第五十八話 ヴェナリス皇帝
開幕の少し前。
飛空戦艦フリューゲル。
正式には、緋鋼皇國空軍、天空艦隊所属、クルィリヤ級重飛空戦艦四番艦、皇帝座乗艦にして天空艦隊旗艦、フリューゲル。
その艦内で、エドワード・クィルズは皇帝陛下の前に膝をついていた。
謁見室ではない。壁面には金属板と防護紋が重ねられ、視界を広く保てるように備え付けられた窓は、外の景色を一望するには充分だった。床には振動を殺すための魔法式が走っており、クィルズの背後には、艦長以下、参謀長、船務長、航海長、機関長、操舵手や通信手、戦闘主任に至るまで、この飛空戦艦を動かす者達が各自の席に座っている。
ヴェナリス皇帝は、各乗組員の働きを背後から見渡せる位置で、装飾は簡素だが一目で上質と分かる肘掛け椅子に腰を下ろしていた。艦の奥に引っ込んだ謁見室は使わない。常に戦場を見渡せる場所が選ばれる。
艦橋。
戦場を移動する玉座。
エドワードには、そう見えた。
正面に座すヴェナリス=ロートシュタール皇帝。その淡い灰金色の髪が、肩の上でわずかに揺れる。頭上には赤い宝石を戴いた黄金の王冠。深紅の外套には白い毛皮が縁取られ、黒と白の礼装には金糸の刺繍と鎖飾りが幾重にも走っていた。
豪奢だった。
だが、飾り立てられているという印象はない。
王冠も、外套も、宝石も、すべてがその男を飾るためではなく、皇帝という存在を可視化するためだけに、ただそこにあることを許されていた。
エドワードは、改めて理解する。
この御方は、声を荒げる必要がない。命じる前から、場が従う。皆が頭を垂れる。
誰が命じる者で、誰が命じられる者か。
誰が支配者で、誰が支配される者か。
それを、説明なしに理解させる人だった。恐怖とも違う。単なる威厳とも違う。それらも含まれているが、それ以外の何かがある。理屈を越えた納得。魂の首枷。
「地理には詳しいな」
皇帝陛下が言った。
「はっ。地下室まで把握しております」
「ならばよい」
それだけで、任務の理由は成立する。
学院に詳しい者を、皇帝陛下の直衛に置く。昨日、講堂で照明器具の落下事故があったことを考えれば、なおさら合理的な判断だ。
だが、それだけではないと、エドワードはとっくに分かっていた。
「ヤクトブレオの娘とは、変わらぬか」
皇帝陛下の声は、先ほどと同じ調子だった。せめて感情の色があれば、その意図も把握できるのだが、その表情からは何の手掛かりも得られない。
それは問いというより、単なる確認だったが、肌の表面を刃先でなぞるような、心臓を針の腹でなぞるような言葉でもあった。
エドワードは頭を上げないまま答えた。
「はっ。変わりありません」
「なればよい」
皇帝陛下は、それ以上を言わなかった。
ハリエット・ヤクトブレオ。
反逆者の家名。
その娘を妻に迎えようとしている男。客観的に見れば、役職も小隊長に過ぎず、単なる末端の士官だ。その婚約者についてなど、わざわざ皇帝陛下が尋ねるような話ではない。
ただ一言。
皇帝陛下が問うた。
臣下が答えた。
なればよい。と、お咎めはなかった。
今のところは。
この何てことのない問答一つで、エドワードと、ハリエットの首は、未だに繋がることが許されていると分かる。
皇帝の言葉は、それほどに重い。
その皇帝陛下の斜め後ろには、禿げ頭に黒髭を蓄えた魔法使いが控えていた。
その剃り上げられた頭皮には、刺青が刻み込まれている。装飾ではない。魔法の印だ。幾何学的な線と古い呪文字が、頭蓋を覆うように走っている。
皇帝陛下の周囲には、剣だけではなく、見えない壁がある。
思考感知。
表層思考を読み取る術式。特に警護の界隈では、害意、殺意、不自然な思考の歪みを事前に拾う為に用いられる。目に見えない警戒網。
剣と魔法。そして、思考。
そのすべてが、この場では警戒の対象だった。
その時、黒髭の魔法使いが、わずかに顔を上げた。
エドワードには、何が起きたのか分からなかったが、皇帝陛下は、すでに気づいていた。
「どうした」
皇帝陛下が、視線だけを動かした。
魔法使いは静かに頭を垂れる。
「不届き者が、陛下を覗き見しようとしたので、お返しに目を焼いておきました」
室内の空気は変わらなかった。少なくとも、皇帝陛下は変えなかった。
覗き見。
つまり、遠方からの念視。
この空の上にある旗艦フリューゲルの中にいる皇帝陛下を、どこかから魔法の目で探ろうとする者がいた。そして、その愚か者の目は焼かれた。
遠方から伸びる念視の糸を遮り、魔法的な視線を弾く防諜の術式。あまり公には知られていない術式魔法だった。さらに反撃まで行えるとは、恐らく秘密裏に開発された術式魔法に違いなかった。魔法使いは事務報告として結果だけを伝えた。
「また海竜王国の連中か」
「いえ、この気配は華ノ国かと」
「そうか。今後も警戒を続けよ」
「はっ」
会話は、それだけで終わった。まるで、艦窓に小さな虫が当たった程度の、つまらぬ出来事であったかのように。
この御方の周囲では、剣と魔法、思考に加えて、視線でさえも、戦場の一部なのだ。
皇帝陛下は、改めてエドワードへ視線を戻した。
「で、話は何だったか、小隊長」
「はっ。警護計画について、裁可を願います」
エドワードは、先刻の出来事を胸の内へと沈みこませながら、任務内容を述べようとした。
皇帝陛下の降下経路。学院正面玄関までの導線。講堂への入場経路。客席内での護衛位置。他にも舞台裏、天井、照明器具、吊り架、窓、側廊、非常口。あらゆる情報。
昨日の落下事故が単なる事故であるなら、それでよい。だが直衛任務は、そうではなかった場合に備えるためにある。
だが説明を始める前に、皇帝陛下は短く言った。
「任せる」
「はっ」
それは信任だった。同時に、責任の所在を明確にする言葉でもあった。何か問題があれば、誰の首を飛ばすか、最初に決めておく。そういう話だった。
*
出撃は、号令一つで足りた。
黒の牙の隊員たちは、余計な言葉を発しない。黒い軍装を整え、各自の装備を確認し、小型艇へ乗り込んでいく。エドワードが自ら選び、自ら鍛えた若き精鋭達だ。
彼らはただの護衛ではない。皇帝陛下の直衛であると同時に、必要ならその場を戦場として制圧する部隊でもある。時には潜入捜査を行って、テロの首謀者を排除することもある。
黒塗りの小型飛空艇が旗艦フリューゲルを離れた。
七聖学院が近づいてくる。懐かしさは、なかった。正確には、懐かしさを覚える余地がなかった。
ここは母校ではないと、エドワードは自分に言い聞かせた。
着陸と同時に、エドワードは最初に地上へ降りた。
隊員達が見るべきものは決まっている。屋根。窓。扉。柱の影。校舎の二階。講堂までの導線。どこに隠れられるか。どこで混乱が起きる可能性があるか。それだけを順に潰していく。隊員たちは音もなく配置についた。
本来であれば、皇帝陛下の護衛は、軍司令本部直属の儀仗兵部隊が行うべきだ。海軍所属である海兵部隊の出番はない。だが自分達が招聘された。
皇帝陛下は、伝統や形式、慣習よりも、実利を優先する。その噂は真実であると、エドワードは認めるしかなかった。能力が認められ、有用であるならば使う。これは実力のあるエドワードにとっては好都合だった。
警護実務を隊員達に任せながら、エドワードは小隊長として自分の責務に専念する。
先ずは、皇帝陛下が歩く予定の経路を、事前に自らの靴底で確認する。道の毒味だ。
次に、現場の管理責任者と挨拶、および細部詳細の再確認だ。正面玄関の前には、アンディアナ校長と、ヴァルク・ラドーレが立っていた。
「首尾はどうじゃ。エドワード」
先に声をかけてきたのは、ヴァルクだった。今日は鎧を着ている。騎士の正装。だが、彼が所属している緋鋼重装騎兵師団の全身甲冑ではない。あくまでも学院特別講師としての、私的な装備だ。
エドワードは短く礼をした。
「順調だ。ヴァルク卿」
「今は先生じゃき」
「これは失礼。騎士の先生」
ヴァルクは微苦笑した後、海兵隊員達の方へと視線を投げた。
「物々しいのう。学院を戦場にする気ながか」
「そうしない為に来た」
「ならええが」
互いに、何を警戒し、何を護るべきかは分かっている。皇帝陛下の御臨席。昨日の事故。講堂。吊り架。皇家の双子。そして、抱え込んだヤクトブレオ家の因縁。生徒達。
やがて、皇帝陛下の乗る浮遊台座が、地上へと降りて来た。玄関前ロータリーの中央、噴水を背にして降りた。
その瞬間、場の中心が変わる。教師も、生徒も、兵も、客人も、まだ誰も声を発していない。それでも、全員が理解していた。
この場で最も重力を持つもの、飛空戦艦よりも重き価値を置かれる存在が、いま地上に現れたのだと。
エドワードは正面玄関の前で待った。
黒髭の魔法使いは、皇帝陛下の側を離れず、その斜め後ろに立っていた。頭皮の魔法印は光っていない。だが、その周囲の空気だけが薄く張り詰めているように見えた。
アンディアナ校長が膝をつく。
ヴァルクも膝をつく。
整列した教師たちが、それに倣う。
双子だけは顔を上げたままだ。
二人の兵士が、ヴェナリス皇帝の前に、校舎まで続く赤い絨毯を長く敷いた。
こつ。
と、皇帝の靴底が、絨毯の上から石畳を踏んだ。
「懐かしいものだな」
皇帝陛下にとってもまた、ここは母校であった。七聖学院が懐かしさを感じて貰える場所である。その事実一つだけで、学院の未来は安泰となる。
皇帝陛下が赤絨毯を進む。直衛の鎧騎士が二人と、側近の魔法使いがその後に続く。
正面玄関の前。皇家の双子が前へ出た。
二人そろって、恭しく頭を下げて一礼する。恐ろしい程に息がぴったりだ。
「皇帝陛下におかれましては、本日、七聖学院学芸会へ御臨席賜り、誠に光栄に存じます」
挨拶をしたのは少年の方だった。声は震えていなかったし言葉も流暢だったが、エドワードには少し緊張しているようにみえた。
皇帝陛下は、マギ殿下を見た。
次に、マナ殿下を見た。
続いて魔法使いに視線を送った。
禿げ頭の男は、無言で頷いた。
皇帝陛下は、口許に緩い笑みを浮かべた。
そして、短く応じた。
「楽しみにしている」
それだけで、挨拶は終わった。
「皆の者。面を上げよ」
アンディアナ校長が、ゆっくりと顔を上げた。作り笑いのできは、あまり良くない。
「貴様が校長だな。案内せよ」
「はい、皇帝陛下。こちらでございます」
講堂への移動が始まる。
校長が緊張の面持ちで前を歩く。エドワードは皇帝陛下の左斜め後方につき、隊員たちは前後左右に散る。黒髭の魔法使いと二人の鎧騎士は、その後ろを歩きながらも皇帝陛下の側を離れない。ヴァルクは、その最後尾に続いた。
講堂にはエドワードが皇帝陛下よりも先に入って、内部の状況を確かめる。
先ずは事故現場となった舞台の天井、照明器具だ。事前報告にあった通り、応急の修理と補強はされている。
それから、生徒達の列。
その時、視界の端に、ハリエット・ヤクトブレオが入った。
陽級一年の列。
友人達と並び、彼女はこちらを見ながら、歓迎の拍手をしていた。
いつもの穏やかな顔だが、少し緊張しているようにも見える。
エドワードは、一瞬だけ視線を止めた。ハリエット。婚約者。数秒後、エドワードは視線を戻した。職務が先だ。
皇帝陛下が着席する。講堂前方、来賓席の中央。特注の肘掛け椅子が、絨毯の上に安置されている。
その席は、皇帝陛下が座った瞬間、ただの椅子ではなくなった。玉座だ。この男が座った場所こそが、玉座として扱われるのだ。
エドワードは変わらず皇帝陛下の左斜め後ろに控えた。黒髭の魔法使いは反対側に立つ。
黒の牙の隊員たちは、観客には目立ちすぎない位置へ散っている。そして、その警戒対象は、外部からの侵入者だけではなく、ここにいる生徒達も含まれた。
本人に反逆の意思はなくとも、既に誰かによって操作されている者。そうとは知らずに魔法によって爆弾化させられている者。
そんな有り得ないと思われるような奇抜な手段に対してすら、エドワードは警戒している。警護を任せられた者が、絶対に使ってはいけない言葉。それが「まさか」であると彼は考えている。その言葉は、警護の場面だけでなく、戦場においても、大抵は失敗した者が口にする言葉だ。
まさか、子供達が皇帝陛下の暗殺を企むなんて。
エドワードは舞台袖を見た。マギ殿下の姿がある。あの少年は、何かを秘めている。さらに、あの双子は魔法が得意だと知られている。
思考感知をすり抜ける方法、そんな術式魔法を使えるかも知れない。
そして、舞台の上からであれば、皇帝陛下との間に、遮る壁は何一つない。
皇帝陛下は、開幕前の舞台を静かに見ていた。楽しみにしているようには見えない。
ただ、見る。見極める。
そんな眼差しには見覚えがある。
海兵隊の入隊試験、その最終段階。面接試験。あの時の面接官と同じ眼差しだ。いや、それ以上かも知れない。
やがて、講堂の明かりが落とされた。ざわめきが沈む。舞台袖で、誰かが小さく合図を出した。
幕の向こうに、人の気配が並ぶ。
エドワードは思った。
これは学芸会だ。
子供たちの舞台だ。
そうであるはずだし、そうあるべきだ。
幕が上がった。
舞台の。
そして、戦いの。




