第21話「九月二十二日、火曜日」
朝のホームルーム前、教室にざわめきが広がっていた。
「なあ、聞いた? 桐生物産、なんか不正会計とかで揉めてるらしいぞ」
声の主は、武田だった。スマートフォンの画面を得意げに見せながら、周りの数人に話しかけている。
「うちの親、地元の建設業界に知り合いいてさ。専務が辞めさせられたとか、なんとか」
「え、それってマジ?」
「知らねえけど、結構本気っぽい噂だったぞ」
周りの数人が、スマートフォンを覗き込みながら、あれこれ憶測を口にし始める。「取引先に何かあったんじゃね」「桐生、大丈夫かよ」――悪気のない好奇心が、少しずつ輪を広げていく。
教室の後方、桐生の机の周りだけ、空気が変わった。彼は、机に突っ伏すように顔を伏せ、何も言わなかった。
「おい桐生、お前んち大丈夫かよ」
武田が、悪気のない調子で声をかける。桐生は、顔を上げずに、短く答えた。
「……さあな。俺も、よく知らねえよ」
その声は、いつもより硬かった。武田は、それ以上は深追いせず、話題を次の噂へと移していった。教室の空気は、すぐにいつもの喧騒に戻る。だが、桐生の周りにだけ、薄い膜のような沈黙が、しばらく残っていた。
俺は、自分の席で、その光景を見ていないふりで見ていた。地域の噂として広まり始めているという事実に、内心、小さな緊張が走る。監査法人の指摘、という体裁で処理したはずの一件が、どこかから漏れ出しているのだろうか。
担任の三浦が教室に入ってくると、ざわめきは一旦収まったが、休み時間になれば、また同じ話題が蒸し返されるのは目に見えていた。結衣が、心配そうな顔で、桐生の席をちらちらと窺っているのにも、俺は気づいていた。
昼休み、購買から戻る途中の廊下で、桐生に声をかけられた。
「佐藤、ちょっといいか」
人気の少ない階段の踊り場に、彼は俺を連れていった。
「さっきの、噂……お前も、聞いただろ」
「はい」
「実は、もう本当のことなんだ。親父、会社辞めた。じいちゃんから、直接聞いた」
知っている事実を、初めて本人の口から聞かされる。俺は、驚いたふりをするべきか迷いながら、短く答えた。
「……そうだったんですか」
「土曜の夜、じいちゃんに呼ばれて、家族全員で話した。親父は、隣の部屋にいたけど、最後まで出てこなかった」
桐生は、階段の手すりに寄りかかりながら、淡々と続けた。まるで、他人の話をするような、少し距離を置いた口調だった。
「じいちゃんが、資料見せながら、全部説明してくれた。給料が遅れてた時期があって、それを誤魔化すために、変なことに手ぇ出したって」
「……そうですか」
「情けねえよな。うちの親父」
桐生は、そう言って、乾いた笑いを漏らした。怒りとも諦めとも違う、複雑な響きだった。
「監査が入って、不正が見つかったんだと。じいちゃんは、『会社は潰さない、みんなを守る』って、それだけ言ってた」
桐生の声は、思いのほか落ち着いていた。あの家庭の重い空気の中で、彼なりに、事実と向き合う時間があったのかもしれない。
「結衣さんには」
「……この前、話した」
思いがけない答えだった。
「お前に言われたこと、考えたんだ。隠す方が無理してるって。だから、全部じゃないけど、少しだけ、話した」
「どんな反応でしたか」
「泣かれた。心配かけて、ごめんって謝られた」
桐生は、照れくさそうに、鼻の頭をかいた。
「情けないとこ見せんの、やっぱ怖かったけど。話してみたら、案外、楽になった」
「良かったです」
「お前のおかげだよ、正直。……こういうこと、面と向かって言うの、柄じゃねえけどさ」
桐生は、少し気恥ずかしそうに、視線を逸らした。三年間、見下されるだけの関係だった相手から、感謝の言葉をかけられる日が来るとは、想像もしていなかった。俺は、どう応じていいか分からず、ただ小さく頷いた。
その言葉に、俺は、小さな安堵を覚えた。自分が下した判断の先で、こうして誰かが、少しずつ前を向いている。その事実は、これまでのどんな決算報告よりも、確かな手応えがあった。
「噂については、どうするつもりですか」
「どうしようもねえだろ。広まるもんは、広まる。ただ、変に隠して、後でバレる方が、よっぽど恥ずかしいと思うようになった」
「武田さんたちには」
「聞かれたら、正直に話すつもり。隠して、あとでコソコソ言われる方が、よっぽど嫌だしな」
その言葉に、俺は少し驚いた。三年間、誰かの目をひどく気にして生きてきた自分にとって、その開き直りにも似た覚悟は、まぶしいものに映った。
「サッカー部の方は、大丈夫なんですか」
「監督には、もう話した。『家のことで色々あるかもしれないけど、プレーには関係ねえだろ』って、それだけだった。あの人、そういうとこ、あっさりしてて助かる」
桐生は、そう言って、階段を下りていった。その背中に、以前のような軽薄さはなく、代わりに、少しだけ大人びた芯のようなものが見えた。
放課後、いつもの裏道で、堂島が待っていた。
「本日は、いかがでしたか」
「学校で、桐生物産の噂が広まっていた。地元の建設業界から、漏れているらしい」
堂島の表情が、わずかに引き締まった。
「その件については、私の方でも把握しております。自治体経由で、関係者の間に情報が広がったようです。報道には至っておりませんが、地域内では、ある程度の噂として流れている模様です」
「対策は」
「特には。事実に基づいた噂であれば、無理に抑え込む必要はないかと。むしろ、隠蔽よりも、事実が自然に伝わる方が、長期的には信頼につながります」
「学園側の反応は」
「篠原様より、生徒間で噂が出ている旨、簡単な報告が上がっております。校長先生は、まだ気づいておられないようです」
「相変わらずだな」
「はい。ある意味、ありがたいことかと存じます」
堂島の言葉に、俺はわずかに口元を緩めた。校長の鈍さが、今日も静かに、こちらの秘密を守ってくれている。
「桐生蓮は、もう知っている。結衣にも、少しだけ話したそうだ」
「そうですか」
「あいつ、思ったより、しっかりしてきている」
堂島は、静かに頷いた。
「人は、逆境の中でこそ、本当の芯を見せるものかもしれません」
「……お前が言うと、説得力あるな」
「恐れ入ります」
堂島は、珍しく、ほんの少しだけ表情を緩めたように見えた。気のせいかもしれなかったが、それを確かめる野暮なことはしなかった。
車が走り出す。窓の外の景色が、いつもより少しだけ、鮮やかに見えた気がした。夏の終わりに下した判断が、こうして誰かの中で、静かに形を変えていく。その一部始終を、間近で見届けられていることに、俺は不思議な充実感を覚えていた。
九月二十二日、火曜日。隠していたものが、少しずつ表に出始めている。それを恐れるのではなく、受け止めようとする人間の姿を、俺は今日、間近で見た。




