第五十七話 双子
マナ。
僕の姉さん。
『ねぇ、マギったら、ちゃんと見えてる?』
口うるさい僕の姉さん。
『うん、見えてる』
僕たちは学院に巨大な影を落とす空の怪物を、校舎二階の窓から見上げていた。
七聖学院の上空に現れたそれは、飛空船というより、空を進む城塞だった。青く晴れた秋の空を背景に、灰白色の長大な艦体がゆっくりと高度を下げてくる。装甲板は何層にも重ねられ、朝の光を鈍く跳ね返しながら、まるで大空そのものを押し分け、引き裂くように進んでいた。艦底では、地表を狙える幾つもの砲門がその威容を並べ、その端々で魔導機関の誘導灯が明滅し、低く脈打っている。
『天空艦隊、クルィリヤ級四番艦、旗艦フリューゲル。皇帝陛下のおでましよ』
その音は、雷鳴とは違う。もっと重く、もっと規則正しく、そしてどこか生き物めいていた。遠くから響いているはずなのに、腹の底へ直接触れてくるような重低音が、学院の窓硝子を細かく震わせ、校庭の木々の葉をわずかに揺らしていた。
旗艦フリューゲルの周囲には、小型の随伴艇が幾つも控えている。けれど、目を奪うのは、やはり中心の一隻だった。だがそれは、船体が巨大だからではない。
もちろん、巨大ではある。けれど、本当に恐ろしいのは寸法ではなく、あれが空に浮かぶ皇帝権力そのものとして、この学院と、この七湖都市ズィーベン・ゼーブルグの上に影を落としていること。その厳然たる事実だった。
あんなものを見せつけられて、戦慄を覚えない者はいない。
校庭にいた生徒たちも、校舎の窓から顔を出した者たちも、皆が同じように空を見上げていた。ざわめきはある。けれど、大声を出す者はいない。教師たちでさえ、いつもより声を低くしているように見えた。
『姉さん。あれには勝てそうにない』
『惑わされないで』
『そう言われても』
『あいつが、ただ学芸会の視察だけに来るはずがない。そんなものは、口実。分かるでしょ?』
『うん、分かる』
学院視察。でも実際には、この七湖都市で暮らす貴族たちへ向けた示威行為に他ならない。七湖都市ズィーベン・ゼーブルグは王侯貴族達の都市であり、七聖学院は多くの貴族家、出資者、卒業生、縁者と結びついている。表向きには学院行事への御臨席であっても、頭上から旗艦フリューゲルを降ろすという選択そのものが、彼らに対する皇帝陛下の意志を示している。
『反逆する気があるなら、この最新鋭艦を見ろ。あいつは、そう言っている』
『そうだね。七湖都市の貴族たちから、抵抗の意志を根こそぎ奪うために』
『本当、忌々しいわね』
マナ姉さんの吐き捨てるような声が、精神感応を通じて頭の奥に響いている。
外から見れば、僕とマナ姉さんは無表情のまま空を見上げているだけだ。薄桃色に近い白金の髪、赤い瞳の姉、青い瞳の弟、皇家の子として仕立てられた特注の学生服。僕らが並んで立っている姿は、きっといつものように、よく似た双子が、静かに飛空艦を見ているようにしか映らない。
でも、僕たちだけは知っている。僕とマナ姉さんは表向きには黙っているだけだ。そして、黙っている時ほど、頭の中では互いによく喋る。
『あたし、忘れないんだから。レオナのこと、役立たずだって切り捨てた。許さない』
僕たちは、ヴェナリス皇帝が即位して、独裁を始めた年に生まれた。
その翌年に、レオナが生まれた。
それより前にいた兄様たちは、もういない。
顔も知らない。声も知らない。どういう人たちだったのか、兄と呼ぶべき相手としての記憶もない。本当なら、僕たちには、もっと多くの兄様たちがいた。でも、みんな不自然な死に方をしている。
『姉さん、落ち着いて』
『後で落ち着くから、今ぐらいは言わせてよ。顔も知らない兄様達だけど、あたし達で仇を討つんでしょ?』
あれは粛清だ。
姉さんは常日頃から言っている。ならば、ヴェナリス皇帝、あの人も討たれる覚悟を持つべきだ。
マナ姉さんの言葉は、時に辛辣で、時に乱暴で、時に僕が冷や汗をかくほど危うい。
だけど、僕の考えも、姉さんと同じだ。
『うん、やるからには確実に、そして絶対に』
マナ姉さんは、少しだけ先に生まれたという理由で、ずっと姉さんを名乗っている。実際、僕よりも思い切りがよく、僕よりも強く、僕よりも怒りを隠すのが下手で、けれど、いざという時には僕よりずっと大胆な決断をする。僕は、それに乗る。
『ふふ、だから好きよ。マギ』
僕はたぶん、マナ姉さんがいなければ、ここまで来られなかった。けれど同時に、僕がいなければ、マナ姉さんはきっと危険なところまで踏み込み過ぎる。そして、きっと今頃は、皇帝から目の敵にされ、刈り取られていたはずだ。
だから僕は盾で、マナ姉さんは矛だ。
それは性格だけではない。得意な術式魔法もそうだ。マナ姉さんは攻撃呪文に向き、僕は防御と補助呪文に向く。そういう形に、僕たちは少しずつ分かれてきた。病床の母様が高位の魔術士であったこともあって、僕たちは生まれる前から、魔法力において恵まれると言われてきた。名付けからしてそうだ。
けれど、肉体は普通だ。僕に至っては、むしろ弱い方だと思う。きっとマナ姉さんの方が、運動神経は上だ。
『それで、剣の方は上達した?』
『やれる努力は全てしたよ。姉さん』
皇城で暮らしていた時は、僕もマナ姉さんも剣技のレッスンぐらいは受けている。皇家の子として、受けていないはずがない。
しかし、それはあくまで嗜みであって、剣士として戦うための訓練ではなかった。だから僕は、舞台で剣を持つことになった時、自分の弱さをどう隠すべきか、どう強く見せるか、そればかりを考えていた。
『あの騎士ヴァルク。その弟よね?』
『ヴァン先輩だ。稽古をつけてもらって、少しだけ分かった気がする』
『何が?』
何がと聞かれると困る。弱いなら、弱いまま見せる。追い詰められていることを見せる。それでも折れていないことを見せる。倒すための剣ではなく、強くても弱くても関係ない、見る者に分からせるための剣。追い詰められた鼠が、猫に突き立てる牙。僕が僕であることを示すための剣。それが舞台の上で剣を持つということ。それを一言で表すなら。
『心構え』
『ふーん、今さらって感じもするけど、いいわ。マギにしては、よく頑張った』
『姉さんは、いつも一言が余計だよ』
旗艦フリューゲルが高度を落とすにつれて、校庭の影はさらに濃くなっていった。
やがて、最初に降りてきた上陸用の小型艇、そこに皇帝陛下の姿はなく、黒い軍装の兵たちが姿を見せた。
『皇國海兵隊、黒の牙。皇國最強の精鋭部隊ね』
『……その中でも、今回の直衛はエドワード隊だと聞いている』
『エドワード・クィルズ卿。わざわざ指名されたって話でしょ?』
『多分、クィルズ卿が学院卒業生で、地理に詳しいからだ。講堂への導線、校舎の構造、来賓用入口、裏手の通路、死角になりやすい場所。皇帝陛下の直衛として、現地を知る者を置くのは合理的だと思う』
『表向きには、ね』
『……姉さん』
『何よ。あんたも分かってるでしょ。本当の理由は、たぶん別よ』
『断定は危険だって』
『でも考えない方がもっと危険。エドワード卿の婚約相手は、ハリエット・ヤクトブレオ。あのヤクトブレオ家よ』
『反逆者の親族。そう思われてるよね』
『そのヤクトブレオ家の娘を、わざわざ嫁に迎える男。皇帝陛下が近くで見定めたいと思っても、不思議じゃないでしょ』
『……あり得る。学院に詳しいという実務上の理由は本当だと思う。でも、それだけではない可能性もある』
『つまり、今回のあたし達と同じ。観察対象、あいつが品定めする相手』
『皇帝陛下に面と向かうのは、僕の方だけどね。姉さんは喋らないし、監督だから舞台にも上がらないし』
『あたしに喋らせていいの?』
『それはだめ。絶対』
『だったら諦めて、覚悟を決めなさい』
『分かったよ』
『ならよろしい』
黒の牙の隊員たちは、着地すると同時に、音もなく配置についていった。走らない。叫ばない。必要以上に武器を見せびらかすこともない。けれど、彼らが降りた瞬間、学院の空気は確かに変わった。
これは学芸会の空気ではない。軍事作戦の空気だ。
彼らは魔道剣兵を中心とする精鋭だ。剣術と魔法戦闘を同時に扱い、さらに各自が斥候、護衛、治療、破壊工作、指揮などの専門技能を個別に修めている。小隊ひとつで、多様な局面へ対応することを前提に作られた独立行動が可能な戦闘小隊。
つまり、彼らをただの護衛兵だと思ってはいけない。
「物々しいですね」
僕らのすぐ隣で、アルフォンス先生が呟いた。
「えぇ、そうですね。昨日は事故がありましたから」
誰かに答えるのは、いつも僕の役目だ。
『マギ、昨日の事故、あれを本当に事故だと思ってる人間、どれだけいると思う?』
『……少なくとも、僕たちはそうは見ていない』
『やっぱり、暗殺未遂よね』
『断定はできない。けれど、誰かが清掃員を装って学院に入り、講堂に細工をした可能性はあると思う』
『照明の落下。本来なら、マギが立っていた時間帯でしょ?』
『予定を変更しなければ、そうだったね』
『標的は、あんた?』
『分からない。僕個人を狙ったのか、皇家そのものを狙ったのか。けれど、可能性としては後者の方が高いと思う。僕という個人ではなく、皇家の血を狙ったと考える方が自然だ』
『迷惑な話ね。そのせいでイネヴェア先輩が大怪我したんだから』
『……それは、本当に申し訳ないと思っている』
『あんたが謝ることじゃないでしょ』
『それでも、僕たちが皇家でなければ、あの人が巻き込まれることはなかったかもしれない』
『マギ』
『分かってる。そう考えすぎるのはよくない。でも、無関係だとは思えない』
『皮肉よね。あたし達はいつか皇帝ヴェナリスを打倒しなきゃいけない。でも、あいつを憎んでる連中が、あたし達の味方とは限らない』
『むしろ、皇家の子である限り、反皇帝派の者たちにとっても、僕たちは排除すべき対象になり得る』
『皇帝側からも安全じゃない。反皇帝側からも安全じゃない。ほんと、最悪』
『だからこそ、今日は慎重に動く必要がある。敵が一方向だけならまだ読みやすい。でも今の僕たちは、どちら側から見ても利用価値があり、同時に危険視される立場にいる』
『護衛達も、昨日の件は暗殺未遂って見てるでしょうね』
『たぶん。少なくとも、ただの設備事故として扱っているとは思えない』
『だからこの物々しさ、ってわけ』
『そうだと思う。黒の牙の配置も、エドワード卿の動きも、昨日の事故を踏まえた警戒に見える』
『……面倒ね』
『面倒でも、助かっている部分はある。彼らが警戒している間は、少なくとも次の仕掛けはやりにくくなる。そういう意味では、今は助かるよ』
『あんた、そういうところだけ前向きね』
『前向きというより、そう考えないと怖いだけだよ』
やがて、出迎えの位置へ移動する時間になった。
「お二方、そろそろ行きましょう」
僕たちはアルフォンス先生の導きで、階段を降りて正面玄関へと向かう。
一階の廊下を歩く途中で、ヴァン先輩たちに出会った。どうやら今まで外にいて、これから講堂へ向かう途中らしい。
「君達、何をしているのです。早く講堂へ行って整列して下さい」
「だって、もっと飛空戦艦を見たいじゃん」
「後でたくさん見てください。今は急いで」
ローティ先輩が、アルフォンス先生に注意された。僕はヴァン先輩と目があった。先輩は何も言わずに、ん、という感じで頷くだけだった。僕も頷きを返す。そのまま互いにすれ違って進む。
『なにそれ』
『え? なにが?』
『双子の姉を差し置いて、二人だけで通じ合ってるみたいな。妬けちゃう』
『ちょっと待って、姉さん』
『ねえ。いつの間にそんなに仲良くなったの?』
『うーん、仲良しかは分からない。でも、前よりはヴァン先輩の考えが分かる。』
『何日も剣で語り合ったから?』
『それはそうだね。ヴァン先輩は、すごく真っすぐなんだ。なのに丸い』
『分かるような、分からないような』
『あと、ズルがない。ちゃんとしてる』
『気に入ったんだ』
『それは否定しない』
僕たちは玄関の大扉を潜って、校舎の外に出た。アンディアナ校長は、すでに正面玄関の前、赤絨毯の上に立っていた。いつもより派手さを抑えた装いではあるが、それでも校長は校長だった。扇を持つ手に力が入っているのが、何となく分かる。
その隣にはヴァルク先生がいる。今日は鎧を着て、騎士の正装をしている。普段と見違えて、まるで別人のように見える。今はもう騎士職を退いたと聞いていたけれど、装備はちゃんと欠かさずに手入れがされているようだ。
ヴァルク先生の立ち方は、すごく自然体に見えるが、周囲への目配りは途切れていない。何となく、ヴァン先輩と似ている。いや、ヴァン先輩が似ているのか。
エドワード卿が黒い海兵隊員たちの先頭に立ち、歩み出た。ヴァルク先生と短く言葉を交わす。何を話しているのかまでは聞こえないが、見た限りでは、あの距離感は、友達同士という感じだ。
その二人が艦を見上げた。もうすぐ皇帝陛下が降りてくる。
『姉さん、そろそろ気を付けないと』
『はいはい。面倒くさいったらないわね。それじゃ、精神感応は切るから、後は頑張ってね、マギ』
『うん』
皇帝陛下の直衛には、思考感知の呪文を使う者がいる。心の中の全てを完全に読めるわけではないが、表層的な思考を読める呪文だ。つまり、皇帝陛下との距離が近づけば、強い敵意や害意、隠そうとした思考の歪み、あるいは不自然な沈黙まで拾われる可能性がある。殺意なんて抱こうものなら、一瞬で察知される。
僕とマナ姉さんは、皇帝陛下を、いつか打倒しなければならない相手だと考えている。それは僕たち二人だけの秘密であり、誰にも見せてはならない最奥の意思であり、意志だ。
反逆。
ただし、この意志の何もかもを隠そうとすれば、かえって怪しまれる。だから、見せるものを選ぶ必要がある。
皇帝陛下に迎合しないこと。
反骨心を持っていること。
けれど皇國を乱すつもりはなく、国のためには尽くすつもりであること。
そこまでは見せてもいい。
むしろ、見せるべきだ。
その浅い層を餌にして、もっと奥にある本当の意志、皇帝打倒の志は、意識の深みに沈めて隠す。僕一人では、そんな危うい真似は思いつかなかった。逆転の発想。
攻撃こそ最大の防御。
それが精神と意識の攻防、この情報戦においても成り立つとは思わなかった。さすがはマナ姉さんだ。
僕は、皇帝陛下に対して、思考の挑戦状を叩きつける。
来るなら来い。
ヴェナリス=ロートシュタール。
第十二代緋鋼皇帝よ。




