第六十五話 二度目の真実
「えぇ~~~~!?」
自分でも驚くくらい、大きな声が出た。
初めてじゃない。
実は、二度目なんだ。
二度目。
二度目。
二度目、とは。
「に、二度目、ですか?」
「ああ」
「二度目って、あの、二回目という意味の、二度目ですか?」
「たぶん、それ以外の意味はない」
そうかもしれない。
そうかもしれないけれど、そういうことではない。
わたしは口を押さえたまま、何度か瞬きをした。舞台の上で触れてしまったことだけで、頭の中はいっぱいいっぱいだった。ヴァンの初めての、ふぁ、ファースト・キスを勝手に奪ってしまったのではないかと思って、それを謝らなければと思って、でも事故だから数えないのかもしれないとも思って、それでも触れたのは事実だから、なかったことにするのも違う気がして。
だから、謝った。
謝ったのに。
初めてじゃない、と言われた。
では、一度目はどこへ行ったのか。
いつ、誰と。
「待ってください。待ってください、ヴァン」
わたしは片手を前に出した。
「では、一度目は、いつですか」
そう聞くと、ヴァンは黙った。
「いえ、誰とですか」
さっきまでとは違う沈黙だった。そして、聞いてから失敗に気付いた。これはプライベートな個人的事情を、まったくもって無遠慮に尋ねてしまっているのでは?
「湖で、ミコトと」
ヴァンが言った。
「へ? 湖? わたし?」
「おまえが、最初に学院へ来た日だ」
その言葉を聞いた瞬間、顔の熱が少し引いた。
湖。
最初に学院へ来た日。
冷たい水。息ができなくて、苦しくて、上も下も分からなくなって、何かを掴もうとして、けれど何も掴めなかった。声を出そうとしても、水ばかり入ってきて、胸が痛くて、怖くて。
そこまでは、少しだけ覚えている。
でも、その先は曖昧だった。
目が覚めた時には、知らない部屋で、知らない人達がいて、わたしはただ眼鏡を探していた。
だから、湖で。
わたしと。
その言葉の意味が、すぐには結びつかなかった。
「……わたしと?」
「ああ」
「湖で?」
「ああ」
「でも、わたし、覚えていません」
「意識がなかったからな」
「意識が、なかった……?」
「ああ。息も止まっていた」
ヴァンは目を閉じた。
「だから、おれが息を戻した」
ヴァンは言った。
「息を……戻した?」
「ああ」
「どうやって?」
聞いてから、嫌な予感がした。
ヴァンは、少しだけ目を逸らした。
「口で」
わたしは、もう一度固まった。
口で。
口で、息を戻した。
それは、つまり。
つまり。
「そ、それは……」
「人工呼吸だ」
別の声がした。
わたしとヴァンは、同時に振り向いた。
建物の裏から、ハリスさんが姿を見せた。
その後ろに、ハリエットもいた。
「ハ、ハリスさん!? ハリエット!?」
わたしの声が裏返った。
ハリエットは、申し訳なさそうに眉を下げた。
「ごめんなさい。盗み聞きするつもりはなかったの……」
「姉さんは、俺の尾行についてきただけだ」
ハリスさんが言った。
「は?」
「え?」
わたしとヴァンの声が重なった。
「二人の様子が妙だったからな。何かあると思った」
「何かって」
「何かだ。そして来て見れば案の定これだ。ヴァン、説明を代わっていいか?」
「なんで」
「今の言い方では、余計に混乱する」
「そうか。なら頼む」
「え、もしかしてハリスさんも知っていたんですか?」
「そうだ」
ハリスさんは、わたしに向き直った。
いつものような皮肉っぽい顔ではなかった。少しだけ真面目で、少しだけ慎重な顔だった。
「ミコト。湖からヴァンが君を引き上げた時、君は呼吸が止まっていた」
「……はい」
「ヴァンが人工呼吸をした」
人工呼吸。それは、知っている。
「はい」
「それは救命措置だ」
救命措置。それも、分かる。
わたしはヴァンの方を見た。ヴァンは、困ったような、微笑んだような、なんとも分からない顔をしていた。
「俺は、ヴァンに黙っておくよう言われていた」
「待ってハリス、私にも秘密だったの?」
「姉さんにもだ。友達との約束は守らなきゃいけない」
そういえば、あの時、わたしに眼鏡を渡してくれたのはハリスさんだった。ヴァンが最初から教えてくれていたら、と思った。
「なんで、黙ってたのですか?」
「それは、ヴァンに聞いてくれ……」
ヴァンは少し戸惑ったようだった。言葉を探すように、視線をあちこちへやっている。腕を組んで、首をかしげ、んーっと唸っている。
「そんなに悩む理由なのか?」
ハリスさんが追及する。
「そうかもしれない」
「ヴァンらしくないな。はっきりしない」
ハリエットが、はっとした様子で、口を挟む。
「ちょっと待ってあげて、ハリス」
わたしは、ヴァンの様子を見ながら、さっきまでの気持ちとは別のものが胸の奥に湧いて来た。わたしが知らないところで、わたしが何もできなかった時、死にそうだった時に、わたしを助けてくれた。
手。
わたしは、唐突に思い出した。水底でつながれた手。あの力強い感触。必死で、握り返した。あの記憶。
「あの日の朝」
ヴァンが、ぽつりと話し始めた。ちゃんと説明しようとして、言葉が少し硬くなっている気がする。
「おれが、泳ぎの練習を終えて、ボートに乗っていた時」
ヴァンが宙の一点を指差した。樹の枝に届くかどうかの高さ。
「……丁度、あの辺の高さに光が見えた。…と思ったら、次の瞬間、ミコトが落ちてきた。……で、沈んでいった。」
「わたし、そんな風になってたんですか……」
「あの時は、君が誰かなんて、分からなかったし、どうでも良かった。…でも、危ないって分かった。だから助けた」
「……わたし、誰かが助けてくれたことだけは記憶にあったんです。誰が、までは分からなかったけど…」
しばらく沈黙が続いた。それをハリエットが破った。
「それで、その後はどうなったの? あの時、私はハリスに呼ばれたよね」
「俺は水音を聞いて、ヴァンが飛び込みの練習でもしているのかと思って、桟橋まで降りて行ったら、ボートが戻って来ていた」
「とりあえず、息は戻ったけれど、冷たくなっていたから」
「それで、俺は桟橋にミコトを移すのを手伝った」
「おれは、勝手に湖で泳いでるって、バレたら困るから」
「そうだったのね。ハリスが助けたにしては、水に濡れてなかったのは、そういうことだったのね」
「ミコトは覚えてないだろうし、言う必要性がなかった」
うん、まったく覚えてない。
「それに、言ったら困ると思った」
確かに。聞いてしまえば、かなり真っ赤になって困っていたと思う。
「それだけじゃないだろ。おまえは恩に着せたくないからだ」
「あの時は、厄介ごとに関わりたくないと思ったから」
「ヴァン君は、素直じゃないところあるよね」
「まったくだよ、姉さん」
わたしも、まったくその通りだと思ってしまった。水に落ちた見ず知らずの子なんて、厄介ごとでしかない。女神様の声が聞こえるなんて話も、レオナのことも。
「ともかく、ミコト。……今まで、黙っててごめん」
「いいえ、こちらがお礼を言うところです」
「そうか」
「そうなんです。ヴァン、助けてくれて、ありがとう」
ヴァンは、ちょっと照れたように笑った。
「今、生きてるならいい」
短い言葉だった。
でも、その言葉が、胸の奥にすとんと落ちた。
湖の時も、舞台の時も、ちゃんとしたキスではない。
それでも、わたしはもう、ヴァンを前と同じようには見られなかった。
わたしが知らなかったところで、わたしをこの世界へ繋ぎ止めてくれた人。
命の恩人。
その人が、今、目の前にいる。
それだけで、胸の奥が少しだけ熱かった。




