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緋鋼皇国物語Ⅰ 第一期 第一部 七聖学院編  作者: ふみの世界樹
第五章 けつい

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第六十四話 くちづけ


 これは事故だ。


 触れた。


 そう分かった瞬間、頭の中が真っ白になった。


 触れてはいけないはずだった。寸前で止めるはずだった。照明を落とし、わたしの背中で隠して、影だけを重ねて、客席にはそう見えるようにする。それだけの場面だった。


 なのに、触れた。


 触れている。


 触れてしまっている。


 完全に触れ合ってしまっている。


 唇に。


 ヴァンの唇に。


 わたしは、そのまま動けなくなった。離れてはいけない。ここは舞台の上で、まだ幕は下りていなくて、白百合姫は黒騎士に嘆きの口付けをしたあと、幕が下りる。そういう流れだった。だから、幕が下りるまで、この姿勢を維持しなければならない。


 わたしの膝の上で、死にかけているはずの黒騎士。ヴァンが、目を開けた。


 暗い照明の中でも、目が合ったのが分かった。ヴァンの目が、見開かれている。わたしも、たぶん同じ顔をしていたと思う。お互いに何かを言えるはずもなく、けれど、言葉にしなくても分かるくらい、同じことを考えていた。


 ヴァンは動けない。


 ここで起き上がったら、台無しになる。わたしも動けない。白百合姫がここで飛び退いたら、最後の場面が全部おかしくなる。


 だから、わたし達は、動けなかった。


 動けないまま、ぷるぷるしていた。


 わたしの肩も、ヴァンの睫毛も、近すぎる距離で、ほんの少しずつ震えていた。幸い、照明はもうかなり落ちていて、客席からは細かいところまでは見えていないはずだった。見えていない。見えていないと思いたい。お願いだから、見えていませんように。


 やがて、ゆっくり幕が下りた。


 下りて。


 下りて。


 下りきった。


 その瞬間、わたしは離れて息を吸った。


 吸ったつもりで、喉の奥で変な音がした。


 ヴァンも、動かない。黒騎士として倒れたまま、目だけでこちらを見ている。わたしは、どうすればいいのか分からず、膝に乗せたヴァンの頭をそっと支えたまま固まっていた。


「終幕! 全員、整列よぅ!」


 オーレリアの声がした。


 いつもの監督の声だった。


 その声を聞いても、現実に戻ってくるのが遅れた。わたしは、まだ動けなかった。


「ミコト」


 ヴァンが、小さく言った。


「……はい」


「その、頭」


「あっ」


 わたしは慌てて、膝の上からヴァンの頭をいきなり放した。鈍い音がした。


「いて」


「ご、ごめんなさい」


「大丈夫」


 ヴァンはそう言った。


 どうにかヴァンが起き上がる。わたしも立ち上がる。整列する。再び幕が上がって、みんなでお辞儀をしたんだと思う。それから、たぶん、舞台袖に戻って。次の演目が始まって。そうこうしている内に、気が付いたら、学芸会が終わっていた。


 その間、わたしは放心したような状態だったと思う。


「乾杯なのよぅ!」


「乾杯っ!」

「乾杯」

「かんぱーい!」


 はっ!?


 我に返った時、すでに教室でお疲れ様会が始まっていた。色とりどりのジュースに、お菓子の盛られた皿が、ずらっと並んでいる。


「それにしても、二人とも、最後、とても良かったわよぅ!」


 オーレリアが話題を振ってきた。みんなの視線が、わたしとヴァンに集まる。わたしは、心臓が止まるかと思った。


「えぇ、とても良かったのよぅ。特に最後の間。あそこ、練習よりずっと良かった。息を止めるような感じが出ていたのよぅ」


 その感想が、刺さる。


「そ、そうですか」


「そうだな。影も綺麗に重なっていたし、客席も完全に静まっていた。あの沈黙は良い沈黙だった」


 良い沈黙。


 ハリスさんの評価に、わたしは、何も言えなかった。


 影が綺麗に重なっていた。


 つまり、客席からはそう見えていたのだと思う。実際に触れたかどうかまでは、たぶん分かっていない。分かっていないはず。分かっていないと思いたい。


「ミコト」


 ハリエットが、少し目を潤ませながら来た。


「すごく良かった。最後、ほんとうに、白百合姫だった」


「……ありがとう」


 胸が痛くなった。


 ハリエットの言葉は嬉しい。嬉しいのに、今は素直に受け取れない。だって、最後のあれは、演技として良かったのかもしれないけれど、わたしの中ではそれどころではなかった。


 くちづけ。


 その言葉が、頭の中でブンブンと飛び跳ねた。


ぴしゃり。


 そのブンブン迷い蜂を、叩き潰すように、イネヴェアさんの扇が閉じられた。傍らには松葉杖が立て掛けてあった。


「よくできました」


「はい」


 わたしは、思わず背筋を伸ばした。


「すみません。あの、わたし、本当に上手くできたかどうか……」


「上手いかどうかで言えば、舞踏はかなり危なかったわ」


「……はい」


 やっぱり。


 わたしは肩を落とした。けれど、イネヴェアさんは続けた。


「でも、やりきった。それで十分でしてよ。もう一度だけ言わせてちょうだい」


 顔をあげると、イネヴェアさんの笑み。


「よくできました」


 その言葉と笑みが、胸の奥に落ちた。ちょっと泣きそうになった。


「それにしても、ドレスを破るところ、あなた、本当に破れないのかと思ったわ」


「す、すみません」


「謝るところではないわ。あそこは、逆に良かった。白百合姫が必死だったもの」


「そうなのよぅ。最高のアドリブなのよぅ」


「イネヴェアとは違うけど、あれはあれで良かったよな」


 オーレリアと、ローティさんが褒めてくれた。


「それから」


 そう言ってから、イネヴェアさんはヴァンの方を見た。


「黒騎士も、ちゃんと黒騎士だったわ。悔しいけれど、私が出ていても、あの最後は同じようにはならなかったかもしれない」


 ヴァンは、少し困った顔をした。


「そうか」


「褒めているのよ」


「ああ」


 ヴァンは短く答えた。


 いつものヴァンなら、それだけで終わるはずだった。でも、今日は違った。イネヴェアさんの言葉を聞いたあと、ヴァンの視線が一瞬だけこちらへ来た。わたしも、その時ちょうどヴァンを見てしまっていて、目が合った。


 また、すぐ逸らした。


 イネヴェアさんが、少し目を細めた。


「……何かあったの?」


「な、何もありません」


 声が裏返った。


 ヴァンも黙った。


 イネヴェアさんは、わたしとヴァンを交互に見て、それから小さく息を吐いた。


「そう。何もないなら、いいけれど」


 たぶん、よくなかった。


 触れた。


 唇に。


 ヴァンの。


 だめ。


 今は考えてはいけない。


 そう思えば思うほど、考えてしまう。


 わたしは皿に置かれたクッキーを取ろうとした。そこへヴァンも、同じクッキーに手を伸ばした。


「あ」


「あ」


 指が触れそうになっただけで、二人とも手を引いた。


 近くにいたローティさんが、不思議そうな顔をした。


「何してんだ?」


「な、何でもありません」


「何でもない」


 わたしとヴァンの声が重なった。


 ローティさんは、しばらくわたし達を見ていた。


「ふうん」


 その声が、妙に怪しかった。


 ハリスさんも、少し離れたところからこちらを見ていた。腕を組んで、何かを考えている顔だった。ハリスさんは、こういう時に余計なことを言わない。言わないけれど、言わないからこそ怖い。ハリスさんには気付かれているかもしれない。


 それから、ローティさんや、フェルトンさんが、それぞれの活躍について自慢話を始めた。


 今回の演劇で注目を浴びた二人、クラスで一番小さなリーゼさんと、一番大きなエルマーさんも、みんなに褒められていた。


 オーレリアが、脇役も、裏方の衣装も照明も、みんな一人一人ちゃんと褒めて回っている。やっぱりちゃんと誰よりも観察してるから、えらい。


 そんなこんなで、お疲れ様会も終わった。


「ミコト」


 教室を出ようとした時、ヴァンに呼ばれた。


 心臓が跳ねた。


「はい」


「少し、話がある」


 その言い方が、いつもより少し硬かった。


 わたしは頷いた。


「こっち」


「はい」


 わたしは、ヴァンの後について歩いた。


 たぶん、話すべきだと思っていた。あのまま何も言わずに、明日から普通に過ごすなんて無理だ。無理なのに、何を話せばいいのか分からなかった。


 ヴァンは、校舎の外へ出て、大きな樹がある場所まで歩いた。夕暮れの秋風が少し冷たい。


 しばらく、二人とも黙っていた。


 最初に口を開いたのは、わたしだった。


「その……ごめんなさい」


 ヴァンがこちらを見る。


「何が」


「今日の、舞台の……その」


 言葉が喉の奥でつかえた。


 くちづけ。


 頭の中には、はっきり浮かんでいる。


 でも、口には出せない。


 それでも、なんとか決意した。


「あの、わたし、勝手に……ヴァンの、初めての……」


 言いながら、顔が熱くなっていく。


「ふぁ、ファースト・キスを、奪ってしまって……ごめんなさい」


 言った。


 言ってしまった。


 言った瞬間、地面に埋まりたくなった。


 ヴァンは、しばらく黙っていた。怒っているのかと思った。困っているのかもしれないと思った。けれど、ヴァンの顔は、怒っているというより、迷っているような顔だった。


「でも、あれは事故で、演技の途中で、わざとじゃなくて……だから、数えないのかな、とも思って。でも、触れてしまったのは本当で。だから、やっぱり数えるのかなって。でも、数えたら、勝手に奪ったことになってしまうし、数えないって言ったら、それはそれで、なかったことにするみたいで……」


 自分でも、何を言っているのか分からなくなってきた。


「だから、その、えっと……ごめんなさい」


 もう一度謝るしかなかった。


 ヴァンは、少しだけ目を伏せた。


 それから、短く言った。


「初めてじゃない」


「……え?」


 わたしは顔を上げた。


 ヴァンは、困ったような顔で樹を見上げた。


「実は」


 そこで一度、言葉が止まる。


 そして、ヴァンは言った。


「二度目なんだ」


「……え」


 意味が、すぐには分からなかった。


 二度目。


 二度目。


 二度目?


「えぇ~~~~っ!?」

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