第七十話 止まらない
「喧嘩してくる」
そう言って教室を出て行ったヴァンが、外庭でヴァルク先生と対峙している。芝生の上だった。二人とも木の剣を握っている。ただそれだけなのに、そこだけ空気が違った。
廊下の窓側には、いつの間にか生徒たちが集まっていた。兄弟喧嘩だと言って、面白がって集まる生徒もいれば、ヴァルク先生に憧れる女子生徒達も集まっていた。
わたしの隣には、ハリエットも、オーレリアも、ハリスさんも、ローティさんも、イネヴェアさんもいる。けれど、誰も騒がない。最初は何か始まるのかとざわついていた他の生徒たちも、ヴァルク先生が構えた瞬間、静かになった。
こんな大勢の人から注目を浴びるなんて、演劇の舞台ならまだ仕方ないにしても、わたしには無理な相談だ。でも、ヴァンは堂々としている。人目なんて全く気にしてない。ただ真っ直ぐに、お兄さんのヴァルク先生だけを見ている。
ヴァンが走った。
速い。
そう思った時には、もうヴァンは先生の目の前にいた。左右に跳んで、低く沈んだかと思ったら、次の瞬間には、剣で棒高跳びみたいに空へ舞い上がっていた。先生の頭上を越えて、打ち込んだように見えた。
わたしには、何をしているのか分からなかった。次の瞬間、重い音がして、ヴァンが弾かれていた。芝生の上を転がる。けれど、倒れたのではない。転がりながら姿勢を整えた。
やっぱり、ヴァンは強い。そう思った。
でも、ヴァルク先生が回り込んでる。ヴァンの後ろだ。先生が打ち込んだ。避けた。もう一回打ち込んだ。それは受けた。吹き飛ばされた。
細かいことは分からない。戦いが一瞬の間に、目まぐるしく動く。目で追うのがやっとだった。みんなから歓声が上がっていた。
ヴァルク先生は、ほとんど動いていないように見えた。少なくとも、わたしにはそう見えた。ヴァンがあれだけ全身を使って跳び、転がり、向きを変えているのに、ヴァルク先生は必要な分だけしか動いていない。
「ちょこまか動き回りよって、体力がもつと思うちゅうがか? 爺さんは、そがな戦い方は教えちゃあせんはずじゃ」
身体を低くして、ヴァンはじっとしていた。
「なんちゃあ言い返せんがか?」
返事はしないで、ゆっくりとヴァンは立ち上がった。仕掛ける気だ。言い返すより、やり返す。そんな感じが、すごくヴァンらしいと思った。
「行くぞ」
もう一度、間合いを詰めた。と思ったら、すごく吹き飛ばされた。
わたしの心臓が、びくっと飛び跳ねた気がした。あんなの、わたしなら絶対に死んでしまう。ちょっと怖くなってきた。でも、やめてとは言えなかった。
ヴァンが、また立ち上がった。
最初の歓声は、もう消えていた。誰も何も言わない。言えない。ヴァンは強い。あの先輩は、あの後輩は、あの生徒は強い。たぶん、みんながそう思っていた。でもヴァルク先生は、もっと強かった。今は、誰がどう見ても、ヴァンが勝てる戦いじゃないって、そう思っている気がした。
湖でわたしを助けてくれた人。開かずの塔でも助けてくれた人。イノシシを倒した人。レオナを背負って山を走った人。舞台の上で黒騎士だった人。いつも言葉は少ないけれど、助けが欲しい時には、必ずみんなの前に立ってくれる人。
そのヴァンが、こんなにも届かない。
ただ見ているだけなのに、胸が苦しくなった。素人のわたしから見ても、まだ子供で、生徒で、弟のヴァンが、もう大人で、先生で、お兄ちゃんのヴァルクさんに勝てるわけがないって、そう思ってしまっている。だけど。
「今度は、そっちから来たらどうだ」
ヴァンは、勝ちを諦めてない。
まだ、目が死んでない。
「ほいたら、遠慮のう行くぜよ」
え。
消えた。
ヴァルク先生が、さっきまでヴァンが立っていた場所にいる。ヴァンはどこ?
「くっ……」
見つけた。
離れた所、芝生の上で倒れて転がっていた。
ヴァンは受け止めた。木の剣が互いにぶつかった音が聞こえたから、おそらく受けたはずだった。なのに、あんな場所で倒されている。
今度は、起き上がるまで少し時間がかかった。片手をついて、息を整えて、それでも立とうとする。木の剣を握る指が震えているように見えた。
もう……、やめてください。
そう言いそうになって、言葉を飲み込んだ。
これはヴァンが決めて、ヴァンが始めたことだ。止めたいのに、止めてはいけない気がした。それに、ヴァンは立っている。倒されたけど、また立ち上がっている。その手には、まだ剣が握られている。
二人とも剣を構えた。今度は同時に出た。
その一瞬だけ、道が見えた気がした。ヴァンの剣が走る。先生の剣を少しだけ上に押し退けて、懐に入ったように見えた。
届く。
そう思った。
でも、届かなかった。
ヴァルク先生は、ヴァンが持つ木の剣を圧し折っていた。これと似た様な光景を前に見たことがある。前にロイさんが、剣でヴァンと戦って負けた時だ。
あの時はロイさんの持つ木の剣が、石床に当たって跳ね返っていたけれど、今回はヴァンの折れた木の剣が、芝生の地面に刺さっていた。
ヴァン自身も、地面に片膝をついていた。
それで、終わりなのだと分かった。
ヴァンは負けた。
「もう気が済んじゃろ。続きは戻ってからじゃ」
「絶対だぞ」
「ああ」
ヴァンに背を向けて、先生は校舎に戻る。そこで忘れていた呼吸を思い出したように、大歓声が上がった。
わたしは駆け出していた。ヴァルク先生とすれ違う。
「ミコト」
呼び止められた。
「そっとしちょき」
わたしは返答に詰まった。
「けんど、あいつを頼むぜよ」
え。それはどういう意味だろう。わたしは先生の背中に一礼してから、ヴァンに向き直る。
ヴァンは芝生に手をついたまま、俯いていた。わたしは、すぐには近寄れなくて、少し離れた所で立ち止まった。
「ヴァン……」
なんて言葉を掛ければいいか分からなくて、名前を呼ぶだけになった。
ヴァンの肩が震えていた。
最初は、息が乱れているのだと思った。
違った。
ヴァンは泣いていた。
声を上げているわけではない。泣きじゃくっているわけでもない。ただ、俯いたまま肩を震わせて、喉の奥で押し殺したような音を漏らしていた。
ヴァンが、泣いている。
あの、ヴァンが。
わたしは、その場から動けなかった。




