、答えに詰まった。桐生本人が語ったことを、ここで漏らすわけにはいかない。だが、まったく何も知らない顔をするのも、不自然だった。
「少しだけ。詳しいことは、俺も聞いてません」
「そっか……」
結衣は、視線を落とした。夏の間に見た、屈託のない笑顔とは違う、翳りのある表情だった。
「私、何度も聞いたんだけど、はぐらかされてばっかりで。彼女なのに、何も教えてもらえないの、正直、しんどくて」
彼女なのに、という言葉が、思いのほか鈍い響きで耳に届いた。かつて自分にも向けられていたはずの立場を、今は結衣自身が、持て余している。
「心配なんですね」
「当たり前でしょ。……あ、ごめん、佐藤くんに愚痴るようなことじゃないよね」
「いえ」
結衣は、少し気まずそうに、髪を耳にかけた。
「佐藤くんって、こうやって普通に話すの、久しぶりだね」
「……そうですね」
久しぶり、という言葉の軽さに、俺は内心、苦笑した。彼女にとって、あの別れは、もう「久しぶり」で済ませられる程度の出来事になっているらしい。それに、傷つく自分はもういない。ただ、事実として、そのことを確かめただけだった。
結衣は、少し居心地悪そうに、鞄の持ち手をいじった。
「その……あの時のことも、今更だけど、ちゃんと謝ってなかったなって。ごめんね」
予想していなかった一言だった。俺は、少し間を置いてから答えた。
「もう、気にしてません」
「そっか。……ならよかった」
結衣は、ほっとしたように、小さく息を吐いた。かつて自分を傷つけたはずの言葉を、こうして詫びられる日が来るとは、思ってもみなかった。だが、その詫びに対して湧いてくる感情は、驚くほど平坦なものだった。
「もし、蓮が何か話すことあったら、教えてくれる? その、変な意味じゃなくて」
「約束は、できません」
思いのほか、はっきりとした声が出た。結衣が、驚いたように目を見開く。
「桐生さんが話したいことは、桐生さんが決めることだと思うので」
三年間、誰にも本音を明かさずに生きてきた自分が、こんな言葉を口にするとは思わなかった。だが、桐生の弱さを、誰かに勝手に売り渡すような真似だけは、したくなかった。
「佐藤くん、前から思ってたけど、意外と芯強いよね」
結衣が、驚いたような、感心したような表情で、そう言った。三年間、誰もそんな評価を、俺に向けたことはなかった。芯が強い、という言葉が、かつて「その他大勢くん」と呼ばれていた自分に向けられることの、奇妙な落差を、俺は静かに噛みしめた。
「……そう、だよね。ごめん、変なこと聞いた」
結衣は、力なく笑って、頭を下げた。
「ありがとう、佐藤くん」
彼女は、それだけ言って、昇降口を出ていった。その背中を見送りながら、俺は、妙な感慨に包まれていた。
かつて「便利な相手」としてしか見られていなかった自分に、今、彼女は「相談できる相手」として声をかけてきた。皮肉なものだと思う。だが、それ以上に、感情の動きが薄いことに、自分でも驚いていた。
校庭に回ると、桐生が一人で、テントの骨組みを片付けていた。今日は遠藤も一緒だったが、先に帰ったらしい。
「悪い、遅くなった」
「別にいいけど。誰かと話してたのか」
「……結衣さんです」
桐生の手が、一瞬止まった。パイプを持ったまま、しばらく動きを止め、それから、ゆっくりと地面に下ろした。
「あいつ、お前に何か言った?」
「桐生さんのこと、心配してました」
「そっか」
桐生は、それだけ言って、また作業に戻った。何かを聞きたそうな、それでいて聞くのを避けているような、微妙な沈黙が流れた。
「……俺、あいつに、ちゃんと話した方がいいのかな」
珍しく、弱気な問いだった。俺は、少し考えてから答えた。
「話すかどうかは、桐生さんが決めることだと思います。ただ、心配されるのが嫌じゃないなら、少しくらいは、話してもいいんじゃないですか」
「嫌ってわけじゃ、ないんだけどな」
桐生は、頭をかきながら、苦笑した。
「ただ、情けない自分を見せるのが、怖いんだと思う」
その一言は、思いのほか率直だった。
「情けない、とは思いません」
「え?」
「家族のことで悩むのは、当たり前のことです。それを隠そうとする方が、よほど無理をしてると思います」
自分の口から出た言葉に、俺は少し驚いた。誰かにかける言葉として、これほど率直なものを口にしたのは、久しぶりだった。桐生は、しばらく黙って、こちらを見ていた。
「……お前、意外と、いいこと言うんだな」
「そうですか」
「うん。ちょっと、考えてみる」
桐生は、それだけ言うと、また作業に戻った。俺も、何も言わず、次の荷物を運び始めた。
作業を終え、裏道の桜並木に向かう途中、俺は、今日のやり取りを頭の中で反芻していた。結衣にも、桐生にも、自分の立場を明かさないまま、それぞれの弱さに触れている。奇妙な位置に、自分は立っているらしかった。
三年間、俺は誰からも「一人の人間」として見られたいと願いながら、その願いを、誰にも打ち明けたことがなかった。今日、結衣と桐生、それぞれと交わした言葉は、決して深いものではない。それでも、二人とも、俺という存在を、これまでとは違う目で見た気がする。それが、良いことなのか、危ういことなのか、まだ判断がつかなかった。
黒いセダンに乗り込むと、堂島が、いつもの調子で尋ねてきた。
「本日は、いかがでしたか」
「……結衣に、声をかけられた」
堂島の眉が、わずかに動いた。
「桐生様の件で、でしょうか」
「ああ。何も話さなかったが」
「賢明なご判断かと存じます」
「結衣は、俺に謝ってきた。あの日のことを」
堂島は、少し間を置いてから、答えた。
「どのように、お感じになりましたか」
「……特に、何も。もう、終わったことだ」
「左様でございますか」
堂島は、それ以上、何も聞かなかった。踏み込まない、この男らしい態度が、今日はいつもより、ありがたく感じられた。
車が走り出す。窓の外を、夕暮れの光が流れていった。
九月十八日、金曜日。かつての恋人と、かつての加害者。その両方から頼られる立場に、俺は今、静かに立っていた。




