第六十一話 開演前
拍手の音が、おれの耳の奥にまだ残っていた。
月級三年の劇が終わった。
題名は、『誓いの冠』。
王だの、冠だの、民の声だの、誓いだの、そういう言葉はおれには少し難しい。何が正しくて、何が間違っていて、どこまでが劇で、どこからが本当の言葉だったのか、たぶんハリスやオーレリアなら、もっとちゃんと説明できる。マギが何をしたのか。マナが何を狙ったのか。皇帝がどう受け取ったのか。おれには分からないことが多すぎる。だけど、おれにだって見えるものはある。
おれは、皇帝という人を見ていた。
ヴェナリス・ロートシュタール。
この国で最も偉いとされる人。
誰もが膝をつき、頭を下げる人。飛空戦艦に乗って、兄貴や先生達より上で、学院の中にいる全員が、その人の一言で息を止める。そういう存在なのだと分かった。でも、おれの中では、それだけではなかった。偉いとか、強いとか、怖いとか、そういう言葉の前に、もっと先に見ているものがあった。
あの人は、人を見ているようで、人を見ていない。
舞台の上に王役の子どもがいて、民衆役の子どもたちがいて、冠があって、マギが出てきても、皇帝の目はほとんど変わらなかった。眺めてはいる。けれど、それだけだった。相手を見ているというより、そこにあるものを確かめているだけの目だった。マナも、マギも、皇家の子だ。年の離れた家族だ。それでも、同じだった。最初から二人を見ていたわけじゃない。
途中で一度、講堂の空気が変わった。
マナが放った炎の光が、マギに跳ね返されて、皇帝のいる席へ向かったように見えた時だ。エドワードさんが動いた。黒い軍服の人達も動いた。
炎は、皇帝に届く前に消えた。客席はざわついた。けれど、皇帝は動かなかった。
後ろで、ハリスが小さく言った。
「なるほどね」
おれの視線を受けて、ハリスは続けた。
「あれは呪文距離延長の術式修正を、逆に振ったんだと思う。本来なら射程を伸ばす補正を、マイナス側に使った。だから、皇帝陛下の手前で消えた」
「……そんなこと、できるのか」
「普通はやらない。意味がないからな」
ハリスは舞台を見たまま、少しだけ目を細めた。
「普通ならだ」
おれには、詳しいことは何も分からなかった。でも、ハリスが二度も言ったので、双子がやったことが普通じゃないってことは分かった。あれは、斬るための刃じゃなかった。けれど、喉元まで突きつけた刃だった。
皇帝はその時、少しだけ目が変わったように見えた。マナとマギに、ようやく興味を持ったような気がした。自分に届きそうだったから。自分を脅かす可能性が、少しはあると分かったから。
マギは逃げなかった。マナも逃げなかった。あの皇帝の前で、あそこまでやった。
おれはマギと剣の練習をして、よかったと思った。たぶん、マナとマギは、やりたいことをやれた。少しでも助けになれて、よかった。
そして、皇帝は笑った。
「面白い余興であった」
そう言った。
笑って、許した。
許したように見えた。
でも、おれには分からない。あれが本当に許しだったのか。それとも、許した形にして、もっと奥で別の何かを決めたのか。皇帝が席を立つ。エドワードさん達が動く。ハゲ頭に刺青のある黒髭の魔法使いも、皇帝の後ろについた。
皇帝が去った後も、椅子は残っていた。
舞台の前。
一番よく見える場所。
本当なら、あそこは生徒の家族達が座る席だったはずだ。けれど、皇帝が来るから、家族達は後ろの二階席へ回された。部外者が混じりやすいから。警護の邪魔になるから。たぶん、そういう理由なのだと思う。
さっきまで、そこには皇帝がいた。
皇帝の周りには、護衛達のための広い空間があった。黒い軍服の人達が立ち、誰も近づけないようにしていた場所だ。
今は、誰もいない。
皇帝の椅子だけが残っている。
護衛達のために空けられた場所だけが残っている。
もし皇帝が来ていなければ、あそこには多くの誰かが座れたはずだった。誰かの父親かもしれない。母親かもしれない。兄弟かもしれない。星級の小さい子の家族かもしれない。月級の誰かを見に、すごく遠くから来た人かもしれない。その人達は、もっと近くで、舞台を見られたはずだった。
でも、皇帝が来た。場所を取った。
見たいものだけを見た。
それも、最初から真剣に見ていたわけじゃない。炎が自分の方へ向かったように見えた時、ようやく目が変わっただけだ。
そして、帰った。
それが嫌だった。
おれ達の劇を見てほしかったわけじゃない。褒めてほしかったわけでもない。皇帝に見られたいとも思わない。むしろ、帰るなら、さっさと帰ればいいと思う。
おれは思い出した。レオナを見捨てたという話。ハンナの日記に残された声。
爺ちゃんは見ろと言った。手だけを見るな。足だけを見るな。言葉だけを聞くな。全部を見ろ。見えないものがいると思え。だから見た。皇帝を見た。見て、人から聞いた話だけじゃなくて、ちゃんと自分の目で見た。見て、胸の奥で何かが決まった。
敵だ。
そう思った。
怖いから敵なのではない。強いから敵なのでもない。偉いから逆らいたいわけでもない。ただ、おれの中の何かが、あの人をそう見た。あの人は、いつか誰かの大事なものを踏む。いいや、もう踏んだ。おそらく、他にも踏んでいる。踏んだことを、たぶん気にしていない。だから敵だ。そう思った時、胸の奥が熱くなった。怒りなのか、嫌悪なのか、怖さなのか、分からない。分からないけれど、剣を抜く時の手前にあるものに似ていた。本気でやると決める前の、まだ鞘の中にある心根の重さだった。
その時だった。
そのハゲ頭の魔法使いが、こっちを見た。
ほんの一瞬だった。でも、見られたと分かった。目が合っただけじゃない。胸の奥にあったものを、指で撫でられたような感じがした。敵だと思った、その意識の形を、見られたような。服の上からではない。皮膚の上からでもない。もっと内側にある、まだ誰にも言っていないものを触られたような、心の声を聞かれたような嫌な感じだった。おれは拳を握った。
よく分からなかったけれど、何となく判った。おれは森で猛獣と出会った時と同じことをしていた。
目を逸らさない。
ほんの数秒後。ハゲ頭の黒髭は、視線を外して皇帝の後に続いた。皇帝も振り返らない。それなのに、嫌な感じだけが残っていた。
「ヴァン」
オーレリアの声がした。おれは振り返った。
「準備」
「ああ」
おれは頷いた。
次は、おれ達の番だ。




