第六十四話 くちづけ
これは事故だ。
触れた。
そう分かった瞬間、頭の中が真っ白になった。
触れてはいけないはずだった。寸前で止めるはずだった。照明を落とし、わたしの背中で隠して、影だけを重ねて、客席にはそう見えるようにする。それだけの場面だった。
なのに、触れた。
触れている。
触れてしまっている。
完全に触れ合ってしまっている。
唇に。
ヴァンの唇に。
わたしは、そのまま動けなくなった。離れてはいけない。ここは舞台の上で、まだ幕は下りていなくて、白百合姫は黒騎士に嘆きの口付けをしたあと、幕が下りる。そういう流れだった。だから、幕が下りるまで、この姿勢を維持しなければならない。
わたしの膝の上で、死にかけているはずの黒騎士。ヴァンが、目を開けた。
暗い照明の中でも、目が合ったのが分かった。ヴァンの目が、見開かれている。わたしも、たぶん同じ顔をしていたと思う。お互いに何かを言えるはずもなく、けれど、言葉にしなくても分かるくらい、同じことを考えていた。
ヴァンは動けない。
ここで起き上がったら、台無しになる。わたしも動けない。白百合姫がここで飛び退いたら、最後の場面が全部おかしくなる。
だから、わたし達は、動けなかった。
動けないまま、ぷるぷるしていた。
わたしの肩も、ヴァンの睫毛も、近すぎる距離で、ほんの少しずつ震えていた。幸い、照明はもうかなり落ちていて、客席からは細かいところまでは見えていないはずだった。見えていない。見えていないと思いたい。お願いだから、見えていませんように。
やがて、ゆっくり幕が下りた。
下りて。
下りて。
下りきった。
その瞬間、わたしは離れて息を吸った。
吸ったつもりで、喉の奥で変な音がした。
ヴァンも、動かない。黒騎士として倒れたまま、目だけでこちらを見ている。わたしは、どうすればいいのか分からず、膝に乗せたヴァンの頭をそっと支えたまま固まっていた。
「終幕! 全員、整列よぅ!」
オーレリアの声がした。
いつもの監督の声だった。
その声を聞いても、現実に戻ってくるのが遅れた。わたしは、まだ動けなかった。
「ミコト」
ヴァンが、小さく言った。
「……はい」
「その、頭」
「あっ」
わたしは慌てて、膝の上からヴァンの頭をいきなり放した。鈍い音がした。
「いて」
「ご、ごめんなさい」
「大丈夫」
ヴァンはそう言った。
どうにかヴァンが起き上がる。わたしも立ち上がる。整列する。再び幕が上がって、みんなでお辞儀をしたんだと思う。それから、たぶん、舞台袖に戻って。次の演目が始まって。そうこうしている内に、気が付いたら、学芸会が終わっていた。
その間、わたしは放心したような状態だったと思う。
「乾杯なのよぅ!」
「乾杯っ!」
「乾杯」
「かんぱーい!」
はっ!?
我に返った時、すでに教室でお疲れ様会が始まっていた。色とりどりのジュースに、お菓子の盛られた皿が、ずらっと並んでいる。
「それにしても、二人とも、最後、とても良かったわよぅ!」
オーレリアが話題を振ってきた。みんなの視線が、わたしとヴァンに集まる。わたしは、心臓が止まるかと思った。
「えぇ、とても良かったのよぅ。特に最後の間。あそこ、練習よりずっと良かった。息を止めるような感じが出ていたのよぅ」
その感想が、刺さる。
「そ、そうですか」
「そうだな。影も綺麗に重なっていたし、客席も完全に静まっていた。あの沈黙は良い沈黙だった」
良い沈黙。
ハリスさんの評価に、わたしは、何も言えなかった。
影が綺麗に重なっていた。
つまり、客席からはそう見えていたのだと思う。実際に触れたかどうかまでは、たぶん分かっていない。分かっていないはず。分かっていないと思いたい。
「ミコト」
ハリエットが、少し目を潤ませながら来た。
「すごく良かった。最後、ほんとうに、白百合姫だった」
「……ありがとう」
胸が痛くなった。
ハリエットの言葉は嬉しい。嬉しいのに、今は素直に受け取れない。だって、最後のあれは、演技として良かったのかもしれないけれど、わたしの中ではそれどころではなかった。
くちづけ。
その言葉が、頭の中でブンブンと飛び跳ねた。
ぴしゃり。
そのブンブン迷い蜂を、叩き潰すように、イネヴェアさんの扇が閉じられた。傍らには松葉杖が立て掛けてあった。
「よくできました」
「はい」
わたしは、思わず背筋を伸ばした。
「すみません。あの、わたし、本当に上手くできたかどうか……」
「上手いかどうかで言えば、舞踏はかなり危なかったわ」
「……はい」
やっぱり。
わたしは肩を落とした。けれど、イネヴェアさんは続けた。
「でも、やりきった。それで十分でしてよ。もう一度だけ言わせてちょうだい」
顔をあげると、イネヴェアさんの笑み。
「よくできました」
その言葉と笑みが、胸の奥に落ちた。ちょっと泣きそうになった。
「それにしても、ドレスを破るところ、あなた、本当に破れないのかと思ったわ」
「す、すみません」
「謝るところではないわ。あそこは、逆に良かった。白百合姫が必死だったもの」
「そうなのよぅ。最高のアドリブなのよぅ」
「イネヴェアとは違うけど、あれはあれで良かったよな」
オーレリアと、ローティさんが褒めてくれた。
「それから」
そう言ってから、イネヴェアさんはヴァンの方を見た。
「黒騎士も、ちゃんと黒騎士だったわ。悔しいけれど、私が出ていても、あの最後は同じようにはならなかったかもしれない」
ヴァンは、少し困った顔をした。
「そうか」
「褒めているのよ」
「ああ」
ヴァンは短く答えた。
いつものヴァンなら、それだけで終わるはずだった。でも、今日は違った。イネヴェアさんの言葉を聞いたあと、ヴァンの視線が一瞬だけこちらへ来た。わたしも、その時ちょうどヴァンを見てしまっていて、目が合った。
また、すぐ逸らした。
イネヴェアさんが、少し目を細めた。
「……何かあったの?」
「な、何もありません」
声が裏返った。
ヴァンも黙った。
イネヴェアさんは、わたしとヴァンを交互に見て、それから小さく息を吐いた。
「そう。何もないなら、いいけれど」
たぶん、よくなかった。
触れた。
唇に。
ヴァンの。
だめ。
今は考えてはいけない。
そう思えば思うほど、考えてしまう。
わたしは皿に置かれたクッキーを取ろうとした。そこへヴァンも、同じクッキーに手を伸ばした。
「あ」
「あ」
指が触れそうになっただけで、二人とも手を引いた。
近くにいたローティさんが、不思議そうな顔をした。
「何してんだ?」
「な、何でもありません」
「何でもない」
わたしとヴァンの声が重なった。
ローティさんは、しばらくわたし達を見ていた。
「ふうん」
その声が、妙に怪しかった。
ハリスさんも、少し離れたところからこちらを見ていた。腕を組んで、何かを考えている顔だった。ハリスさんは、こういう時に余計なことを言わない。言わないけれど、言わないからこそ怖い。ハリスさんには気付かれているかもしれない。
それから、ローティさんや、フェルトンさんが、それぞれの活躍について自慢話を始めた。
今回の演劇で注目を浴びた二人、クラスで一番小さなリーゼさんと、一番大きなエルマーさんも、みんなに褒められていた。
オーレリアが、脇役も、裏方の衣装も照明も、みんな一人一人ちゃんと褒めて回っている。やっぱりちゃんと誰よりも観察してるから、えらい。
そんなこんなで、お疲れ様会も終わった。
「ミコト」
教室を出ようとした時、ヴァンに呼ばれた。
心臓が跳ねた。
「はい」
「少し、話がある」
その言い方が、いつもより少し硬かった。
わたしは頷いた。
「こっち」
「はい」
わたしは、ヴァンの後について歩いた。
たぶん、話すべきだと思っていた。あのまま何も言わずに、明日から普通に過ごすなんて無理だ。無理なのに、何を話せばいいのか分からなかった。
ヴァンは、校舎の外へ出て、大きな樹がある場所まで歩いた。夕暮れの秋風が少し冷たい。
しばらく、二人とも黙っていた。
最初に口を開いたのは、わたしだった。
「その……ごめんなさい」
ヴァンがこちらを見る。
「何が」
「今日の、舞台の……その」
言葉が喉の奥でつかえた。
くちづけ。
頭の中には、はっきり浮かんでいる。
でも、口には出せない。
それでも、なんとか決意した。
「あの、わたし、勝手に……ヴァンの、初めての……」
言いながら、顔が熱くなっていく。
「ふぁ、ファースト・キスを、奪ってしまって……ごめんなさい」
言った。
言ってしまった。
言った瞬間、地面に埋まりたくなった。
ヴァンは、しばらく黙っていた。怒っているのかと思った。困っているのかもしれないと思った。けれど、ヴァンの顔は、怒っているというより、迷っているような顔だった。
「でも、あれは事故で、演技の途中で、わざとじゃなくて……だから、数えないのかな、とも思って。でも、触れてしまったのは本当で。だから、やっぱり数えるのかなって。でも、数えたら、勝手に奪ったことになってしまうし、数えないって言ったら、それはそれで、なかったことにするみたいで……」
自分でも、何を言っているのか分からなくなってきた。
「だから、その、えっと……ごめんなさい」
もう一度謝るしかなかった。
ヴァンは、少しだけ目を伏せた。
それから、短く言った。
「初めてじゃない」
「……え?」
わたしは顔を上げた。
ヴァンは、困ったような顔で樹を見上げた。
「実は」
そこで一度、言葉が止まる。
そして、ヴァンは言った。
「二度目なんだ」
「……え」
意味が、すぐには分からなかった。
二度目。
二度目。
二度目?
「えぇ~~~~っ!?」




