第七十八話 甘さの意味
校長室。
「失礼します」
わたしの目に先ず入ったのは、壁際に立てられた章旗だった。七枚の花弁と剣十字、湖を模した波線、七聖学院の紋章を染め抜いた紺地の旗が、重い木製のスタンドに差し込まれている。縁取りは金糸の留め付け刺繍で、窓から入る冬の光を受けるたび、意匠がかすかに光った。
大きな黒壇製の机。整理された書類。壁一面の本棚。歴代校長の肖像画。そのどれもが、ここが学院の中心なのだと示している。
窓の向こうには、そんな堅苦しさとは違って、広い湖の景色が広がっている。
冬の光を受けた水面は淡く緑銀色に揺れ、遠くの岸辺には雪の残る木々が並んでいる。空は高く澄み、湖の向こう側まで見渡せた。それは校長室というより、どこか静かな展望室のようにも思える。
「ミコト・サトーさん、緊張せず、楽にお掛けなさい」
校長先生は机の向こうで、妙に真剣な顔をしていた。深刻と言っても差し支えない。余程の重大案件なのかも知れない。もしかすると、わたしが和之国の貴族では無いとバレてしまったのかも知れない。緊張するなと言われても、それは無理な相談だった。わたしは恐る恐る来客用のソファに座った。
その時、わたしの脚に何かが触れた。
ふわふわ。
丸い毛のかたまりみたいな犬。名前は、ぷーちゃん。
どういう経緯かは分からないけれど、半ば無理矢理に学校公認のペットということになっているらしい。校長室の隅には、専用の敷物と水皿まで置かれていた。
校長室の威厳が、少しだけ台無しだった。でも、少しだけ安心もした。
「ミコトさん」
「はい」
わたしは背筋を伸ばした。
校長先生は、両手を机の上で組んだ。
「単刀直入に聞くざます」
「はい」
長い沈黙。
「どうすれば、あたくしは結婚できるのでしょうか?」
「……はい?」
思わず、変な声が出た。
校長先生は真剣だった。冗談ではないらしい。少なくとも、本人は大真面目だった。むしろ殺気立った目をしていた。
わたしの見る限り、校長先生は、年齢を重ねた華やかさを、濃い化粧と大仰な衣装でさらに押し出したような女性だった。それを若作りと言うのかも知れないけれど。
広い鍔の帽子、金刺繍の外套、白い襞飾り、装飾扇まで揃えた姿は、教育者というより舞台に立つ貴婦人めいた気品がある。
けれど、その派手さの奥には、恋の噂に目を輝かせる少女じみた俗っぽさが同居していた。見ようによっては可愛いとは思う。
「候補はいるざます。ジークハルト先生、ヴァルク先生、アルフォンス先生、エイデン神父様。皆さん、それぞれに素敵ざます」
それは無理な気が。
「それは……、ええと、わたしに聞かれても困ります」
危うく本音が漏れそうになった。でも、恋愛の女神様が『応援してあげて』と背後で言ってる気がした。
「ミコトさんは、恋愛の女神様の巫女君ざましょう?」
「それは、噂で……」
困った。
とても困った。
わたしが巫女的な何かだとしても、恋愛に詳しいわけではない。経験ゼロだ。まして、結婚の仕方なんて分かるはずもない。けれど、校長先生は本当に悩んでいるようだった。年上の女性が、結婚のことでどれくらい悩むのか、わたしには分からない。でも、悩んでいるなら助けになってあげたい。
「いきなり求婚するつもりはないざます。ただ、きっかけが欲しいざます」
「きっかけ、ですか」
その言葉で、少しだけ考えやすくなった。
結婚の方法は分からない。でも、きっかけなら何とかなりそう。
話しかけるための理由。好きです、結婚して下さい、と言うには重いけれど、何も言わないままでは届かない気持ちを、少しだけ伝えられるもの。
それは、今朝の先輩みたいに花束を贈るのはダメだ。後輩くんのお菓子ぐらいなら。
お菓子?
「あの……バレンタイン、というものがあります」
「バレンタイン?」
校長先生の目が、きらりと光った。
「はい。わたしの故郷にある風習で、2月の14日、チョコレートを贈る日です」
「チョコレートざますか」
「はい。好きな人に渡して、告白することもありますし、友人や先生、お世話になっている人に、日頃の感謝として渡すこともできます」
「告白!」
「本命チョコです。他には友チョコや、感謝とか御礼、義理チョコを渡します。本命なのか義理なのか、分からないようにして、曖昧な感じで渡すこともできます」
「それは使えるざます。さしずめ様子見チョコざますね」
「憧れ、応援するという意味で、推しチョコというのもあります」
「推しチョコ」
「はい。素敵だと思ったら、推して下さい」
言い終わる前に、校長先生は立ち上がった。
「決めました。それざます!」
「え?」
「それを学院行事にするざます!」
「ええっ?」
わたしの声が裏返った。
「これは素晴らしい教育的機会ざます。異国文化理解、贈答の礼節、菓子作り、社交訓練、感謝の表現。すべてを兼ね備えているざます」
「今、恋のきっかけが欲しいという話をしていましたよね」
「それも含めてざます」
わたしは、とんでもない提案をしたかもしれない。
*
翌日には、学院の掲示板に告知が貼り出された。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
七聖学院新春異国文化体験
2月14日 バレンタイン
女性から男性へ、
友人、教員、日頃お世話になった人へ
感謝と親愛を込めてチョコ菓子を贈る。
自主参加
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
掲示板の前には、すでに人だかりができていた。生徒達の反応は、盛り上がっている。オーレリアは、すでに記録帳を開いていた。
「新行事誕生の瞬間なのよぅ。これは記録するのよぅ」
「まさか、こんな大事になるなんて……」
ハリエットは、楽しそうに笑った。
「でも、感謝を伝える日っていうのは素敵だと思うよ。誰かにありがとうって言うきっかけになるもの」
「まあ。それは、そうなんだけど……」
「チョコレートを贈るのか? あれって高級品だろ?」
ローティさんが、横から顔を出した。
チョコレート、南方交易品なので、普段はそれほど安くない。王族都市ズィーベン・ゼーブルグなら手に入るけれど、小麦と卵で作る練り菓子と違って、誰でも気軽にたくさん買えるものではなかった。
「チョコ菓子だ。それならカカオパウダーを使った菓子でも良い。範囲は広い」
ハリスさんが的確な分析をしている。
「しかし、女性から男性。一方的なのは問題じゃないか?」
ごもっともな意見だと思う。でもすでに学院のあちこちでも、同じような話が広がっていた。強制ではないはずだった。
けれど、女子達の間では、ほとんど全員が誰かに贈る流れになっていた。渡さないと変に思われるかもしれない。せっかくの文化体験だから参加したい。友達にだけでも渡したい。先生には渡した方がいい。教室の皆にも渡すべきかもしれない。
そんな話が、毎日のように続いた。わたしが発案者だという事も知られていた。恋愛相談のついでに、どんなチョコが恋愛運を高めるか、そんな質問も受けた。
男子生徒の方からも、どうすればチョコが貰えるか、なんていう相談も受けた。
ひと月が過ぎ、バレンタイン当日が近づく頃には、調理室の使用申請表はほとんど埋まっていた。
月級の女子。星級の女子。陽級の上級生。さらには教員の名前まである。調理室だけでは足りず、魔法実験室や、寄宿舎の給湯室まで使う話になっているらしい。
学院中が、少しずつ甘いチョコの匂いに満たされて行く気がした。
*
礼拝堂で、つばめ先生は首を傾げた。
「バレンタインねぇ。わたしの地元では見ない風習ね」
「……そう、ですよね」
胸の奥が、少しだけひやりとした。
「まあ、面白そうだからいいんじゃない? 甘いものを贈るなら、悪い行事じゃないわ」
「はい。みんな楽しんでるみたいで、良いことかと……」
「そうだ。アルフォンスの家、まだ借りたまんまだから、いつもの三人で遊びにおいでよ。一緒にチョコ菓子を作りましょう」
「あ、もしかして先生も誰かに贈るの?」
「そうね。あの馬鹿二人が無事に帰って来たらね」
*
バレンタイン当日、学院は朝から甘い匂いがした。
廊下を歩くだけで、砂糖と焼き菓子と溶かしたチョコレートの匂いが混ざっている。普段は教本や剣や魔法薬の匂いがする学院が、その日だけは菓子店みたいだった。
教室では、女子達が包みを配っていた。
ハリエットは小さな包みを教室の皆に配り、オーレリアも配りながら記録し、記録しながら配っていた。
「ハリスはこれ。エドワード様の分とおそろい。特別なんだから」
「ありがとう、姉さん。もしかしてオーレリアも、ロイに?」
「当然なのよぅ。特別なチョコケーキを贈ったのよぅ。学院内行事だからって、外に広めちゃいけない決まりはないのよぅ」
わたしも、皆に配った。チョコ味のクッキーだ。
「普段の感謝です」
そう言って、ハリスさんに渡す。ローティさんにも、ウォールさんにも、フェルトンさんにも、他の男子にも。ハリエットと、オーレリアには、朝一番で友チョコとして、チョコケーキを渡してある。
ヴァンにも、教室で一つ渡した。
「ヴァンも、どうぞ。普段の感謝です」
「ああ」
ヴァンは短く答えて、受け取った。けれど、その時、少しだけ表情が沈んだように見えた。気のせいかもしれない。
その包みは、皆と同じものだった。同じでなければ、教室では渡せなかった。皆の前で、ヴァンだけ違うものを渡す勇気は、わたしにはなかった。
だから、別に用意した。
特別なチョコを。
「おぉぉーーー!! マジか!!」
その時、ローティさんの歓声が聞こえた。
「大いに感謝なさいな。皇國で最も有名な菓子店の一つ『フランドワ・モレ』で購入した、限定チョコでしてよ。庶民が滅多に口にできるものでは、ございませんの」
ヴァンとウォールさんも、イネヴェアさんから同じものを貰っていた。事故の時に助けてくれたから、少し特別らしい。わたしは、ちょっと複雑な気持ちになった。
「あなたが好きです!」
「ぼ、ぼくも……」
学芸会が終わってから、急接近していたリーゼちゃんと、エルマーさんだ。周りから拍手が起きている。
わたしには、とてもできない芸当だ。
でも、ちょっと羨ましいと思った。
*
放課後。
わたしはヴァンを、例の大きな木の下で待った。
冬の木は葉を落としていて、枝の向こうに薄い空が見える。幹は相変わらず太く、根元には雪の名残が少しだけ残っていた。ここに立つと、学院のざわめきが少し遠くなる。
両手で、小さな箱を持つ。
教室で配ったチョコクッキーとは違う。
包みの布も、結び紐も、何度もやり直した。中身も、何度も味を見た。甘すぎないように。苦すぎないように。訓練の後でも食べやすいように。少しだけ塩を入れて、木の実と干し果物を細かく刻んで混ぜた。
ヴァンなら、こういう方が食べやすいと思った。ヴァンに食べてほしいと思った。
今朝、ヴァンに渡したクッキーにだけ、待ち合わせの場所と時間を記したメモを忍ばせておいた。ちゃんと届いてるといいな。
待っている時間が、とても長く感じられた。
「ミコト」
とくん。心臓が高鳴った。
「ヴァン。…ええと」
「なに?」
ちょっと不機嫌なのかな?
「これも、受け取ってください」
わたしは、箱を差し出した。
ヴァンは少しだけ目を細めた。
「今朝、貰った」
「あれは、皆さんへの普段の感謝です」
「これは?」
聞かれて、言葉が喉の奥で止まる。
わたしは目を伏せた。
「これも、日頃の、その、……特別な感謝です」
嘘ではない。嘘ではないけれど。
ヴァンは、箱を受け取った。
「開けてもいいか」
「はい」
蓋を開けると、中には小さなチョコレートが並んでいる。形は不揃いだった。売り物のように綺麗ではない。でも、一つ一つ、自分なりに丁寧に作った。
「甘すぎるものは、ヴァンには重いかなと思って」
ヴァンは箱の中を見つめていた。黙っている時間が、少し長かった。失敗したのかもしれないと思った。もっと綺麗に作ればよかった。もっと甘くした方が好きかもしれない。
「ありがとう。あとで大事に食べる」
ヴァンが少しだけ笑った。それだけで、胸の奥がふわっと軽くなった。
「ミコト」
不意に呼ばれた。
冬の風が、大きな木の枝を揺らした。
「はい」
ヴァンの声は、いつもより低かった。
わたしは顔を上げる。
ヴァンは、逃げないようにするみたいに、まっすぐこちらを見ていた。
「真面目に、話がある」




