第22話「九月二十七日、土曜日」
土曜日の朝、庭でのトレーニングを終えると、堂島が珍しく、少し改まった様子で書斎に立っていた。
「蓮司様。本日、旦那様がこちらにいらっしゃいます」
「父上が? こちらに?」
俺は、思わず聞き返した。父が、視察先や別の拠点からではなく、直接この屋敷を訪れることは、この三年間で数えるほどしかない。
「はい。午後一時にご到着の予定です。特に、御用件は伺っておりません」
「珍しいな」
「はい。ですが、桐生物産の件が落ち着いた今、何か思うところがおありなのかもしれません」
午前中は、いつも通りの業務に費やされた。だが、頭の片隅には、常に父の来訪のことがあった。ノートに書き殴った案が、こうして一つの結末を迎えたことを、直接伝えたい気持ちもあった。
父が到着したのは、時間ぴったりだった。黒塗りの車が、正面玄関に静かに停まる。堂島に案内されて書斎に入ってきた父は、いつもの隙のないスーツ姿だった。
「久しぶりだな、蓮司」
「はい。わざわざ、こちらまで」
「たまには、直接顔を見て話したくてな」
父の顔を、こうして直接見るのは、随分と久しぶりだった。画面越しではなく、実際に対面すると、いつもより少しだけ、疲れの色が見える気がした。
父は、ソファに腰を下ろした。堂島が、静かに茶を運び、それから、目立たぬように部屋の隅に控えた。
「桐生物産の件、後始末は順調のようだな」
「はい。監視役の二名も、問題なく機能していると聞いています」
「橘から、詳しい経緯は聞いた。専務個人の引責と、会社の存続を切り分ける判断。悪くなかった」
父の評価は、いつも簡潔だった。だが、その一言に込められた重みを、俺はもう、正確に測れるようになっていた。
「それと」
父は、少し間を置いてから、続けた。
「以前、お前に聞かれたな。俺にも、お前と似たような立場にいた時期があったか、と」
不意に、あの日のやり取りが蘇った。橘の言葉をきっかけに、思い切って尋ねた問い。あの時、父は「いずれ、時が来たら話す」とだけ答えていた。
「はい」
「今日、その話をしに来た」
俺は、姿勢を正した。堂島も、部屋の隅で、静かに気配を消していた。
「俺が高校三年の頃だ。今のお前と、同じように、正体を隠して学園に通っていた。当時の一条グループは、今よりずっと規模が小さかったが、それでも、同じ理由で、同じ約束を、俺の父――お前の祖父と交わしていた」
「祖父上も、同じことを」
「ああ。三代続く、一条家のしきたりのようなものだ。表向きの理由は、世間を知るため。だが、本当の理由は、もう少し複雑だった」
「複雑、とは」
「権力の使い方を、若いうちに間違えないようにするための、いわば通過儀礼だ。何も持たない人間として過ごす経験がなければ、力の重さを、頭でしか理解できなくなる。祖父の代でも、同じ失敗があったらしい」
三代にわたって、同じ轍を踏み、同じように学び直してきたのだと知って、俺は、この家の歴史の重さを、改めて感じた。
父は、珍しく、視線を宙に漂わせた。
「俺の代では、ある取引先の不正が、今回のお前の件と、よく似た形で発覚した。ただし、俺の場合は、判断を誤った」
「誤った、とは」
「感情に流された。相手の会社を、必要以上に厳しく追い詰めた。結果、罪のない従業員まで、大勢が職を失った」
父の声は、いつもと変わらず抑揚がなかった。だが、その内容は、俺が想像していたよりも、はるかに重いものだった。
「後になって、その判断が、正しさよりも、当時の自分の怒りを優先させたものだったと気づいた。今でも、あの時の従業員たちの顔を、時々思い出す」
「何人くらい、影響が」
「正確な数字は、もう覚えていない。だが、三桁には届いていたはずだ」
その数字の重さに、俺は言葉を失った。父の抑揚のない声の裏に、長年抱えてきたであろう痛みが、静かに滲んでいた。
「……だから、俺には」
「ああ。憶測で動くな、証拠を積み上げろ、感情と判断を切り分けろ――お前に何度も言ってきたことは、すべて、俺自身が犯した過ちの、裏返しだ」
俺は、しばらく言葉を失っていた。父という人間の、これまで見えていなかった一面が、静かに姿を現していた。完璧に見えていた父にも、取り返しのつかない過去があった。
「今回のお前の判断を聞いて、思った。俺が三年前にできなかったことを、お前は、きちんと成し遂げた。それを、伝えておきたかった」
「三年前、ではないのですか」
「言い間違いだ。……いや、正確には、俺がその立場にいたのは、お前の年齢の頃だから、もう三十年近く前になる」
父の目元に、一瞬、遠くを見るような色が浮かんだ。三十年という歳月を、この人は、あの後悔とともに歩んできたのだろうか。
「……ありがとうございます」
それ以外の言葉が、見つからなかった。
「橘が、お前の判断を『俺の若き日を思わせる』と評したそうだな」
「はい」
「あいつは、昔のことを知っている数少ない人間の一人だ。皮肉なものだが、正しい判断をしたお前を見て、若き日の俺を思い出したというのは、複雑な気分だよ」
「橘さんは、その頃から」
「ああ。あの頃、まだ若手だった橘が、俺の判断ミスの後始末に、誰よりも奔走してくれた。今のあいつが、お前に対してあれほど誠実なのも、多分、あの頃の反省があるからだろう」
橘の、あの折衷案を導き出すまでの丁寧な議論の進め方が、脳裏に蘇った。あの慎重さの裏に、そんな過去があったとは、思いもよらなかった。
父は、そう言って、珍しく、小さく笑った。堂島が、その様子を見て、わずかに目を細めたのが分かった。
「父上」
「何だ」
「話してくださって、ありがとうございます」
父は、少しの間、こちらを見つめていた。それから、静かに頷いた。
「卒業後のことで、一つ、伝えておくことがある。ただし、今は話さない。三年間の約束が終わるまでは、お前は、ただの高校生でいろ」
「……承知しました」
含みのある言い方だったが、問い返す気にはならなかった。父が「今は話さない」と言うからには、それなりの理由があるのだろう。
「今日はもう行く。次は、卒業式の日にでも会おう」
父は、それだけ言って、立ち上がった。玄関まで見送る間、多くの言葉は交わされなかった。それでも、これまでとは違う何かが、確かに二人の間に生まれていた。
車に乗り込む直前、父は、ふと振り返った。
「蓮司」
「はい」
「残り半年ほどだが、無理はするな。お前が思っている以上に、お前はもう、十分に成し遂げている」
それだけ言うと、父は、車に乗り込んだ。黒いセダンが、静かに走り去っていく。その後ろ姿を、俺はしばらく見送り続けた。
車が去ったあと、堂島が静かに口を開いた。
「旦那様が、あそこまでお話しになるのは、私も初めて見ました」
「そうか」
「蓮司様の成長を、旦那様なりに、認めておられるのだと思います」
「そうだといいが」
「間違いございません。長年お仕えしてきた私が、申し上げているのですから」
堂島の言葉には、珍しく、確信めいた響きがあった。俺は、それ以上、何も言わず、ただ静かに頷いた。
窓の外を、夕方に近づいた光が、柔らかく照らしていた。書斎の机の上には、父が残していった、何気ない湯呑みの跡だけが、その来訪の証として残っていた。
九月二十七日、土曜日。完璧だと思っていた父の中にも、悔いと、それを乗り越えようとする意志があった。その事実を知った今、俺は、少しだけ、父という人間に近づけた気がした。




