第八十話 驚きと安らぎ
「ミコト、おれはミコトを一番好きだと言った」
ヴァン。
「世界で一番好きだって意味だ」
わたしも、好き。
「でも、それは間違いだ」
え?
胸の奥が、ひゅっと冷えた。
「おれは、ミコトをこの世界でも、そっちの世界でも、どんな世界でも、とにかく絶対一番好きだ」
……あ。
冷えたものが、一瞬でほどけた。
世界一よりも上、全異世界一。
「……ヴァン」
名前を呼んだだけで、涙が出そうになった。
「泣いてる?」
「すみません」
「謝るな。……泣かせたのは、おれか?」
「違います。嬉しいんです」
「そうか。難しいな」
「……そうですね。難しい、かも。だって、好きな人から嬉しいことを言われて、胸の奥が嬉しくてぎゅっとなって、涙が出てくるんですから」
「そうか」
「そうです」
ヴァンは困った顔をした。手を伸ばしかけて、途中で止まる。どうしていいか分からなくなったみたいだった。
その様子を見て、ふと思いつく。わたしは、ヴァンを手招いた。
「ヴァン。ちょっと、こっちへ来てくれますか?」
小さなボートが揺れる。ヴァンは慎重に座る位置をずらして近づいた。わたしは、その頭にそっと触れる。
硬い髪。いつも少し乱れている髪。普段は女の子なんて気にしてないから、髪型に無頓着。なのに、今日は少しだけ整えようとしたのが見える。できてないけど。
「何か変か?」
「ううん。可愛いなって」
きみの一生懸命さがわかって、嬉しくて。
ゆっくり頭を撫でると、ヴァンは固まった。
「……何をしてる」
「撫でてます」
愛でているともいう。
「子供扱いしてないか」
「少しだけ」
「おれはもう子供じゃない」
「きみも、わたしも、まだ子供ですよ」
もう一度やさしく撫でると、ヴァンは逃げなかった。少しだけ諦めたように目を細める。まるで警戒心の強い子犬が、ようやく撫でられるのを許してくれたみたいだった。
「ヴァンは、いつも強くあろうとしますね」
「うん。おれは弱いから」
「その時点で、もう十分に強いです」
「そうか?」
「うん。ヴァンは強い子です」
芝生で泣いていたヴァンを思い出す。
兄の背中を見送る前に、全力で向かっていったヴァン。負けて、悔しくて、それでも声を上げずに泣いていたヴァン。
あの時は、何もできなくて胸が苦しくなった。傍にいることしかできなかった。でも、ヴァンのことを守ってあげたい、支えたいと思っていた。今ならきっと、それができる。
「でも、……今くらいは、もう少し肩の力を抜いてもいいんですよ。むしろ、抜いてください」
「どうやって」
「こうやって」
わたしは、ヴァンの頭をそっと両腕で包むように抱き込んだ。
胸の奥が、ふわっと暖かくなる。
この人が好きだと思った。
強いところも。不器用なところも。時々、子供っぽくなるところも。全部、好きだと思った。なにより、自分の気持ちに真っ直ぐなところが、大好きだ
「ミコト」
「はい」
「ちょっと、恥ずかしい」
ヴァンは固まっていた。わたしも実は緊張していて、胸がドキドキしている。自分でも少し大胆だなって思う。でも、ヴァンにゆっくり安らいでもらいたかった。
「誰もいないから、大丈夫です。…だから、このまま甘えてください」
ヴァンは少し身じろいで、ぽつんと呟いた。
「……こういうの、知らない」
「こういうの?」
「頭を撫でられるとか。抱きしめられるとか。……母さんがいたら、こうだったのかもしれない」
その言葉で、胸の奥がきゅっと痛くなった。
ヴァンは、お母さんを知らない。
強い子だと思っていた。けれど、強いから平気だったわけじゃない。知らないまま、欲しがり方も分からないまま、ここまで来ただけなのだと思った。
「じゃあ、今から覚えてください」
「何を」
「こういうふうに、力を抜いてもいいってことを」
わたしは、もう一度だけ髪を撫で、とんとんと背中を軽く撫でた。
ヴァンは何も言わなかった。
ただ、少しだけ頭を預けてくれた。
「……嫌じゃない」
「うん。良かった」
小舟は、夕暮れの湖に小さく浮かんでいた。
二人の影は寄り添ったまま、ゆらり、ゆらりと水面に揺れた。
やがて鐘の音だけが、遠く学院から流れてきた。
*
翌朝。
礼拝堂には、静かな朝陽が差していた。
色硝子を通った淡い光が、長椅子の列に落ちている。緋鋼建国神様の祭壇も、今はひどく遠く見えた。
ヴァンに「一人で抱えるな。アルフォンス先生とつばめ先生には話した方がいい」と言われて、わたしはここに来ていた。
「……以上が、わたしの全てです」
つばめ先生は何も言わなかった。アルフォンス先生も、珍しくすぐには口を開かなかった。
やがて、アルフォンス先生が眼鏡の位置を直して、深く息を吐いた。
「……予想の遥か斜め上でした」
「うそ。あなたでも?」
「はい。思った以上に、これは深刻な問題です」
「え。どれぐらいなの?」
「文字通り国と大陸は無論、全世界を揺るがす程に」
話が壮大過ぎて、まったく実感がわかない。こんな無力に近い女の子一人が、そんな大層な問題になるとは思えない。
「ミコトさんが通常の和之国出身者ではない可能性は、そもそも最初から分かっていました」
「そう言えばアルフォンス、あなた名前まで知ってたわよね?」
「ミコトさんが打ち明けてくれたので、私も秘密を一つ開示しましょう」
つばめ先生の目が驚きに開かれた。
「本当に? 今まで何年も、どれだけ聞いても教えてくれなかったのに?」
「はい。それに値するだけの大事件ですから」
そう聞くと、何だか緊張してきた。
「私が運命の女神様から授かった特別な力は、万象因果収束と申します」
なんだか、すごいの出てきた。
「要するに、未来に起こり得る万象の世界線から、一つを選びとる力です」
ちっとも分かりません。
「何それ、分からないわよ。あなた賢いんだから、もっと分かるように説明して」
「分かりました。誤解を覚悟で申し上げましょう。つまり、未来を体験してから現在に戻れます」
「時間を?」
「タイムリープですか⁉」
「違います」
違った。
「でも、似たようなものです。例えば……」
アルフォンス先生は、顔を覆うように片手を広げ、中指で鼻筋を撫でるように眼鏡を持ち上げた。
「なるほど。ミコトさんは、今度またヴァン君と舟遊びをする約束をしましたね?」
え⁉
「誰にも言ってないのに……⁉」
「教えて貰いました。ミコトさん本人に、今から五分後、私があれこれ条件を提示して問い詰めたら、教えてくれました」
「え?」
「……という五分後の未来から、私が戻って来たと考えて下さい。詳細事実は、それとは異なるのですが、現象としては同じ事ですから」
「す、すごい……」
「ちょっと、あんた……」
つばめ先生が何か言おうとしたが、アルフォンス先生が割り込む。
「それを、何で今まで黙っていたのか、ですよね?」
「……そう、どこかの未来のあたしも、同じ質問をしたってわけね」
「はい。呑み込みが早くて助かります。……こんな力、緋鋼政府の能力開発局に知られたら逮捕されて、監禁、実験、解剖、なんて事になってしまうので、絶対に言わないで下さいね」
「そんなまさか、いくら政府でも……」
つばめ先生が笑い飛ばそうとしたけれど、アルフォンス先生の顔が、いつになく真剣だった。
「……まさか、体験済みなの?」
「はい。今の政府は、明らかにおかしいので……」
なんだか怖い話になってきた。
「それはさておき、些細な問題よりも、ミコトさん、貴女の話です」
それが些細な問題になっちゃうほど、わたしは大きな問題らしい。
「先ず、単なる転移事故でもなければ、次元界転移を使って、精霊界や、天上界から来たわけではない。…その記憶もない」
「はい。違います」
よく分からないから、それは絶対に違う。
「それから一度死んだという話ですが、通常の神聖魔法第七位列、蘇生には該当しません。あれには、死んだ時点でその人の肉体だった一部が必要です。ミコトさんの場合、こちらの世界にその肉体がありません」
「でもアルフォンス、上級蘇生なら?」
「それなら、肉体が失われていても対象にはできます」
「じゃあ、わたしは……」
「ですが、それも違います。あれは超高位神官、国家予算級の莫大な費用、希少な触媒、盛大な儀式、膨大な記録、そして対象を正確に指定するための情報が必要です。何の痕跡もなく、異世界の少女をこちらへ呼び戻せるようなものではありません」
アルフォンス先生は続けた。
「一つ、別の可能性があります。それは森祭司の秘術、輪廻転生の呪文です。しかし、そう呼ぶにしても、あまりに記憶が連続しすぎています」
わたしは確かに生前の記憶がある。事故の記憶、お父さん、お母さん、お姉ちゃんの顔も名前も憶えている。
「よみがえりと呼ぶにも、戻った場所が違いすぎる。これは、神格の干渉を前提にしても、かなり特殊な事象です」
「でも、ミコトは和語を使えたわよ?」
「そこです。記憶喪失ではないのに、和語は使える。たまたま文化的に似た環境だったと考えるには、余りにも言語の一致が過ぎる」
「それって、並行世界でしょうか?」
「ミコトさんは、さらっと世界を揺るがす高次の概念を持ち出しますね。確かに、その可能性を提示している学者は、この大陸にも何人か存在します。しかし、それも違います。……ミコトさんの世界に、魔法はありましたか?」
「いえ、ありません」
「ですが、世界を跨いでも尚、その権能を維持できる神格が存在するのであれば、その影響を受けた文化圏や国家同士で、言語や文化様式が似る可能性はあります」
「そう、ですか……」
分かることが増えるほど、わたしは怖くなった。
わたしは、何なのだろう。人間なのか。死んだ人間なのか。それとも、女神さまに運ばれただけの、何か別のものなのか。
膝の上で握っていた手が震えた。その時、隣から腕が伸びてきた。細くて白いのに、鍛えられていて、力強い。つばめ先生は、何も言わずに、わたしを抱きしめた。
「……つばめ先生」
「ずっと寂しかったね」
その一言で、息が詰まった。
「誰にも本当のことを言えなくて、帰る家もなくて、家族もいなくて。平気な顔して、ずっと頑張ってたんだね」
だめだった。
涙が出た。
わたしは、つばめ先生の胸元で、小さく頷いた。
「……うん」
「うん」
つばめ先生の手が、わたしの背中をゆっくり撫でる。
「よく頑張ったね」
その言葉は、魔法の説明よりも、ずっと深く胸に入ってきた。
「……すみません」
「謝らない」
「でも」
「泣く時に謝らない」
つばめ先生の声は、少しだけ厳しくて、やさしかった。
アルフォンス先生は、その間、黙って待ってくれていた。
しばらくして、わたしが涙を拭うと、先生は静かに口を開いた。
「ミコトさん」
「はい」
「この件は、皆には秘密にしてください」
わたしは顔を上げた。
アルフォンス先生の表情は、いつになく真剣だった。
「ヴァン君にも、そう釘を刺しておいてください」
「ヴァンにも、ですか」
「はい。彼なら、あなたを守ろうとして不用意に口にすることはないでしょう。ですが、それでも念を押す必要があります」
「そんなに、危ないんですか」
「危ないです」
アルフォンス先生は、はっきり言った。
「これは、単に次元――次元界層を移動したという話ではありません。この各種次元を含む世界――全世界領域を越えた話です」
礼拝堂の空気が、少し冷えた気がした。
「次元界層の移動なら、既存の魔法理論と体系で既に扱っています」
アルフォンス先生は、わたしをまっすぐに見た。
「ですが、全世界領域を越えた異世界の存在となれば話が違います。世界の外側から来た魂。異なる法則、異なる歴史、異なる神々の下で生きていた記憶。それを保持したまま、こちらの世界で生きている唯一の人間」
わたしは、喉を鳴らした。
「それは」
「研究者にとっては、喉から手が出るほど知りたい存在です」
アルフォンス先生の静かな声が、刃物よりも鋭く、恐ろしかった。
「このことが広まれば、世界中から研究者がやって来るでしょう。魔法学者、神学者、魂魄研究者、召喚術士、国家機関、神殿関係者。善意の者もいるでしょう。ですが、全員があなたを一人の少女として扱ってくれるとは限りません」
つばめ先生の腕に、少し力が入った。
「アルフォンス」
「脅すつもりはありません。ですが、知らせておくべきです。今の私達では、彼女を、ミコトさんを守る事はできません」
その目には、いつもの静かな態度とは違って、熱がこもっていた。
「ミコトさん。あなたを守るために、ヴァン君は必ず無茶をするでしょう。命も捨てるでしょう。そこまでの遠い未来は分かりませんが、彼の普段の言動をみれば、私には分かります。それは、むしろ君達の方が詳しいはずです」
つばめ先生が、わたしを抱いたまま低く言う。
「ヴァンに、そんなことはさせないわ。この子も、誰にも好きにさせない」
「ええ。させません」
アルフォンス先生は頷いた。
「だからこそ、秘密にしてください。話す相手は慎重に選ぶ。必要がある時は、まず私か、つばめさんに相談してください」
「……はい」
「ヴァン君にも、必ず伝えてください。あなたを守るためにも黙る必要があるのだと」
「はい」
わたしは、つばめ先生の腕の中で頷いた。わたしが何なのか、まだ分からない。
けれど、分かったことが一つある。これは、わたし一人の秘密ではなくなった。みんなで守らなければならない秘密になったのだ。ヴァンを危険に晒すかもしれない秘密になったのだ。アルフォンス先生は、最後に静かに言った。
「ミコトさん。あなたは、ここにいていい。ですが、ここにいるためには、知られすぎてはいけません」
礼拝堂の色硝子から、最後の光が落ちていた。
わたしは、つばめ先生の腕の中で、小さく息を吸った。
「……分かりました」
声はまだ震えていた。
でも、今度は一人ではなかった。
「それと、あと一つ。……とても大切な話があります」
え? まだあるの?




