第六十九話 兄弟喧嘩
「兄貴、喧嘩しに来た」
おれの兄貴、ヴァルク・ラドーレは職員室の中で顔を上げた。
職員室には、何人かの先生がいた。机の上には教本や書類が積まれていて、窓からは外庭の芝生と並木が見えている。
「いきなりどういたがじゃ。ヴァン、理由を話してみい」
「理由なんて、どうでもいい。死んだら、もう喧嘩できない」
兄貴は、少しだけ目を細めた。今の言葉で、おれの真意、その片方は伝わるはずだ。
「なるほどのう。爺さんの剣を取り返す、最後の機会になるかもしれんき、いうことか」
「それもある。でも、おれが勝ったら、弟に負けるような兄貴なんて、戦争に行かなくてすむ」
職員室の空気が少し張り詰めた。アルフォンス先生がこちらを見て、何かを言いかけた。
「その捻くれた優しさ、どうにかならんかのう」
「ならない。あと、優しいかは分からない」
「いいや、十分に優しい子に育っちゅう」
兄貴は、いつも返答に困ることを言う。本題に入ってしまえ。
「やるのか、やらないのか」
「やっちゃる。ただし、先生として特別稽古をつける。そういう形にしちょく」
兄貴は席を立った。
「何でもいい。本気で行く」
「それ以外に、万が一でも勝てる道があるがか」
兄貴は、壁に掛けてあった訓練用の木剣を一本取り、おれにもう一本を放った。
「ない。わかってる」
受け取った木剣が、今だけは重い。
爺ちゃんの剣ではない。あの形見は、ここにはない。けれど、木剣を握った瞬間、墓の前で抱えていた剣の重さを思い出した。あの日、初めて本気で兄貴に向かっていった時のことを。
あの時、おれは剣を放せなかった。放したら、爺ちゃんがもっと遠くへ行く気がした。今は、兄貴が前線へ行く。死ぬかもしれない場所へ行く。だから、その前に一度くらい、おれの全力をぶつけてもいいはずだった。
外へ出る。
おれと兄貴の後に、ミコトや、ハリス達も続く。気になるけれど、今は構っていられない。終わったら話そう。今は兄貴と、とことん本気の勝負をする時間だ。
外庭の芝生は、朝の湿り気をまだ少し残していた。正面玄関前の噴水ロータリーが見える。昨日、学芸会の来賓や兵士たちが通った場所も、今日はいつもの素顔に戻っている。
兄貴が芝生の上で、木剣を構える。
それだけで、場の空気が変わったのが分かる。遠巻きの観衆達にも、それは伝わっているようだ。いつの間にか、廊下の窓や玄関の周りに、生徒達が集まっていたが、誰も野次の声をあげない。
十七歳で緋鋼武勲章を受けた騎士。
ローティが憧れる、伝説の騎士。
おれの、兄貴。
「来い」
その瞬間。おれは全力で走る。
躊躇わない。様子見もしない。不要だ。
距離を詰めながら、見て、感じて、考える。背丈の差があるから、頭部は遠い。跳べば隙が多い。低く、膝や脚を狙えば、簡単に読まれる。
接触直前の距離。左へ跳ぶ。
と、見せ掛けて右へ跳ぶ。打てる間合いだ。おれは兄貴の膝を狙う。
簡単に払われる。……のを見越して、剣先を膝への狙いから外して、地面に突き立てる。
手首を捻る。剣を杖に、跳ぶ。身体も捻る。逆立ちになる。兄貴の頭上を飛び越える。
着地。
なんて待っていられない。落下中、天地が逆さの状態で、首を薙ぐ。
入った。
……かに思えたが、防がれた。兄貴は、いつの間に向き直った?
重い。単なる防御が、イノシシより重い。吹き飛ばされる。
「くっ」
思わず息がこぼれた。足下が芝生で良かった。地面を二度、転がりながら体勢を整える。片膝立ちで、切っ先を兄貴に向ける。変則的な構え。
いない。切っ先の向こう側で、待ち構えているはずの兄貴の姿がない。後ろ?
勘だ。前に跳べ。
頭を低く。思いっきり前へ、地面を這うように転がって、間合いを開く。背後で風切り音がした。
返す刃で追撃が来るに違いない。体勢を立て直してから受ける余裕はない。
ならば、風が過ぎた方とは逆に、身体の水平回転で向きを入れ替える。体勢の立て直しと、受けの動作。これを一度にやる。
衝撃。
読みは見事に当たった。兄貴の放った横殴りの一撃を止めた。……が、両手でしっかり支えてあるのに、剣が爆ぜたような力が加わる。逆らっちゃだめだ。剣も、下手すれば腕も折られる。
おれは少しだけ地面の踏ん張りを消して、吹き飛ばされるに任せた。芝生の上で、横に、斜めに、縦に、後ろにと、軸の向きを変えながら五回と半分、地面を転がった所で、低い姿勢で構え直した。
今度は距離があった。一息つける。目は逸らさない。
その時、周囲から歓声が上がった。うるさい。なんで黙って見てられないんだ。いや、いい。気にするな。
始めてから何秒たった? まだ、30秒は過ぎていないはずだ。
「ちょこまか動き回りよって、体力がもつと思うちゅうがか? 爺さんは、そがな戦い方は教えちゃあせんはずじゃ」
分かってる。体力はもたない。爺ちゃんの戦い方ともちがう。
ただ、今のおれが兄貴に勝てるかもしれない戦い方なのは、間違いない。
同じやり方では、より積み重ねた方が勝つ。だから、おれが兄貴に万が一にでも勝てるとしたら、素早さでかき乱して、隙を作るしかない。
「なんちゃあ言い返せんがか?」
兄貴が、言葉で揺さぶりをかけて来る。これに付き合っちゃダメだ。思考がブレる。兄貴は、おれの考えなんて読んだ上で、何を狙っているか分かった上で、ああ言ってるに違いない。
おれは、低い姿勢の構えから、ゆっくり静かに立ち上がって、構えを基本に戻す。
仕切り直しだ。
でも、さっきまでの動きは、兄貴の意識に、印象として焼き付けたはずだ。この次の一撃にも、その印象を引きずってくれたなら、おれにも勝機はある。
次だ。
この次も、さっきと同じ手順でわざと攻める。無駄な動きが多くなるのは分かっている。でも、そうでもしないと届かない。正攻法じゃ勝てない。ずっと兄貴を倒すために考えて来た作戦だ。
「行くぞ」
おれは再び全力で走って、兄貴との間合いを詰める。
接触直前の距離。左へ跳ぶ。……と、見せ掛けて右へ跳ぶ。
……と、見せ掛けてそのまま左へ跳ぶ。
衝撃。
マジか。
おれは吹き飛ばされた。くそっ、分かってたけれど、小細工が通用しない。
「かはっ」
剣筋が速すぎて見えない。見てからじゃ間に合わない。
地面を転がる。少し背中を打った。肺から空気が漏れるが、大したことはない。反射的に、なんとか受けが間に合っていたようだ。幸いにも剣で打たれてはいない。
おれは、再びゆっくりと立ち上がる。兄貴は、待ってくれている。あれは手を抜いてるとかじゃない。こっちが全力を出して、それでもなお叩き潰されるってことを、教えるためだ。腹の立つ兄貴め。
深く。長く。おれは息を吐く。
空気と共に、下らない雑念と、これまでの戦いの意識を、しぼり出して捨てる。
おれが間違っていた。
印象を焼き付けるつもりが、こっちが引きずられていた。忘れろ。今までの戦いは忘れろ。最初から。ここが最初だ。全部を捨てて、次に拾え。
息を吸え。
鼻から、肺の奥、腹の底へ。
さあ、やるぞ。
「今度は、そっちから来たらどうだ」
挑発だ。兄貴には効かない。
でも、付き合ってはくれるはずだ。
「ほいたら、遠慮のう行くぜよ」
来た。
おれに捌けるか。




