第七十五話 聖夜祭
天蓋は、夜ではなかった。
見上げれば、どこまでも深く澄んだ宇宙が広がっている。暗黒と呼ぶにはあまりにも透き通った紺青と極大の中に、無数の星々が静かに明滅し、遠い銀河の粒光が薄い大河のようにたゆたっていた。
けれど、そこに底暗い寒々しさはない。万物世界の最果てを思わせる完全な静寂と、全知全能に織られた秩序の運行、深き御心に抱かれるような還るべき場所、魂が生まれる前の安らぎと暖かさが、同時に満ちている。
その広大な虚空の只中に、棚引く白雲が幾重にも折り重なり、まるで大地のような足場を作っていた。踏みしめれば沈みそうな儚さも、不思議と揺らがず、柔らかな光を内側から滲ませている。
雲の縁は淡く金に縁取られ、はるか下方の彼方へと流れ落ちるその様は、滝のようでもあり、魔銀絹布の裾のようでもあった。
その中央には、宮殿とも神殿ともつかぬ壮麗な建物があった。壁は白く、しかし雪や石とは違う。月光を磨き上げて固めたような、ほのかに青みを帯びた光沢を持ち、見る角度によって、朝焼けの薔薇色や夕暮れの薄紫をわずかに返す。
その周囲には何本もの柱が天へ向かって立っている。一本一本が巨木ほども太く、遥か頭上まで伸びてなお先端が見えないほど高い。柱の表面には蔓草めいた紋様や、流れる水を思わせる古い意匠が浮き彫りにされ、そこへ星明かりが差し込むたび、彫刻は静かに息づくように陰影を変えた。
その荘厳な空間の中心に、一つの静かな水鏡があった。円く広がる水面は、死んだように静まり返っているわけではない。ごく微かな呼吸をしているように、淡い波紋が時折ふるえ、覗き込めば空を映し、空を映しているかと思えば、いつの間にか見知らぬ森や街の灯、誰かの部屋の窓辺までも映し出していた。
「何を見ているのかしら?」
小さな妖精鈴の音にも似た柔和な女性の声が、この光景を見ている者へ届いた。
薄い青色の衣を、泉の流れそのもののように纏った女性だった。布は足元まで静かに垂れ、動いていないのに、水面の光を受けた波のように淡く揺れて見える。
青みを帯びた長い髪は背を越えて流れ、その中には銀や白金、翡翠や瑠璃の色をした髪留めが幾つも挿されていた。水滴の形をした飾りが、わずかな光を受けて小さくきらめく。
口許は、薄い青白のベールで隠されている。
そのため、微笑んでいるのか、ただ静かに見つめているのかは分からない。けれど伏せがちな瞳だけは、深い泉の底に沈む星のように、静かに澄んでいた。
「そう、遠き硝子の泉ね。新しい水鏡の一つとして、この場を見ることを許諾しましょう」
ほど遠く、回廊を来る甲高い靴音が聞こえた。
「でも、静かに見ているだけ、沈黙以外は許さない。今から来客ですもの」
その言葉に、女性の周囲で、愛嬌をもって動き回る光球が、幾つか震えた。
「可愛い燈天使達。出迎えなさい」
「はいなー」
「おまかせなりー」
二体一組の光球が、靴音のした方へと飛んでいく。それらは、回廊の先から歩いて来たもう一人の女性の周りを飛び交った。
淡い白桃色の長い髪が、柔らかに揺れている。髪には黄金色の星飾りがいくつも編み込まれ、歩くたびに小さな黄色や桃色、薄水色の光が零れて弾けた。額には細い冠があり、その中央には、ハートを細い曲刃が貫くような小さな意匠が輝いている。
衣は白と薄紅を基調とした、軽やかで華やかなものだった。薄いヴェールと柔らかな袖、金糸で縫い取られた星の模様、腰に下げられた恋占いの札。
「お出迎えありがとう。アルちゃん、コンちゃん」
瞳は明るく、燈天使達を見て表情はよく動く。神聖でありながら、どこか街の祭りに紛れて笑っていそうな、庶民的な親しみやすさもあった。
「今年も良い聖夜祭ね。イストラシス、元気してた?」
泉の女神。
泉の傍に座る者へ、癒しと一時の憩いを許す女神だった。彼女は気紛れに水鏡を覗き、世界の至る所を見て、泉へ落とされた独白を聞いている。
「ええ、元気だったわ。騒々しい貴女が来る直前までね。アーノウズ」
恋愛の女神。
誰かの恋を見つければすぐに頬を緩める。恋愛と微笑みと占いを司る、若き女神だった。努力と幸運と一途な想いの果て、遂に神となった若き女神は、今もなお、誰かが誰かを好きになる瞬間を、世界で一番美しい奇跡のように見つめている。
「あは。イストちゃんったら、辛辣ぅ~」
「騒々しいのは嫌いなの。知ってるでしょ」
「ひぃぃ~」
「お許しを~」
二つの光球が、蒼白くなる。
「もう、怖がってるじゃない。この子達も、おしゃべり好きなのに」
イストラシスは額に手を当てて、溜め息をついた。片手で追い払うような仕草で、燈天使達に暇を与える。
くるくる飛んで回って遠ざかる二つの光球を見送った後、アーノウズに向き直った。詰問するでも、怒るでもなく、ただ少し呆れたような態度で、イストラシスは尋ねた。
「それで、今年もするわけ?」
「もちろんよ。恋人達が最も輝く夜ですもの」
「嫉妬の闇が、最も深い夜でもあるわ」
「やめて。嫉妬の女神の話はしないで」
「はいはい、それじゃ始めるわね」
イストラシスは、水鏡に手を翳す。浮かび上がる幾つもの水泡。その一つ一つに、情景が浮かび上がる。
人の世では、聖夜祭。
神々の側では、創世祭の始まりである。




