第七十一話 聖輪樹
どれぐらい泣いていたのか、覚えていない。
気が付くと、ミコトが傍にいた。おれは慌てて顔を背け、袖で涙を拭いた。
ミコトに見られた。
見られていた。
気まずい。でも。
「ありがとう」
待っていてくれたから。
「ううん、わたし何もしていません」
「それでも、ありがとう」
おれは立ち上がって、芝生に刺さっていた木剣の折れ先を引き抜く。断面は、ささくれていた。さっきまでおれが握っていたものなのに、今はもうただの壊れた木片に見える。
届くと思った。今度こそ、ほんの少しでも届くと思った。でも、届かなかった。その証拠品。
木剣の折れた感触が、まだ手の中に残っている。兄貴の剣が、おれの剣を押し潰して、根元から折った。その瞬間、勝負は終わっていた。
分かっている。分かっていたのに、悔しかった。
「痛みますか?」
ミコトが聞いた。
「少し」
本当は左手首と、背中の肩甲骨辺りが、そこそこ痛い。
でも、痛いのは身体だけじゃない。身体の痛みなら、たぶん明日には少し引く。問題は、もっと奥にある。そこをミコトに見られたのが、たまらなく恥ずかしかった。
「保健室に行きます?」
「後で行く」
「後で、じゃなくて、今の方がいいと思います」
「……分かった」
おれがそう答えると、ミコトは少しだけ安心したような顔をした。
外庭には、まだ何人かの生徒が残っていた。こっちを見ている者もいる。
ローティが何か言いたそうにして、ハリスに止められていた。オーレリアは記録帳を抱えたまま、なぜか妙に真剣な顔をしている。
少しだけ周りを見てから、ミコトは小さく息を吐いた。言うなら今だ。
「ミコト」
「はい」
「冬休みのことだけど」
ミコトが、少しだけ背筋を伸ばした。
「おれが行ったら、邪魔になる?」
「邪魔?」
ミコトは、少し目を丸くした。それから、すぐに首を横に振った。
「邪魔なんて、そんなことありません」
「本当か」
「はい。むしろ、ヴァンが一緒なら、すごく心強いです」
「心強い、か」
「はい。知らないお家は、少し緊張しますから。つばめ先生がいらっしゃるのは嬉しいですけど、ヴァンも一緒なら、もっと安心します」
「そうか」
「そうです」
ミコトは神妙かつ真面目な顔で頷いた。それが少しおかしくて、少し笑った。
「じゃ、そのつばめ先生の所に行こう」
「はい」
*
保健室。おれは一応の治療を受けた。
「あの馬鹿、可愛いヴァン君に何してくれちゃってるの」
つばめ先生が、こんな風に言うなんて珍しい。ミコトも、反応に困っているようだ。
「いつものことだ。それに兄貴は悪くない。弱いおれの責任だ」
おれは思った通りのことを言った。
「なんてできた弟なのかしら。あんな勝手に前線に出ちゃうような、お馬鹿な兄のことを庇って、本当に……」
そんなつもりはなかったのに、ややこしい。でも、何だろう。この違和感。
「つばめ先生、もしかしてヴァルク先生が行っちゃうの、気に入りませんか?」
それだ。ミコトが言い当ててくれた。つばめ先生は、きっと兄貴が出ていくのが嫌なんだ。
「当たり前でしょ。突然そんなこと言われても、困る」
なんだ、おれと同じか。
「それに、エイデンまで行くってんだから、寂しすぎるわよ。あたしだって戦えるのに……」
そんな気はしてた。気配を悟らせずに、レオナを見守ってた時から、つばめ先生は実はかなり戦える人だと思ってたけれど、やっぱりそうだった。
「え。もしかして、つばめ先生も、前線に出たかったんですか?」
「違うわ。あたしだけ置いていかれるのが嫌なだけ」
やっぱり、おれと同じだ。
「弱いと、置いてかれる」
「それと女もね」
「それじゃ、弱くて女の子のわたしなんて、絶対に置いてかれちゃいますね」
「そうね。男の子って、いつも勝手だからね」
否定はしない。できない。おれも兄貴も、かなり好き勝手に生きていると思う。いや、ちがう。他があまりにも不自由に生きているだけなのかもしれない。
でも、だからって男が全部そうとは限らないじゃないか。
「それは人によるんじゃ?」
「逆よ。自分勝手な生き物を、オトコノコって呼んでるの」
「そういうものなんですか?」
「そういうものよ。オトコノコだったら、少しぐらい自分勝手な方が、子供として健全って話よ」
「兄貴も子供なのか」
「子供よ。誰よりも少年ね。それも夢見がちな」
分からない。オンナって分からない。でも、つばめ先生なら、兄貴に勝てそうな気がした。少なくともクチでは圧勝だと思う。
「ところで、あの約束は覚えてますか?」
「あの約束?」
「聖輪樹です。ヴァンが、手伝ってくれるって言ってくれたでしょう」
「ああ」
そうだった。
兄貴と喧嘩する前に、そんな話をした。
ミコトが初めて聖夜祭を迎える。おれは扉に飾る聖輪樹作りを手伝うことになった。
あの時は、それどころではなかった。
でも、今は違う。兄貴との本気の勝負は終わったし、冬はアルフォンス先生の家に行くことに決めた。
なら、次にやることを決める。
「いいわね。アルフォンスの家、扉が大きいから、飾りがいがあるわよ」
「なら、たくさん材料が要る」
「何が必要ですか?」
「山葡萄の蔓、赤い実。白い糸。あとは、小さい飾り」
「飾り?」
「何でもいい。木でも金属でも、布でも、紙でも、家によって少し違うけれど、色も形も基本的に自由だ」
「家によって違うんですか?」
「違う」
囲炉裏の匂い。山小屋の板壁。柔らかい光。白い布。誰かが、幼いおれの手に枝を持たせている。そんな記憶。
「そうだ。輪は、きっちり閉じない」
おれは言った。
「閉じないんですか?」
「ああ。一箇所だけ、指一本分ぐらい隙間を空ける」
「どうしてですか?」
「帰ってくる者が、そこから入れるように」
言ってから、自分で少し黙った。
帰ってくる者。兄貴。
「魔除けなのに、隙間を空けるんですか?」
「魔を入れるための隙間じゃない。帰る者のための道だって聞いた。だから、ただ閉じればいいわけじゃない。家は、守るだけじゃ駄目なんだと」
「守るだけじゃ、駄目」
ミコトが、ゆっくり繰り返した。
「入れてやらないといけない。帰ってくる奴を。迷ってる奴を。寒いところにいる奴を」
ミコトと、つばめ先生は、おれの話をじっと聞いていた。
「素敵です」
「ええ、いいわね。それ」
「そうか?」
「はい。すごく素敵です」
「あたし達も、そのやり方に従いましょう」
ミコトは両手を胸の前で握った。
「はい、それを作りましょう!」
ミコトの声が弾んだ。




