第八十一話 湖上の約束
「大切な話って、なにさね」
逸るつばめ先生を片手で制して、アルフォンス先生は咳払いをした。いつもの穏やかな表情、何食わぬ顔で言う。
「ヴァルクとエイデンの任務が、無事に終了しました」
「……え?」
つばめ先生の声が、一瞬だけ抜けた。
「無事、なの?」
「はい。今回の特別任務については、すでに完了しています。来月には、二人ともこちらへ戻れる見込みです」
つばめ先生は、しばらく黙っていた。怒るのか、笑うのか、泣くのか、そのどれにもなりきれない顔で、唇を引き結んでいる。
「……あんた」
「はい」
「あたしに内緒で、助けに行ったりしてないでしょうね?」
アルフォンス先生は、ほんの少しだけ視線を逸らした。
「行きました」
「行ったの!?」
つばめ先生が勢いよく立ち上がりかける。
「ちょっと、なんで誘ってくれなかったのよ!」
「ヴァン君とミコトさんを放置できませんから」
「それは、そうだけど……!」
つばめ先生は言い返しかけて、結局、言葉を飲み込んだ。わたしとヴァンの名前を出されると、つばめ先生は強く出られないらしい。
「ずるいわね、あんた」
「必要な判断でした。それに私の力が無ければ、危ない場面でした」
「万象因果収束だっけ? それあれば無敵じゃない」
「いえ、弱点はあります。連続使用は、私の精神を喰らい、脳を焼きます。それに、私自身が行くことも見聞もきできない範囲は外れますし、何より最大で一日しか見れません」
「意外と制約も多いのね」
「はい。後は眠くなります」
「それで、普段からそんな感じなのね」
「はい。そうかもしれません」
つばめ先生は大きく息を吐き、長椅子に座り直した。それでも、さっきより肩の力は抜けていて、ヴァルク先生とエイデン神父様が帰ってくるという事実が、少しずつ胸の中で形になっているように見えた。
「あの、つばめ先生」
「なに?」
「その……エイデン神父様の、プロポーズの話は、受けるんですか?」
つばめ先生が固まった。アルフォンス先生は、静かに目を伏せる。
「ミコトちゃん」
「はい」
「そういうところ、思い切りがいいわね」
「す、すみません」
「謝らなくていいけど」
つばめ先生は、少しだけ顔を赤くして横を向いた。
「そうね。気持ちの整理がついたらね」
「整理、ですか」
「ええ。あたしにも、色々あるのよ」
それ以上は聞けなかった。でも、拒絶ではなかった。それだけで、少し嬉しくなる。
つばめ先生は、今度はわたしを見た。
「そういうミコトちゃんこそ、ちゃんとお付き合い始めたの?」
「え」
「ヴァン君と」
「あ、えっと」
「好きです、って互いに気持ちを確認しただけじゃ、その先には進めないよ。特にヴァン君はね。あの子、自分から大事なものを欲しがるのが下手だから」
つばめ先生はいつもの軽い調子で言ったけれど、目はちゃんと真面目だった。
「だから、ちゃんと恋人してきなさい」
「恋人……」
その言葉だけで、顔が熱くなる。
わたしとヴァンが、恋人。昨日、好きだと言ってもらえて、わたしも好きだと言った。でも、その言葉に名前をつけると、急に胸の奥が騒がしくなった。
「ただし、まだ一線は越えちゃだめだからね」
「い、ぃぃ一線、ですか……!?」
「そう。一線」
「え、えっと……子供だから、まだ早いってことですよね?」
わたしが尋ねると、つばめ先生は少しだけ表情を改めた。
「まだ責任を取れないからよ。好きだから何をしてもいい、ってわけじゃないの。大事にしたいなら、ちゃんと待つことも覚えなさい。自分も、相手も、未来もね」
「……はい」
「まあ、手を繋ぐとか、少し寄り添うとか、そういうのはいいけど」
「つばめさん」
アルフォンス先生が咳払いをした。
「具体的すぎます」
「必要でしょ。あんた、こういう話は絶対役に立たないもの」
「否定はしません」
「そして、あんた以上にできないのがヴァルク。絶対まともな性教育なんかしてない」
「それも否定しません」
「いい、ミコト。あの子は、年齢の割にバカみたいに強いけど、中身は子供なの。それも星級の子よりも、男女の話を知らない」
「たぶん、そんな気はしていました」
つばめ先生は、わたしの肩をぽんと叩いた。
「でしょ? でも、怖がらなくていいわ。嬉しいなら嬉しいって言って、会いたいなら会いたいって言って、ちゃんと恋人になってきなさい」
「……はい」
わたしは、小さく頷いた。
ヴァンと、恋人になる。それは昨日よりも、もっとはっきりした約束のように思えた。
*
それからの日々は、驚くほど甘かった。
朝、教室で目が合う。それだけで、胸の奥がそわそわした。ヴァンはいつもと同じ顔をしようとしていたけれど、わたしが小さく手を振ると、ほんの少しだけ耳が赤くなる。
それを見て、わたしも赤くなる。何も変わっていないはずなのに、全てが変わっていた。
隣の席で教本を開く時、指先が触れる。廊下を歩く時、歩幅を合わせてくれる。訓練場でヴァンが木剣を振る姿を見ていると、前よりもずっと格好よく見えて困った。
「ミコト」
「なんですか?」
「見すぎ」
「す、すみません」
「謝るな」
「でも」
「……嫌じゃない」
そんなことを真顔で言うから、わたしはまた何も言えなくなる。
放課後には、寄宿舎までの短い道のりを一緒に帰った。校舎裏の小道を歩き、湖の見える坂で少し立ち止まると、ヴァンはわたしの手を見て、それから顔を逸らした。
「手」
「うん?」
「繋いでいいか」
わたしは慌てて頷いた。
「う、うん……」
ヴァンの手は、少し硬かった。剣を握る手。わたしを助けてくれた手。その手が、今はそっとわたしの手を包んでいる。
それだけで、世界が少し違って見えた。
「恋人、ですもんね」
小さく言うと、ヴァンがこちらを見た。
「恋人? そうか、恋人か」
今まで意識してない辺りが、とってもヴァンらしい。
「違うの?」
「違わない。恋人同士だ」
迷いのない返事だった。その真っ直ぐさが嬉しくて、恥ずかしくて、胸がいっぱいになる。
「ヴァン」
「何だ」
「もう一回、言ってもいいですか」
「何を」
「好きです」
ヴァンは、一瞬だけ黙った。それから、わたしの手を少しだけ強く握る。
「おれも好きだ」
それだけで、一日分の幸せが増えた。
*
湖の上で星を見る約束の日は、その何日か後だった。
夕食のあと、寄宿舎の一階カフェで窓の外を眺めていると、冬の空は澄んでいて、星がいつもより近く見えた。
「綺麗ですね」
「うん」
ヴァンも窓の外を見ていた。
「湖の上だと、もっと綺麗だ」
「湖の上?」
「ああ。水に星が映る。上にも下にも星があるみたいになる」
「見たいです」
思わず言ってしまった。けれど、すぐに現実を思い出す。
「でも、夜に出歩くのは……」
「駄目だな」
「うん」
学院の規則もある。アルフォンス先生やつばめ先生に心配をかけるわけにもいかない。そう思っていたのに、ヴァンは少し考えてから言った。
「任せて」
「え?」
「少しだけなら、何とかなる」
「何とかって、何をするんですか」
「静かに出る」
「それは無断外出では」
「うん」
「うん、じゃありません」
わたしは止めなければいけなかった。止めなければいけないと、ちゃんと分かっていた。
でも、星の映る湖をヴァンと二人で見たい。その気持ちが、規則より少しだけ強かった。
わたしは、夜の約束が楽しみでワクワクしていた。
*
夜。
わたし達は、こっそり寄宿舎を抜け出した。
つばめ先生に見つかったら、きっと怒られる。アルフォンス先生に見つかったら、たぶん微笑みながら全部見透かされる。だから、できるだけ音を立てずに廊下を歩き、外へ出た。
冬の冷たい夜気が頬を刺す。けれど、ヴァンが手を握ってくれていると、不思議と寒さは怖くなかった。
「大丈夫か」
「うん」
「足元」
「大丈夫」
ヴァンが何度も振り返って、わたしを気にかけてくれる。その度に、わたしの胸から頬までぽかぽかと温かくなる。
桟橋に着くと、湖は驚くほど静かだった。ヴァンが手早くボートを出し、わたしはまたヴァンの手を取って乗り込む。小舟が少し揺れたけれど、この前よりも少しだけスムーズに乗り込めた気がした。
ヴァンが櫂を入れる。水音が、夜に溶けていった。
岸から離れるにつれて、学院の灯りが遠くなる。そして、空が広がった。
「……すごい」
思わず声が漏れた。
空一面の星。その下に、同じ星を映した湖。本当に、上にも下にも星があった。
私の知っている夜空ではないけれど、似たような星の並びがあるのも面白い。黄道十二星座なんか、ほとんど同じだ。
西の空には、牡牛座が傾いている。 南の空には獅子座、南東からは乙女座が顔を出している。でも、それらに纏わる物語、神々の話は私も知らない。
未知なのに既知。既知なのに未知。なんだか不思議だ。
ボートだけが、その不思議な星空を映した広い水面の真ん中に浮かんでいる。
「星が綺麗ですね」
「うん」
「綺麗な夜……。空も湖面も、キラキラしてる」
「うん」
「ヴァンは、こんな素敵な景色、どうやって見つけたんですか?」
「兄貴が教えてくれた」
「ヴァルク先生に?」
「ああ。夜に抜け出して、怒られたらしい」
「怒られたんですか」
「うん」
わたしは小さく笑った。ヴァンも少しだけ笑う。
水面の星が揺れている。その揺れの中で、ヴァンの横顔が見えた。
整った顔、鍛えられて逞しい身体、頼もしくて温かい手、湖面と同じ青い瞳に星明かりの粒が見える。少しの間、見惚れてしまった。
近い。
でも、もっと近づきたいと思った。
「ヴァン」
「何だ」
「隣に行っても、いいですか?」
「だめ、危ない。おれが行く」
そう言って、ヴァンが隣に座る。わたしは少し横にズレて座る。
「ミコト。手、繋いで」
「うん」
沈黙が落ちた。けれど、嫌な沈黙ではなかった。胸がうるさくて、言葉が出ないだけの沈黙だった。
「ミコト」
「はい」
「恋人なんだよな」
ヴァンが、星ではなくわたしを見ていた。
「うん。わたし達は、恋人です」
「ミコト、恋人の次はどうする?」
次。
「結婚か?」
え?
「その後は、子供か?」
ええ……!?
ちょ、ちょちょちょ……早い早い! つばめ先生の予想通りだった。
わたしは、一度深呼吸したあと、コホンと咳払いをし、ヴァンに向き直る。火照った顔ではなく、できるだけ真面目な顔で。
「ヴァン。物事には順序と、相応しい時があります」
「順序と、相応しい時」
「そうです」
「分かった。それじゃ、ちゃんとしよう」
「なにを?」
「事故じゃなく」
「!? そ、それって……」
キスのことですか!?…とは口に出せないまま、わたしは動揺で固まってしまった。頭でそう思い当たった瞬間、胸の奥が熱くなる。顔が熱い。
ヴァンの目が、少し揺れた。おそらく、口にしなくても、わたしが思い当たったことは伝わっているみたいだった。
「そう」
ヴァンはそこで止まった。珍しく迷っている。
「……いいか?」
何を、と聞くまでもない。
顔が熱くなる。人命救助でも、事故でもない。これが初めてだ。
わたしの、初めてになる。
「はい」
声が、生まれたての子猫みたいに小さく震えた。
ヴァンが少しだけ近づく。わたしも、目を閉じた。
吐息が掛かる。ヴァンも緊張しているのか、その吐息は微かに震えていた。どくんどくんと高鳴る心臓の音が、互いに聞こえてしまいそう。
唇に、温かいものが触れた。
ほんの短いキスだった。驚くほど静かで、驚くほど優しい。ふわりと触れて、そっと離れる。それだけなのに、胸の奥がいっぱいになった。
これが、恋人同士のくちづけ。
わたしとヴァンの、はじめて。
目を開けると、ヴァンがすぐ近くにいた。
星の光が、ヴァンの瞳に映っている。わたしも、きっと同じ顔をしている。
唇が離れたあとも、すぐには言葉が出なかった。ヴァンがわたしを見ていて、わたしもヴァンを見ている。
湖の上には、星の光が落ちていた。
わたし達は、本当に恋人になったのだと思った。この世界で、この湖の上で、会いたい人、帰る場所、帰るべき約束ができた。
しあわせだ、と思った。こんな時間がずっと続けば…… 。
その時だった。
夜の向こうで、光が弾けた。
────え?
続いて、大きな爆音が轟いた。
見れば、学院に火の手が上がっていた。
広がる黒煙に、星々は隠れた。




