第六十話 誓いの冠
バルトロメウス・バートムは、備えている。
常日頃から、皇帝陛下の側近として、あらゆる魔法的害悪から皇帝陛下の御身を守るため、幾重もの警戒を敷いている。
魔法感知に不可視視認、思考感知の術式魔法は、無論、常時発動している。それに加えて転移出現警戒と、時間停止感知まで発動している。
だから死角など存在しないはずだった。
「私は、王を討ちに来たのではありません。王が戴いた冠の意味を、思い出していただきに来ました」
舞台に立つマギ・レ・ズリッド=キルシュ王弟殿下の台詞からは、何の敵意も害意も感知できなかった。
魔化武器の術式魔法を、剣を振り回す最中に、無詠唱で展開できるとは、かなりの実力と認めざるを得ない。
その時、一つの声が聞こえてきた。
『大きく』
『強く』
『束ねよ』
バートムの頭皮に刻まれた魔印刺青が、僅かに明滅した。学生の集った講堂のように、これだけ思考する者が多い場所では、思考感知はノイズの海になってしまう。
だが、それは強く。
とても荒々しく聞こえた。
舞台袖の女生徒が、魔法感知の網に掛かった。紅蓮。これは力術だ。そして術者の輪郭が濃い赤で縁取られている。炎の副系統を持つ呪文だ。こんな屋内で、火気だと?
バートムが少し疑問を挟んだ時には、術式魔法は既に発動まで組み上がっていた。マナ・ラ・ピアス=フォン・キルシュ皇妹殿下であると気付いたのも、その時だった。
無詠唱だと? だが、あの指の形は、火炎光線だ。
ここでバートムは一拍だけ遅れた。思考や魔法にだけ注目して、舞台上で繰り広げられる物語をまともに見てはいなかったからだ。
光線は、マナ殿下の指先から発射されるものと思い込んでしまった。だが、実際は指先よりも、ずっと先に魔法の発動起点が置かれていた。
舞台上に立つ黒冠の近衛役。
見せかけの術者は、驚いているように見える。多分だが、本来ならば魔力弾と、魔力盾のような比較的に安全な呪文だったはずだ。
その指先から魔法が放たれた。遅れて気付いたバートムは、光線を目で追うのが精一杯だった。だが、射線はマギ殿下へ向いている。強い意思で練られた魔法だが、殺意はない。少なくとも、皇帝陛下を狙った攻撃ではない。
直後、その判断は水泡に帰した。
マギ殿下が、いつの間にか防護魔法を展開している。
術式反射だと? 有り得ない。こんな少年が簡単に使える呪文ではない。
よく見れば、やはり指輪だ。それも恐らく限定的な術式反射を宿した魔法の指輪だ。
術式紋を見れば分かる。火炎光線だけを反射、偏向する限定版呪文で間違いない。
待て。偏向?
あの角度、皇帝陛下に向かう。
遅い。手遅れだ。
既に向かっている。
まさか、有り得ない。このバートムが、情報戦で出し抜かれるなど、許されない。
ただただ、強い魔法を練り。
ただただ、魔法の方向を逸らす。
それには強い精神力と、余計な事を思考から排除するだけの、極めて強い集中力が要求される。殺意のような別の強い意思を乗せる暇などない。
だから見逃した。
殺意は、すでに舞台に組み込まれていた。
この脚本、演出、それ自体が暗殺装置だ。
『なんですかあれは!? 粗相をしないこと! あたくしは、そう言ったざま……ブチッ』
ノイズに耳を傾けている暇はない。
だが、皇帝陛下に迫る光線を防ぐ暇もない。
エドワード小隊長が飛び出そうとしている。盾になる気か? しかし、申し訳ないが間に合わない。それに、皇帝陛下には加護が既に施されている。あの程度の魔法では殺されない。
無駄足だ。
いずれにせよ、我共々、責任を取らされるだろう。
御愁傷様だ。
「私は王に伝えたいことがある!」
マギ殿下の次の台詞。
それと同時に、火炎光線が立ち消えた。
何だと? 解呪術か?
否。
有り得ぬ。
マナ殿下が、自分で放った光線に、追い付く速度で解呪など不可能だ。マギ殿下も同様だ。指輪を使った後で、即座に解呪を割り込ませる事なんて無理だ。
では、第三者か?
いや、その可能性も薄い。
光線が放たれてから解呪術を間に合わせるには、事前に詠唱を終わらせ、予め備えておく必要がある。
それならば、その解呪の魔力は、準備段階で我が探知の網に引っ掛かっている。見逃しはない。
だが確かに、火炎光線は、皇帝陛下に届く直前で、糸を断たれたように消えていた。
皇帝陛下は、微動だにしなかった。
エドワード小隊長が、一歩だけ前に踏み出た形になっていた。
黒の牙の隊員達も、半歩踏み出した姿勢で固まっていた。
「下がれ」
皇帝陛下の一言で、エドワード小隊長は我に返ったようだった。一礼の後、即座に元の立ち位置へと戻る。
「伝える? 何を伝えるというのです、王弟殿下」
黒冠の近衛は、両手を広げたまま後ずさる。
舞台中央の冠が、白く光る。
これには幻術系の術式魔法が使われていたが、今、そこへ注意を割く必要はない。バートムの関心は舞台の物語へと向けられた。
マギ殿下は、剣を下ろさなかった。視線は、王役ではなく観客席へ、皇帝陛下へと向けられていた。そして、今更になってバートムは、状況がもたらす本当の意味に気付いた。
「声です」
バートムの位置からでは、皇帝陛下の表情は見えない。魔法で、その表層意識を読み取る事もできない。読もうとすれば不敬罪である。
「声だと?」
「はい、兄上」
これは双子からの挑戦状だ。
子供の学芸会を隠れ蓑にした、皇帝陛下に対する直訴。あるいは正面切っての忠告。
政治も何も分からぬ低学年の生徒は別として、今では誰もが皇帝陛下と、あの王役の立場を重ねてしまっている。
バートムは、途中で呪文が立ち消えた謎よりも、今はそちらを考える必要があった。皇帝陛下が、どう受け取るか。感想の言葉一つで、人死にが出る。
マギ殿下は、民衆役の方へ視線を向けた。
「まだ、聞こえるはずです」
冠の光が、舞台の床を走った。
膝をついていた民衆役の一人が、ゆっくりと顔を上げた。
「あ……」
小さな声だった。
「寒い」
「腹が空いた」
「父を返して」
「門を開けて」
「ここに、います」
民衆達の声が、戻っていく。
「黙れ!」
黒冠の近衛役が叫んだ。
「黙れ、黙れ、黙れ!」
だが、民衆役はもう口を閉ざさない。マギ殿下の扮する王弟を旗印として、人々の声はどんどんと大きくなる。マギ殿下は、民衆役の前に立った。
「兄上。これが、兄上の国です」
その台詞は、「皇帝陛下、これが兄上様の国です」と言っているようにしか聞こえなかった。王役は、玉座の肘掛けを握る。
皇帝陛下は、身じろぎ一つしなかった。
「余の国だ。余が守った国だ」
「はい。兄上が守った国です」
マギ殿下は頷いた。
「だからこそ、兄上には聞く義務があります」
「何をだ」
「寒いという声を。腹が空いたという声を。父を返してほしいという声を。門を開けてほしいという声を。人々の嘆きと、悲しみを」
黒冠の近衛が、低く笑った。
「愚かな! 民の声をすべて聞いていては、王は王でいられませぬぞ」
同意する。
バートムは知っている。常に人々の表層意識を読む。だから分かる。
民の声は無責任だ。
民の声は身勝手だ。
民の声は愚かな戯言だ。
「ならば」
マギ殿下が、観客席に向かって立つ。両手を広げて言った。
「人々の声を聞かぬ王は、何でいられるのですか。真の王ですか。それとも、王の名を借りた独裁者ですか」
講堂が静まり返った。教師達も、エドワード小隊長も、その部下達も、聡い生徒達の何人かも、同じことを感じていた。
この脚本も、台詞も、演出も、危険だ。
とてつもなく危険だ、と。
黒冠の近衛は、王へ近づく。
「陛下。声は迷いを生みます。迷いは弱さです。弱さは国を滅ぼします」
王役は答えない。
皇帝陛下も答えない。
バートムは思う。あの近衛は、自分と考え方が近い。
皇帝陛下が迷わないように、尽力する。それは、この国が迷走しない為だ。
危険だ。この双子は危険だ。
魔法の実力も勿論だが、こんな事を考え付く知能と、実行する度胸。これは将来、本当に国を二分する仇敵になり得る。皇帝陛下なら、摘み取ってしまえと命令するかも知れない。
実際、幾つもの反逆の芽を、我々は刈り取ってきた。
「ご命令を。この王弟を、反逆者として捕らえよ、と」
だが、そこは同意しなかった。
バートムは思う。自分はもう歳を重ね過ぎた。そろそろ次世代に、国の舵取りを委ねる時も、そう遠く無いのかもしれない。
マギ殿下は動かない。皇帝陛下を真正面から見下ろしている。
これは暴挙だ。舞台と観客席。その構造上、致し方のない事とはいえ、人目も憚らず堂々と皇帝陛下を見下ろすなんて、皇族の子供でも許されるか否か、確信が持てない。
王役が立ち上がった。玉座の横に置かれていた剣を取る。
階段を下りる。
一段。
もう一段。
「それでよいのです、陛下」
黒冠の近衛が両手を広げた。
王役の剣が振り下ろされる。
斬られたのは、王弟ではなかった。黒冠の近衛だった。
黒い仮面が、床に落ちる。外套も崩れ落ちる。仮面の下には、顔も何もなかった。黒い布だけが、舞台の光を吸っていた。
バートムには、上級不可視化の術式魔法で、透明になって姿を消した黒冠の近衛役の様子が、はっきりと見えていた。
透明になっていた子供が、透明化の対象外にしていた外装と仮面を脱ぎ捨てる事で、実体の無い存在を表現しているのだ。
バートムは少し笑った。あの魔法には、こんな使い方もあったのか。まさか子供達から教わるとは。
先刻の、呪文が立ち消えた謎も、恐らく何かしらの工夫を凝らしたのだろう。バートムは、後で必ず調査するとして、今それ以上の追及は止める事にした。
王役は、剣を落とした。
その音が、講堂に響く。
やがて王役は、頭上の冠へ手を伸ばした。冠を外す。
「余は、王たる資格を失った」
王役の声は低かった。
「民の声を奪った。臣を疑った。弱き者を荷と呼び、病める者を切り捨て、諫める者を敵と呼んで遠ざけた」
王役は、その冠を王弟へと差し出した。
「この冠は、余より清き者が戴くべきだ」
マギ殿下は、受け取らなかった。そして短く告げた。
「断る」
王役の手が止まる。
「民の声を奪ったのは、兄上です。臣を斬ったのも、兄上です。誓いを破ったのも、兄上です」
マギ殿下は、冠に手を添えた。受け取るためではない。
「ならば、その罪を償うのも、兄上でなければなりません」
押し返すために。
『皇帝陛下、僕たちは玉座に興味なんてない。王冠なんて欲しくない』
バートムは、マギ殿下の表層思考を読んだ。
玉座を奪う意思はない。
反骨心が見えるが、少なくとも、皇位への野心は見えない。
子供達はただ、見て欲しかった。
弟、妹として、聞いて欲しかった。
心の深い所までは読めないが。
たったそれだけ。
たったそれだけの話なのかもしれない。
「余に、まだ王であれと言うのか」
「王であればよい、とは申しません」
マギ殿下は首を横に振る。
「王であるなら、償ってください」
沈黙。
王役は、冠を見下ろしていた。
「その冠は、逃げるために外すものではありません」
マギ殿下が言った。
「背負うために戴くものです」
王役の手が、冠を持ち上げた。
「重いな」
「軽い冠なら、民を守れません」
王役は、舞台の中央、スポットライトを浴びて、玉座の前に立つ。
空を見上げながら、再び冠を両手で持ち上げた。
民衆役は膝をつかない。
ただ、王を見ていた。
「我は、この冠に誓う」
開幕直後のシーンと、全く同じ台詞。
けれど、言葉の重みは違っていた。
「奪った声を聞き直す。斬った臣の家に頭を垂れる。見捨てた者の名を忘れぬ。壊したものを、我が手で直す」
マギ殿下が、王の隣に立つ。
「この冠は、王を飾るものではない」
民衆役が、一人ずつ声を重ねた。
「王を縛るもの」
「民の前に」
「誓いの前に」
マギ殿下が言った。
「逃げぬための冠」
王役が深く頭を下げる。
冠を、再び自らの頭に戴いた。
民衆役は、王を見たまま声を揃えた。
「誓いの冠」
光が冠へ集まる。
「我等が王よ」
「我等が祖国よ」
暗転。
幕が下りた。
拍手は、すぐには起きなかった。
息を吐く事もできなかった。
皇帝陛下が如何なる言葉を下賜されるか。皆の注目が集まる。沈黙が続く。静寂の時が、肌に刺さるかのように痛い。
皇帝陛下が、頬杖を解いた。
「面白い余興であった」
その瞬間、世界の時間が再び動き出した。
一つ。
客席のどこかで、手が鳴った。
また一つ。
拍手が広がっていく。
その拍手を受けて、再び幕が上がる。月級三年の生徒達が舞台前に並ぶ。
王弟役のマギ殿下。
王役。
黒冠の近衛役。
民衆役。
最後に監督のマナ殿下。
監督の合図で、皆が、同時に頭を下げた。
拍手喝采となった。
皇帝陛下が立ち上がる。見るべきものは確認した。御退席である。
「皇國の為に、今後も励め」
マギ殿下とマナ殿下が、顔を上げた。
皇帝陛下は既に踵を返していた。エドワード小隊長が動く。黒の牙が退路を開く。バートムも、皇帝陛下の斜め後ろについた。
講堂の拍手は、まだ続いている。演劇への拍手が、そのまま皇帝陛下へのお見送りの拍手へと変わっていた。
皇帝陛下は振り返らない。そのまま出口へ向かう。
その時だった。
バートムの頭皮に刻まれた魔印刺青が、かすかに熱を持った。
殺意ではない。
だが、敵意があった。それも、かなり強い敵意だ。
バートムは、足を止めずに視線だけを動かす。
見つけた。
陽級一年の列。黒髪の少年がいた。
一人だけ拍手をしていない。
隣には、黒縁眼鏡の少女が立っている。
その少年は、ただ皇帝陛下を見ていた。
はっきりとした敵意。
この鮮明さ。
この強い意思。
何者だ。




