第六十六話 昨日のこと
おれは、変だ。
どこか変になった。
昨日のことが、頭から離れなかった。
「ヴァン」
朝。声をかけられて、顔を上げた。
ミコトが、教室の入口に立っていた。
昨日と同じミコトだった。いつもの黒縁眼鏡をかけて、いつもの艶のある黒い髪を整えて、いつもの制服を着ている。つまり、いつものミコトだ。昨日の白百合姫ではない。舞台の上の姫ではない。なのに、それなのに、今までのミコトとはもう違って見えた。おれは変になった。
「おはようございます」
「ああ」
「おはようございます、でいいんですよね」
「たぶん」
「昨日、いろいろありすぎて、今日がちゃんと朝なのか、少し自信がなくて」
ミコトは小さく笑った。いつも通りの笑顔だったのに、いつも以上に心に風が吹き抜けていった。なんだこれ。おれは、少しだけ頷いた。変になったことを、悟られてはいけない。平静につとめる。
「朝だ」
「はい。朝ですね」
会話は普通だった。いたって普通のはずだった。けれど、ミコトが少し目を逸らした。その横顔、頬が少し赤くなっているような気がする。こういう表情は初めて見る。と、見つめてしまっていた。これはいけない。おれも、少し遅れて視線を外した。やはり普通ではなかった。おれは変になっている。
昨日までなら、こんなところで困らなかった。ミコトが話しかけて、おれが答える。それだけで済んでいた。でも今は違う。気まずい。
ミコトを見ると、昨日のことだけじゃなく、あの日、湖でのことも思い出す。冷たい水。濡れた髪。止まっていた息。見慣れない服装。蒼白くなった肌。赤みの残る唇。その艶々した感じ。
その唇に吹き込んだ息。
息を吹き込むのに邪魔だったから、眼鏡は外した。眠っているようなミコトの顔。あごの輪郭と鼻の形、眉の線、口許の形。こんなに間近で、じっくり女の子を見たのは初めてだった。
命を救わなきゃいけないのに、見てる場合じゃない。そう焦ったのを思い出した。おれは、あの時から気になっていた。ミコトが、気になっていたけれど。知らないふりをしていた。
そのミコトが転入生だと知らされた。おれは、もう関わらないと決めていた。でも、無理だった。ついつい、目で追っていた。助けた相手だから、放っておけない。いきなり落ちて来て、不思議なことだらけで、興味があった。たぶん、それもある。
「おい、二人とも」
ローティの声が割り込んできた。おれは思い出から引き戻される。
「なんか、朝から変じゃねえか?」
ミコトの肩が跳ねた。おれはローティを見た。こいつ、こういうことになると、やけに鋭い。とりあえず、変になったことを教えなくていい。
「変じゃない」
「いや、変だろ。なんかこう、二人して、妙に間が――」
「ローティ」
ハリスの声がした。ローティの言葉が止まる。正直、助かる。ハリスは席に座ったまま、教本を開いていた。顔も上げていない。
「昨日の疲れだ。騒ぐな」
「え、そうか?」
「そうだ。お前も疲れているはずだ。昨日、空中で派手に吹き飛ばされていただろう」
「あのくらい平気だ。ヴァルク先生に習った受け身は、すごく役立つ」
「そうか」
それは、おれも習った受け身だ。転がるやつ。爺ちゃんからは基本を少しだけ、体術の一環として本格的に習ったのは、兄貴と一緒に暮らし始めてからだ。
「ヴァンは、あれを小さい頃からやってたんだろ?」
「やってた」
「いいな、おまえは。ヴァルク先生っていう最高の兄貴がいてさ」
ローティは兄貴に教わってから、ずいぶんと兄貴のことを慕っているようだ。騎士として有名なのは知っているが、詳しいことは知らない。
「最高かどうかは分からない」
「そこは否定すんのかよ。緋鋼武勲章を貰った伝説の騎士だろ」
「そうらしいな。でも、ただの兄貴だ」
おれにとって兄貴は、伝説の騎士ではない。勲章を貰った英雄でもない。朝から変な訓練をさせて、転べば笑って、飯を食えと言って、たまに何も言わずに頭を叩いてくる、ただの兄貴だ。爺ちゃんに似てるところもあって、爺ちゃんと違うところもあって、兄貴は兄貴だ。
「ヴァン。それは、どういう勲章なのですか?」
ミコトが、兄貴のことについて聞いてくるのは珍しい。と同時に、少し面白くなかった。別に、ミコトが兄貴のことを聞くのはおかしくない。兄貴は目立つ。強い。教師としても、騎士としても、たぶん有名だ。もしくは勲章について単純に興味を持っただけかもしれない。知らないことだから、知りたくなるのは当然だ。
それは分かる。分かるのに、少しだけ気に入らなかった。
「戦場で、かなり大きな功を立てた騎士とか軍人に贈られる勲章だ」
「かなり大きな、ですか?」
「ああ」
「すごいのですね」
「……すごいんだろうな」
「だろうな、なのですか?」
「何をしたか、よく知らないからな」
おれは少し不親切だったかもしれない。ちょっとだけ自己嫌悪。
「そのヴァルク先生ですけれど、先程あちらで校長先生に呼ばれておりましたわ」
みんなが振り返ると、イネヴェアがいた。怪我はもう治ったのか分からないが、もう松葉杖は使っていなかった。
「イネヴェアじゃん。脚はもう治った?」
「ええ、もちろん。治癒魔法は偉大ですもの。走ることは禁止されていますが」
ローティは、いつの間にかイネヴェアと普通に話すようになっていた。普段なら、おれは二人の距離というか、人間関係なんか気にしないのに、なぜか今日は気になってしまった。いや、それよりも兄貴の話だ。
「兄貴、なんで呼ばれた?」
「それは分かりませんわ。盗み聞きする趣味はございませんもの」
「そうか」
「でも何故かエイデン神父様も御一緒でしたわ」
「そうか」
おれの知る限り、この学院で一番強いのは兄貴かエイデンさんだ。ジークハルト先生とアルフォンス先生の能力は分からないけれど、単純に身体だけを使う戦いなら、間違いなくあの二人だ。そんな二人が呼ばれるって、何かあるに違いない。
「そういえば、ヴァルク先生とエイデン神父って、皇立学園で同級生だったって、本当か?」
ローティの問いに、おれは頷きで答えた。聞いた話では、アルフォンス先生も、つばめ先生も、エドワードさんも、同じ学園卒業生らしいけれど。
「そのエイデン神父様って、エドワード先生よりも強いってお聞きしましたわ」
「え? すごい。イネヴェアさん、それは本当ですか?」
ミコトが、今度はエイデンさんに興味を持った。なんで少し面白くないんだ。わからない。おれは「どこか変になった」が治らない。
「前にエドワード先生が仰っておりました。ただの、ご謙遜かもしれませんが」
「たぶん、エイデンさんは修道僧だ」
おれは自己嫌悪も避けたい。知っていることをミコトに話した。
「もんく? 神父様じゃなくって?」
ミコトが尋ねる。おれは頷く。
「なあ、ちょっと聞きたいんだけど、修道僧って、神父と何が違うんだ?」
ローティの問いに、おれは面倒くさいので、ハリスの方を見た。ミコトも見た。ローティも見た。イネヴェアも見た。みんなで見た。
「ん、何だ?」
おれ達の視線にハリスが気付いて、教本から顔をあげた。
「修道僧と神父、何が違うんだ?」
ハリスは溜息を一つ吐いてから、本を閉じて机に置いた。
「その人の適性と、実際に就いてる職業は違うってこと」
「どういうことですか?」
「神父は務めだ。仕事。でも、修道僧は、冒険者ギルドでの分類。あの人の才能というか、修めた道というか、どんな事に向いてるかという、能力の話だ」
ミコトは、ちょっとよく分からないという顔をしていたが、言葉を噛み砕いて、理解しようとしているときの、いつもの表情になっていた。
「なるほど。そういうことなのですね」
ミコトは今ので何とか理解したようだけれど、ローティの方は分かったような分からないような困った顔をしている。
「……あ」
なにか思い付いたようだ。たぶん、騎士について聞く。
「じゃあ、騎士は?」
やっぱりそうだ。ローティは分かりやすい。
「騎士も務めや身分だから、職業に近い。剣士とは違う」
「違うのか?」
「違う」
こいつ、騎士がよく分かってないのに、騎士になりたがってたのか。
「その前に確認だけど、ローティがなりたいのは、騎士ではないだろう」
「え?」
それは、騎馬に乗る人の意味だ。皇國将棋にも登場する駒だ。
「ローティ。騎兵隊の、あれだ。真っすぐに走る駒。いつも、おまえの魔法使いがやられるやつ」
「ああ、あれか」
「そう。実際のあれは馬と装備と従者が要る。つまり、大金がかかる。ほとんど貴族のものだ」
「……まあ、そうだな。でも関係ない。俺は馬に乗りたいんじゃない」
「それじゃ、称号としての騎士か」
「そうなのかも?」
「例えば、家名だけで騎士職に就く貴族もいるし、金を積んで騎士の位を買う商人もいる。それに、魔法使いが武功で騎士勲を受けることもある」
「じゃあ、騎士って強いやつのことじゃねえのかよ」
「強い騎士もいる。弱い騎士もいる。立派な騎士もいる。名前だけの騎士もいる」
「……嫌な言い方するな」
「事実だ」
ハリスは正しい。でも、ローティに対しては、それだけじゃ何か足りないと思った。おれは何か言おうとした。例えば黒騎士とか。
「ローティさんが目指しているのは、あの黒騎士みたいな人ですか?」
ミコトに言いたいことを言われた。これがロイだったら少しムッとしたかもしれないが、ミコトと同じ発想だったから嬉しくなった。こんなことで、おれはやっぱり変だ。
「あ、そうそう。それ!」
「なるほど。ローティ、お前が欲しいのは、騎士職でも騎士勲でもない。忠義の士として認められることか」
「忠義の士?」
「誰かに仕え、誰かを守り、名に恥じない者。お前が騎士と言っているのは、たぶんそちらだ」
「うん、それ!」
イネヴェアが、革の鞄から教本を取り出して机に置きながら言った。
「誉れのある生き方ですわね」
「イネヴェア、おまえの騎士になってやろうか?」
「お断りですわ」
相変わらず速い。
それにしても、誰かを守る騎士か。おれは、ついミコトの方を見た。特に考えもなしに見てしまった。ミコトもおれを見ていた。
目が合った。
互いに目を逸らした。
「やっぱ、なんか変じゃね?」
ローティめ。
「ヴァン君! 大変!」
その時、息を切らせてハリエットが入って来た。
「どうした?」
「ヴァルク先生が……!」




