第六十七話 帰る場所
「ヴァルク先生が……!」
ハリエットの声は、教室の空気を一瞬で変えた。
「姉さん、落ち着いて」
「ごめんなさい。大丈夫」
おれは立ち上がった。
「兄貴が、どうした」
ハリエットは胸に手を当てて、息を落ち着かせようとしていた。廊下を走ってきたのだろう。髪が少し乱れている。
「エドワード様から、伺いました」
「あの人、来てるの?」
ハリスの問いは、驚き混じりだ。
「はい。校長室の近くで。エドワード様は、先生方と少しお話をされていて……それで」
そう言ってから、ハリエットはおれを見た。
「ヴァルク先生が、召集されました」
兄貴が。
召集。
「それとエイデン神父様も」
学院最強の二人が。
「エドワードさんは、それを伝えに来たってわけか。姉さん、いつか分かる?」
「近日中だって」
皆がどよめく中、ミコトだけが首を傾げていた。
「それって、どういうことですか?」
ミコトが、首を傾げ直しながら尋ねる。
「召集っていうのは……」
言葉だけは、頭に入ってる。意味も分かる。けれど、すぐには腑に落ちないだろう。おれは、ハリスの言葉を遮った。
「戦争だ」
「え……」
おれの言葉に、ミコトは固まった。
ハリエットは一度だけ、目を伏せた。
ローティが口を開きかけて、閉じた。イネヴェアも、何も言わなかった。
教室の温度が、少し下がったような気がした。
「ヴァン」
ミコトの声がした。
「大丈夫ですか」
「ああ、大丈夫だ」
そちらも見ず、おれは反射で答えた。半分、嘘だ。
兄貴なら大丈夫、それは本当。かなり強い。例え前線に配属されたって、滅多なことでは死なない。だからって心配しないわけじゃない。
おれは戦争を知らない。話に聞いただけだ。分からない。兄貴が、分からないところへ行って、分からないことをするのが怖い。おれは、兄貴がいなければ、生活ができない。学費が払えない。山で狩りをして暮らすしかなくなる。
ちがう。そうじゃない。兄貴は、ただの兄貴でいい。必要か不必要かで考えたら必要だけれど、そういう考え方それ自体が、なんか嫌だ。おれは兄貴のことが、好きなのか嫌いなのか、ちょっと分からない。だけど、兄貴が戦争で死んでいなくなるのは、きっと大丈夫じゃない。それは絶対に嫌だ。
そう思った時、教室の扉が開いた。アルフォンス先生が入ってきた。
いつものように、歴史の教本と出席簿を持っている。けれど、いつもより少しだけ表情が強張っている気がした。教室のざわめきが、自然と静まる。
「皆さん、席についてください」
アルフォンス先生は、そう言った。朝礼が始まる。おれは窓際の席へ戻った。隣の席にミコトが座る。
「すでに耳にした者もいるかもしれませんが」
アルフォンス先生は、教卓の前に立って言った。
「近日中に、ヴァルク先生、エイデン神父の両名が召集され、学院を一時的に離れることになりました」
教室がざわついた。ハリエットの話は、やはり本当だった。
おれは、机の下で拳を握った。
「詳細は教えられませんが、両名とも、前線に関わる特殊任務に就くことになります」
前線。
特殊任務。
アルフォンス先生の口から出ると、それは噂ではなくなった。教室の誰かが息を呑む音がした。前線。特殊任務。戦争でもやってなきゃ聞かない言葉だ。
ローティが手を上げた。
「先生」
「はい、ローティ君」
「二人はいつ帰って来ますか? 戦争が終わった時ですか?」
隣でイネヴェアが少し目を細めた。ハリスは机に視線を落としている。ハリエットは黙っている。アルフォンス先生は、すぐには答えなかった。
目を閉じ、少しだけ考えてから、ゆっくりと口を開く。
「今、皆さんに話せることには限りがあります」
教室が静かになった。みんな、先生を真剣に見ている。
「ですが、何も知らないままでいることが、皆さんのためになるとも思いません」
先生は、教卓に置いた手を軽く握った。
「この戦争。その始まりだけを見れば、大海峡諸島の権益争いです」
権益。つまり植民地の取り合いだ。
「ですが、それだけではありません。海を支配してきた海竜王国にとって、海へ進出する皇國は、いずれ必ず衝突する相手でした」
これは前に兄貴から聞いた。確か地政学とかいう話だ。皇立学園の高等部から、本格的に習うと聞いた。
「今回の戦争。第二次鋼竜戦争は、海竜王国による奇襲から始まりました」
「先生っ! 第二次って?」
「第一次があるってことだ」
ローティは質問が多い。おれは、いいことだと思うけれど、ハリスは呆れたように答えた。
「そうですね。第一次鋼竜戦争は、君達の生まれたばかりの頃に、停戦協定が結ばれました。ですから、記憶になくて当然ですね」
それは聞いて知ってた。兄貴が、勲章を貰った戦いだ。つまり、おれが赤ん坊の頃から、兄貴は戦争に出てるってことだ。それだけ多く戦ってたら、おれより強くて当然だ。
「開戦直後、我々は大海峡諸島の海軍基地に大きな打撃を受け、一時撤退を余儀なくされました」
「知ってる。奇襲された! 卑怯な連中だ!」
フェルトンが憤慨している。だけど、おれに言わせれば、奇襲なんて受ける方が悪い。まあ、兄貴の言葉でもあるけれど。
でも、それで死んだ兵士もいる。そいつらは悪くない。ただ、不運だった。悪い兵士なんて一人もいない。悪い指揮官がいるだけだ。
これも兄貴の言葉。意味は何となく分かる。
「先生。この戦争はいつ終わりますか?」
ローティが、いたって真面目に質問した。それに答えられる人なんているのか。
「この戦争は、恐らく四年後に止まります」
いた。
「ですが、戦争は、勝てば終わるとは限りません。相手が折れ、こちらが許し、双方が終わらせる形を選んで、初めて終わります」
ん。つまり、止まると終わるは違う?
「なので、さらに四年後、また戦争は始まるでしょう」
誰も、すぐには声を出さなかった。おれは、アルフォンス先生の顔を見ていた。なんで、この人は断言できるんだ?
「なんで分かるんですか?」
思ったことを直ぐに口にするのは、ローティの美徳だと思う。
「そうですね。勘でしょうか? まあ、あくまでも参考程度に留めておいてください」
ローティは、何かを言おうとして、やめた。勘なら仕方ない。おれも何も言えない。でも絶対に何か別の理由があるはずだ。未来視とか、占術とか。
アルフォンス先生は教室全体を見渡した。
「さて。皆さんが今日すべきことは、いつも通りに学ぶことです」
いつも通り。
その言葉が、今日は少し難しい。おれは変になったままだから。
「不安になるなとは言いません。不安になって当然です。けれど、不安だからこそ、足元を疎かにしないでください。授業を受けて、学び、食事をして、休み、動いて、必要な準備をする。それら全て、大切なことです。分かりましたか?」
「「はい」」
先生の声は、いつもと同じくらい穏やかだったが、教室の空気はもう朝礼の前とは違っていた。生徒達の返事にも力がこもっていた。遠い北の海で起きている戦争が、こんな山奥にある七聖学院にまで影響している。それは、おれたちを少しだけ強くする。そんな気がした。
「冬休みについても、各自の予定を確認しておいてください」
その言葉で、教室の中に別のざわめきが広がった。
冬休み。帰省。帰る場所。
ミコトは、寄宿舎に残るのだろうか。それとも故郷の和之国に帰るのだろうか。
「今日の朝礼は以上です」
アルフォンス先生の言葉で、すぐに教室が動き出す。小さな声で話す者。教本を開く者。隣の席と顔を見合わせる者。アルフォンス先生が、こちらに来た。
「ミコトさん」
「はい」
「ミコトさんには、この国にご家族がいません。寄宿舎に残ることもできますが、冬の間、学院の人手はかなり減ります。私としては、できれば一人で置いておきたくありません」
「一人?」
「はい。ミコトさん以外の生徒は、みんな帰省します。その間は、食堂も使えませんし、洗濯をする者も、風呂焚きをする者もいません」
夏休みと違って、冬休みは学院に残る生徒はいない。毎年そうだった。でもおれは知っている。ゴーンズさんだけは建物を管理するために残る。
なのでおれは、用務員室に入り浸る。寝袋を持ち込んで、朝から晩まで、皇國将棋で遊ぶ。今年もそうする予定だ。
「ミコトさん、そこでよろしければ、冬の間は私の家へ来ませんか。無理にとは言いませんが」
「先生の、お家ですか」
「はい。遠出する私に代わって、つばめ先生がいます」
ミコトは、すぐには答えなかった。黒縁眼鏡の奥で、少しだけ目が揺れている。しかし、ミコトはつばめ先生と聞いて即答した。
「行きます。他に行く宛てもないし、つばめ先生と一緒なら、きっと素敵です」
「分かりました。では、そのように準備しておきましょう」
「よかったな。ミコト」
「うん」
冬休みの間は、ちょっと離れ離れになるのか。
「それと、ヴァン君」
ん。おれ?
「ヴァルク先生からは、君のことも気にかけてほしいと頼まれています」
「おれは、いつも通りにする」
そもそも、おれは兄貴と一緒に、あの狭い部屋で暮らすのがいやで、用務員室に来ていた。今年は、兄貴がいないけれど、残された部屋の管理なんて、やりたくない。結局、街にいるより、学院にいる方がいい。
「おや。聞いていませんか? 今年はゴーンズさんもいませんよ」
「え。なんで?」
「理由は分かりませんが、皇國首都で過ごすようです」
「そうか……」
予定が崩れた。おれは、どうしようか迷った。
ミコトが、おれを見る。心配そうに。
その時、アルフォンス先生が、静かに問いかけた。
「ヴァン君も、私の家に来ませんか?」
「え」
待て。それってつまり……。




