第七十六話 それぞれの聖夜
最初の水泡に映ったのは、暖炉の火だった。
ぱち、と小さく薪が爆ぜる。
アルフォンスの家。居間は、冬夜の冷たさを寄せ付けず、暖かさで満ちていた。木製の丸い食卓の上には、湯気の立った三人分の茶器と、焼き菓子が置かれ、窓辺には星形の小さな灯りが吊るされている。
ヴァンは、窓の近くに座っていた。装飾の光で溢れた夜の、遠い街並みを眺めている。傍らの小さなテーブルに置かれた皇國将棋のゲーム盤と、散らばった駒。開いたまま伏せられた詰め問題の本。
「そろそろ、開けてみたら?」
つばめ先生が、お茶のお代わりを持って来た。扉の聖輪樹とは別に、居間には小さな聖夜樹が置かれていた。その下、幾つも並んだ星結函。贈り物が入った飾り箱を、見つめる。
「はい。そうしましょう」
ソファに脚を伸ばして座っていたミコトが、読みかけの書物『いじわる皇子とターニャ』から顔を上げた。この冬休みの間にミコトが読了した本が、壁際に何冊も積み上げられている。
ミコトがソファから降りて床に座り、一つずつ丁寧に贈り物を開いて行く。ハリエットからは小花を閉じ込めた栞と、一冊の本。オーレリアからは革手帳と羽ペン。ハリスからは魔法の効果時間計測用の小さな砂時計。ローティからは勇者の剣を模したペーパーナイフ。ロイからは、くるみ割り人形。どこかへ遠出したアルフォンス先生からは、毛糸のマフラー。
包みを一つ開ける度に、わぁわぁと楽しそうな声を上げるミコト。つばめと二人で盛り上がる姿を、ヴァンは横目に見ながら、そろそろと自分の箱を開けて行く。その中身は、すべて保存の利く食べ物だった。
「あいつら……」
「あはは。みんな分かってるのよ。ヴァンは、物欲ほとんどないって」
つばめ先生が涙目になって、可笑しそうに笑っている。
「おれにだって欲しいものぐらい……」
ミコトは、ヴァンに渡す星結函を、両手でそっと包んだ。恐る恐る、一歩。少しだけ歩み寄る。
「もしかすると、これ、ヴァンは要らないかも知れないけど……」
*
ハリエットは、自分の部屋で薄い青色の紐で結ばれた星結函と、白い花の髪飾りを見詰めていた。
「エドワード様」
小さく呼んでみる。当然、返事はない。けれどハリエットは、微かに微笑んだ。
「姉さん、そろそろ出発の時間だ」
部屋の扉をノックする音。ハリスの声。ハリエットは顔を上げた。既に身支度は終わっている。
深い黒で統一されていながら、ただ重苦しいだけではない。胸元から肩にかけての線は慎ましく整えられ、肌の露出は少ないのに、その分だけ彼女の白い首筋と頬のやわらかさがかえって際立って見える。
頭には小ぶりの黒いヴェールが添えられていた。薄布の影が額から目元にかすかに落ち、そのせいで、もともと優しげなハリエットの面差しは、いつも以上に儚く、沈んで見えた。けれど、その黒は彼女を暗く陰らせるためではない。大切な誰かを悼むために、自ら華やかさを伏せ、静かに寄り添おうとする心の形そのものだった。
葬礼用のドレス。
最後の仕上げに、エドワードから貰った白い花の髪飾りを、そっと身に着けた。
*
別の水泡には、冬の軍港が映った。
沖には灰色の軍艦が並び、飛竜騎兵隊の夜襲に備えて、探照灯の太い光が曇天の空を照らしている。
桟橋を渡る兵士達の足音は硬く、荷を運ぶ声も短い。聖夜祭の灯りは、家々の窓辺にあるのに、軍港の中だけは祝祭から少し切り離されたようだった。
玄関都市シュピール・フェルゼン。港区の大半を占める海軍基地。エドワードは、その中の一室、皇國海兵隊の士官室で荷を確かめていた。
愛用の片刃剣。手袋。認識票。軍務用の書類。信号札。予備の魔力水晶。呪文の触媒袋。任務に必要なものは一つずつ確認する。表情に大きな変化はない。部下に見せる背中も、普段と何ら変わらず、動じない上官の後ろ姿だった。
ただ、一つだけ。小さな御守りに触れた時、指先が僅かに止まった。
薄く磨いた木の御守り。麦穂の焼き印は、おそらくヤクトブレオ家の紋章をアレンジしたものだ。もう片面には、白い小花を押し花にして封じてある。端には、使い易いように細い白紐が伸びている。
ハリエットが、職人の工房に押し掛けて、わざわざ自分の微傷治癒の魔法を込めたらしい。友人だったジェイコブが処刑されて以来、財政の苦しいヤクトブレオ家が、よくこんな魔道具の製作が依頼できたものだ。
多分、何ヵ月もお小遣いを貯めたのだ。そう思うと、エドワードは胸の奥に何か温かいものを感じて、御守りを握り締めて、窓から遠い夜空を眺めた。
今頃あの姉弟は、彼の墓参りに出掛ける頃だろうか。
『もしもの時は、俺の親族を頼む』
聖夜の翌日、夜明けを待たずに処刑されたジェイコブ。彼の言葉が今でもエドワードの胸に刻まれている。
「任せろ。私は、まだこんな所では死ねない」
エドワードの独り言は、今は亡き友へと、そして幼き許嫁に向けられた。
「隊長、作戦開始まであと15分です。皆、乗艦命令を待っています」
「分かった。直ぐに向かう」
部下の伝令に、エドワードは短く答えた。まとめた荷物を肩に掛け、消灯して士官室を後にする。
士官室の机には、空になった薄い赤茶色の小さな星結函が、捨てるに捨てられず、星明りに照らされて、そのまま置いてあった。
*
狭い船室の片隅。
ヴァルクと、エイデン。
二人並んで、木の床板に直で胡坐に座り、静かに目を閉じていた。
海の匂いと、鉄の匂いと、遠くの煙の匂い。戦場の空気は、昔からだいたい似ている。若い兵士達はどこか浮き足立ち、古参は余計なことを言わず、誰もが自分なりのやり方で怖さを腹の底へ押し込めている。
この二人にとって、それは瞑想。自分自身との対話の時間であった。
「エイデン」
「なんだ。瞑想の邪魔ぞ」
「前から気になっちょったがやけど……、学院や子供らの前で、あの喋り方はなんじゃあ?」
「あれは役作りだ。神父の真似事も大変なり」
「そん割には、神官学部の生徒よりも、宗教や信仰にこじゃんと詳しくないがか?」
「必要だから学んだ。その結果だ」
しばらく沈黙が続いた。波と風の音が聞こえる。
「なあ、おい。ところでこの艦、なんちゅう名前じゃったか?」
「緋鋼皇國海軍、北方艦隊所属、ハルバード級試作戦艦零番艦、ヘルヴスト」
「よう覚えちゅうのう」
「直衛対象は、北方艦隊旗艦ジェイダス。ミネアール級戦艦五番艦、バジェーナ大提督の座乗艦だ。我等の任務は、その前に出て先陣強襲だ」
外では機関の低い振動が続き、遠くで兵士達の声がした。
「つまり、わしらは真っ先に死ねっちゅうことぜよ」
「艦が沈む前に、我等が敵艦に乗り込んで、提督の首を挙げれば済む。ヴァルク、おまえが9年前にやってのけた作戦だ。今回も、それが期待されている」
「わかっちゅう、わかっちゅう。だが、今回は無理じゃ。状況が違うき」
「ぼやくな。今回は我が共に戦う」
「それに、私もいますよ」
突然の声。
その男は濃紺の軍装に身を包み、肩から術具帯を掛けて船室の入口に立っていた。襟元には、杖と星を組み合わせた魔道兵の階級章がある。いつもの穏やかな笑みのまま、しかしその姿だけは、教壇ではなく戦場に立つ者のそれだった。
「アルフォンス!? なんじゃあ、おんしまで来よったがか」
「皆には内緒ですよ。職員規定は勿論、軍務規定にも違反していますので……」
エイデンが、細い目を開いた。
「ふむ。これで生き残りの目が出たぞ」
「そうですね。エイデン、特にあなたは生還して、つばめさんと結婚する身ですから」
「返事は未だ貰っておらぬ」
「あは、そうさな。あがぁなつばめの反応、わしゃ初めて見たぜよ」
「ヴァルク、あなたは罪ですよ。鈍い。だからエイデンも無茶なことを……」
「どういうことじゃ?」
「愚か者め。つばめが、おまえをただの友人として見ていたと思うか」
「は?」
「アルフォンス。こいつ、懲らしめた方がいい」
「反対は致しません」
「ち、ちっくと待っとうせ……」
*
水泡の一つに、暖かな部屋の灯りが映った。
ドゥフテヴァルト公爵家、ロイ・アッシュフィールドの部屋だった。机の上には、すでに開けられた二つの星結函が置かれている。
その片方から出てきた小型魔法人形を、オーレリアはじっと見つめていた。
掌に乗るほどの小さな体。丸い胴。短い手足。頭には小さな水晶。机の上をよちよち歩く姿は愛らしかったが、その用途は可愛らしさとは少し違っていた。
「……この子は、何ができるのよぅ?」
「ネズミと害虫を撃退できる」
ロイは胸を張った。
「オーレリアの記録帳を齧る不届き者が現れても、これで安心だ」
「記録帳を齧る不届き者……」
オーレリアは、小型魔法人形を見た。
小さな魔法人形は、短い腕を上げて、勇ましく構えた。けれど身体が軽すぎるせいか、その場で少しよろける。
「ロイ様、これは大抵、男の子が喜ぶような……」
「うむ……」
少し神妙な顔で、じっと返事を待つロイ。
「でも、とても素敵な贈り物なのよぅ」
「そうか!」
ロイの顔が明るくなった。
「早速、分解して仕組みを調べるのよぅ」
「えぇ!?」
*
別の水泡には、暗く静かな部屋が映った。
そこには祝祭の声はない。
暖炉の火も、窓辺の灯りも、子供達の笑い声もない。あるのは、淡く清らかな魔法の光と、時を止めたような静けさだけだった。
レオナは眠っている。
保存装置の硝子面には、外の世界の星明かりが微かに反射していた。聖夜祭の飾りはない。星結函も、手に取る者がいない。
それでも、部屋の外には一つだけ小さな聖輪樹が掛けられていた。
*
首都ラヴェニカ。
皇城の一室にも、聖夜祭の灯りはあった。
マナが腕組みをしている。
隣でマギが、届けられた星結函の一覧を見ている。誰から誰へ。どの家からどの家へ。どの箱も贈答目録に従って並べられていた。
皇家の聖夜祭には、好意だけでは済まない贈り物がある。
忠誠。牽制。保険。誓約。探り。見栄。
「形式だけの贈り物が嫌いなのは分かるけどさ」
マギが言うと、マナは鼻を鳴らして肩を竦めた。
「仕分けるの、手伝ってくれても……」
マナは、ぷいっと顔を背けた。
*
水泡は、再び暖炉の火へ戻る。
「ありがとう。これは大事にする」
ヴァンは、黒い革手袋を着けて、手指を広げたり、拳を握ったりしていた。
「……温かい」
その言葉を聞いて、ミコトは嬉しそうに目を細めた。
「ふーん、良かったじゃない。ミコトちゃん」
「うん、気に入って貰えて良かっ……、あ。……それって」
つばめは、いつの間にか空を舞う燕を模した髪飾りを付けていた。
「あ、気付いた? ……ふふん、いいでしょう。エイデンにしては、良いセンス」
「はい。とても素敵です」
とてもよく似合っていた。ミコトはそう思って見惚れていた。
「ミコト」
呼ばれて、ミコトは顔を上げた。
ヴァンが、黒い星結函を手にしていた。
「これを、ミコトに……」




