第八十二話 学院襲撃
【 緋鋼皇國暦1003年 覇竜12年 3月8日 銀狼曜日 0:16 水晶湖 】
学院校舎の向こう側で、光が弾けた。
最初は、何が起きたのか分からなかった。屋根の向こう、こちらからは見えない建物の反対側が、白く照らされた。黒い屋根の線、星見塔の縁が一瞬だけ浮かび上がり、学院の形が夜空に切り抜かれたみたいに見えた。
一瞬だけ遅れて、重なるように大きな音が来た。
鼓膜よりも先に、お腹の奥底を叩かれるような重たい音だった。
水面が震えた。小舟が小さく傾き、星を映していた湖面がばらばらに崩れる。わたしは息を呑んで、舟縁を掴んだ。
「ミコト、伏せろ」
ヴァンの声が鋭くなって、肩を抱き寄せられた。わたしは反射的に身を低くした。その直後、今度はこちら側で光が爆ぜた。
寄宿舎の裏門がある方だった。
赤黒い火花が散り、がらがら、と何かが崩れる音がした。消灯していた寄宿舎の窓に、次々と灯りが入って行く。叫び声も聞こえた気がした。
最初の爆発だけなら、まだ事故か何かだと思えたかもしれない。でも、二度目だった。しかも、場所が違う。
学院の正面玄関と、寄宿舎の裏門。どちら側の入口も潰された。逃げ道になる場所が、順番に壊されていく。とても嫌な予感がした。
ヴァンが学院の方を睨んだ。
「攻撃されてる」
これは事故ではない。誰かが、学院を襲っているのだ。
「戻る」
「は、はい……」
返事をしたつもりだった。けれど、自分の声がちゃんと出ていたか分からなかった。たぶん、わたしの声は震えていた。
幸せだったのに。
安らぎだったのに。
ヴァンが櫂を握り直す。小舟の向きが変わった。さっきまで、ゆっくり星の中を漂っていた舟が、今は夜の水面を流れ星が突っ切るように進み始める。
櫂が水を掴むたび、暗い湖面が裂ける。その冷たい水の匂いに、煙の匂いが混じり始めた。焦げた木か、焼けた布か、石に染みた火薬と、油を混ぜたような、鼻の奥に引っかかる匂い。炎の光がずっと消えていない。黒い煙がどんどん増える。
あそこには、みんながいる。誰か怪我をしたのだろうか。誰か泣いているだろうか。不安がどんどん膨らんでいく。
一体なにが、どうして?
戦争が、ここまでやって来た?
それとも、わたしが異世界から来たことを話してしまったから、それで何か悪い人達がやって来た?
だとしたら、わたしのせい?
岸が近づく。
ヴァンは舟を乱暴には寄せなかった。こんな時でも、岸の石にぶつけないよう角度を見て、最後だけ櫂を横に使って勢いを殺した。その慎重な動きを見て分かった。音を出せば、敵に見付かるかもしれないんだ。
先に降りたヴァンが、手を伸ばしてくれる。わたしはその手を取った。
桟橋。足元の板は冷たく、夜露で少し濡れていた。靴底が滑りそうになり、ヴァンの手に力が入る。引き上げられるようにして岸へ上がった瞬間、湖の上で感じていた幸福が、遠いものになった。
「ミコト、静かに」
その時、ヴァンがわたしを連れて湖に飛び込んだ。
⁉
一瞬、何が何だか分からなかったけれど、水中でヴァンに抱きしめられたのは分かった。
「ぷはっ」
水面から顔を出すと、そこは桟橋の真下、陰になっている場所だった。
ヴァンは、わたしの口を抑えて、桟橋の支柱に背を預けて、じっとしていた。
しばらくすると、誰かの足音が聞こえて来た。校舎の裏庭から、坂道の階段を降りて来るようだった。その後、段々とこっちへ近付いて来る気がした。ヴァンは、ぴくりとも動かなかった。
足音は、桟橋の上までやって来て、踏板を鳴らした。星明りの漏れ落ちる板の隙間から、砂埃がパラパラと落ちてきた。頭の上に掛かったけれど、わたしは、きゅっと目を閉じて、ヴァンの腕にしがみ付いていた。
『そっちはどうだ?』
「ボス、舟がありました」
『燃やしておけ』
「了解」
低い男の声だった。魔導具か呪文を使って、どこか別の所にいる誰かと話しているようだった。
しばらくすると、さっきまで乗っていたボートの上で、何か硝子の割れる音がして、液体のこぼれる音がした。その後、炎が見えた。近い。熱い。わたし達のすぐそばで、ボートが燃えている。
その男の靴先が見えた。桟橋から足でボートを蹴って、沖へと追いやっている。正門、裏門、舟、この人達は、学院にいる者達を逃がさないつもりなんだ。
しばらくすると、足音は遠ざかって行った。
ボートは燃え尽きる前に、舟としての形を失って、湖の底へと沈んで行った。
わたしとヴァンの思い出が、取り上げられたような気がした。
「ミコト。今日、学院に残っている先生、誰がいたか覚えてる?」
さすがに、先生のことまで全部は覚えていない。それでも。
「つばめ先生は、今日は家に帰りました。宿直は、ジークハルト先生です」
「ゴーンズさんと、キャサリンは残ってる」
「そうですね。今日の夕ご飯、ロールキャベツでしたから」
「もう昨日だ」
いつの間にか、真夜中を過ぎて、日付が変わっていたらしい。
「アルフォンス先生は見てない?」
「うん。見てない」
こんな時、アルフォンス先生がいてくれたら、あの力で何でも解決してくれそうなのに……。
「さっきの男、武器を持ってた」
わたしが怖くて目をつむっている間に、ヴァンは見るところを見ている。こんな非常時なのに、ヴァンがいつものヴァンだったから、学院が爆発しても、すごく心強い。
「飛び道具と、殴るやつ。たぶん、小さなクロスボウと、メイス」
クロスボウって、銃みたいになっている弓だったかな? わたしは武器のことはよく分からないけれど、そんなモノを持つ危ない人達だってことは分かった。
「こっちも武器がいる。秘密基地にいこう」
「秘密基地。あそこに何か置いてありましたっけ?」
「武器はない。でも武器になる何かはある。あと、色々なにか作れそう」
ヴァンなら、板切れ一枚でも戦いそうだけど……、それなら寄宿舎に戻って部屋にある自分の短剣を持って来た方が良いんじゃないかと思った。
「寄宿舎には行かない?」
「今は行かない。もう占拠されてる」
占拠。
敵に、わたし達の暮らす場所が乗っ取られた。今夜はもう温かいベッドで眠ることは、諦めないといけないのかも知れない。
ヴァンは、わたしの手を引いて水から上がった。慎重に、音を立てないように服の水を絞っていた。わたしも真似をして服をしぼった。少し服が濡れて透けちゃっている気がして、恥ずかしい。
でも、今はそれどころじゃない。
「くしゅっ」
身体が冷える。このままでは風邪を引いちゃうかも知れない。
「ごめんね。ちょっと我慢して」
「うん、平気」
わたしとヴァンは、濡れネズミで階段を上がった。
「こっち」
ヴァンは迷わずわたしを右の道へ連れて行く。そっちは学院から出る方向で、裏門の他に、小さな通用門がある。でも、そこも既に壊されて燃えていた。
「やっぱり」
それでもヴァンは止まらなかった。わたしを門の傍まで連れて行く。周りには誰もいない。あの人達は、門を使えなくするだけして、どこかへ行ってしまったようだ。
「ミコト、あの火で温まって」
「ヴァンは?」
「様子を見て来る。もし誰か来たら、そっちの茂みに隠れて、坂の下」
こういう時、ヴァンの言う通りに従った方がいい。今までもそうだった。でも、ヴァンは自分を犠牲にして、無理しちゃう所がある。
「待って、服を少し乾かしてから、一緒に行こう」
ヴァンが思案している。何か言う前に、わたしが提案する。
「水が垂れたら、跡が残るし、音でバレるかもしれない」
「服は脱ぐつもりだったけど、わかった」
「だめです。そんな無茶」
「そうだな」
ヴァンは直ぐに上着を脱ぐと、崩れた門の近く、散らばった大きな瓦礫の上に広げて置いた。わたしも真似をする。シャツも脱ぎたかったし、下着も乾かしたかったけれど、今は靴と靴下だけ乾かすことにした。
「さっきのやつが、多分ここを燃やした」
やって来たタイミングとかを考えると、わたしもそうだと思った。
「それから、桟橋を見て、校舎の方へ戻って行った」
そこまでは見えていないはずなのに、たぶん足音の遠ざかる方向で分かったんだと思う。ヴァンは、相変わらず頼もしい。
「みんな、無事かな」
「多分、殺されない。狙いは、身代金か、マギ達かもしれない」
わたしを狙って来たわけじゃない。それなら少しほっとするけれど、マナさんとマギさんが心配になる。そういえば、学芸会の時のイネヴェアさんの事故も、本当はマギさんを狙ったんじゃないかという噂もあった。皇族は何かと大変だ。
ううん、大変なんてものじゃない。特に今回もそれが理由なら、学院の全員が巻き込まれてしまった形だ。あの二人が、どんな気持ちになるかと思うと、少し辛い。
「ミコト。今なら、おれ達だけでも泳いで逃げることができる」
……え?
「この燃えている門を何とかするか、壁を乗り越えて外に出てもいい」
違う。これはヴァンの意志じゃない。可能性を言ってる。選択肢を、わたしに与えてくれてるんだ。やっぱり、こういう所が好き。
「わたしも手伝う」
「ミコト……」
ヴァンは少し驚いたような顔をしている。でも、ヴァンが考えることなら、少しずつ分かってきた。
「ハリエットも、オーレリアもまだ残ってるんだし、放っておけない」
「分かった。でも、危ないと思ったら、逃げて」
「うん」
【 同日 0:25 寄宿舎 カフェ 】
「こんな暴挙が許されると思いまして?」
イネヴェア・リンドホルムは、寝間着姿でも堂々としていた。
こんな真夜中に爆発音があって、知らない大勢の大人達──それも仮面をつけて武器を持った──に囲まれていても、学院一の淑女を自称するだけあって、彼女は毅然としていた。
寄宿舎一階のカフェには、百名近い学生が集まっていた。今も一階からは男子生徒が、二階からは女子生徒が、武装集団に脅されて、この場所に集められている。
「なんだこの女、少し黙らせろ」
「エインさん、この方達は一体何ですの?」
私に聞かれても困る。けれど、非常事態である事は間違いない。クリスとアディは、抱き合って震えているし、男子達も本物の武器を向けられて、みんな縮み上がっている。
……いや、一人。
いいえ、二人。おバカさんがいた。
「イネヴェア、待って。…ちょっと、ローティ、ウォール、あんた達、下がった方がいいよ」
「いいや、イネヴェアの言う通りだ。なんだおまえら、出て行け!」
ローティ・ネモニクト。状況が分かっているのか、いないのか…、明らかに危険な大人だって見て分からないのかな。武器を持っている。下手すれば殺される。
「ローティ、歯向かわない方がいいよ」
ウォルター・ヒギンズ。頼りないけれど、こっちの方が遥かに状況が分かってる。それに、誰も一歩も動けないし、一言も喋れない中で、それでもローティを止めようと必死だ。意外と見所あるじゃない。
「いいえ、違います。ウォルターさん、この様な不埒な輩共、神聖なる七聖の学び舎に土足で踏み入って、ただじゃ置きませんことよ」
「へえ、ただじゃ置かないっていうなら、どうしてくれるんだ?」
仮面の男達。その内の一人が、矢を番えた携帯式弩をイネヴェアへ向ける。あの武器なら、装填はともかく、左手だけで保持して射つことができる。危ない。本当に危ない。
「そんな脅しに、屈すると思いまして?」
だめ、イネヴェア。魔力盾で防ぐつもりだろうけれど、敵は大勢いるし、流れ矢が他の生徒に当たるかも知れない。……でも、これは相当に怒ってる。乙女の睡眠を邪魔されたから特に……、
「ならば試してみるか?」
その男は、躊躇いなく矢を放った。殺意ではない。単に虫を殺すみたいに、わざわざ強い気持ち、殺意をこめなくても、引鉄に置いた指を引けてしまう。これは悪意。もしくは、善意が欠如している。
「小賢しいわね」
イネヴェアが予想通り、高速展開した魔力盾で矢を弾いた。弾かれた矢は、ウォールの足元を掠めて床に落ちた。
当たりそうになったウォールが、腰が抜けたみたいにビビっているけれど、大丈夫。イネヴェアも、ちゃんと考えて弾いてるから、多分……。
「へっ、見たか、俺達のイネヴェアはすごいんだぞ!」
そこ、なんで自分の事みたいに自慢?
「そこまでにしろ。みんな、無駄な抵抗はやめるんだ」
この声は、三年のミシェル先輩。マリアンナ先輩と付き合いだしてから、やたら張り切り出した生徒会長。そうよね、こういう時は先輩とか先生達の出番でしょ。
「そうだよ。ローティ、イネヴェアさんも……」
「いいえ、こんな悪行、見逃すわけには……」
「そうかよっ!」
その男が、右手で握った戦棍でイネヴェアを殴ろうとした。
「そんなもの」
再びイネヴェアの魔力盾が止めた。けれど、男は左手の携帯式弩、その柄で殴った。これは間に合わない。
衝撃音。
「痛ぇなコラ」
ローティ。
「ははっ! こいつ、飛び出して来やがった!」
「ローティ⁉ あなた、わたくしの為に、なんて馬鹿な真似を……」
その額から血が流れている。ローティ・ネモニクト、ありがとう。私の友達を庇ってくれて。
「馬鹿な真似? 違うね。これは騎士の真似だ」
「こいつ!」
その男は、今度は標的をローティに変えて殴り掛かろうとした、その瞬間。
「うっ!?」




