第五十四話 本番までに
「頼みがある」
マギさんは、まっすぐヴァンさんを見ていた。
その言葉に、教室の空気が少しだけ止まった。
けれど、ヴァンさんはほとんど迷わなかった。
「分かった。いいぞ」
「え?」
思わず声を出したのは、わたしだった。
マギさんも、少しだけ目を瞬かせたように見えた。
「まだ、何も聞いていません」
「断る理由がない」
ヴァンさんは、いつもの調子で言った。
「なんで?」
そう聞いたのは、マリアンナさんだった。
手帳を持ったまま、ものすごく興味深そうにヴァンさんを見ている。さっきまで後宮入りだの、玉の輿だのと言っていた人とは思えないくらい、目が真剣だった。真剣というより、記事の匂いを嗅ぎつけた顔だった。
ヴァンさんは、少しだけマリアンナさんを見てから、すぐにマギさんへ視線を戻した。
「おまえなら、無理な頼みはしない。おれに頼むってことは、おれにしかできない。違う?」
マギさんは、少しだけ黙った。
それから、静かに答えた。
「違いません」
「なら、話せ」
「分かりました」
マギさんは、ほんの少しだけ姿勢を正した。
「実は、練習に付き合ってほしいのです」
「剣の?」
「剣のです」
マギさんは頷いた。
「最初は、ヴァルク先生に頼みました。けれど、断られました」
ヴァンさんの眉が、わずかに動いた。
「理由は分かりません。ただ、代わりに、貴方を推薦して頂きました」
マギさんの視線は、まっすぐヴァンさんに向いていた。
ヴァンさんは、少しだけ顔をしかめる。
「兄貴め、どういうつもりだ……」
小さな声だった。
「たぶん、ヴァルク先生は断るしかなかったんじゃない?」
そう言ったのは、マリアンナさんだった。
さっきまで楽しそうにしていた顔が、少しだけ真面目なものに変わっている。
「断るしかなかった?」
わたしが聞くと、マリアンナさんは頷いた。
「皇家の剣術には、正式な指南役がいるはずよ。皇子殿下や皇女殿下に、誰が剣を教えていいかは、ちゃんと決まっているの。学院の先生だからって、勝手に教えていいものじゃないわ」
「そうなんですか?」
「少なくとも、そういうしきたりがある。だから、マナ様とマギ様は剣術の授業も免除されているでしょ?」
言われてみれば、そうだった。
剣術の授業で、マナさんとマギさんの姿を見たことはない。あの二人が剣を持っているところも、わたしは見たことがなかった。
「ヴァルク先生は騎士だから、そのあたりをちゃんと分かっていたんだと思う。だから、指南役として教えることはできない。でも、舞台のために剣を合わせる練習相手なら、話は別」
マリアンナさんは、そこでヴァンさんを見た。
「それで、ヴァン君を推薦したんじゃない?」
マギさんは、少しだけ目を伏せた。
「なるほど。そうだったのか……」
静かな声だった。
「そう言われると納得だ。僕もまだまだ未熟だな」
マギさんは、自分を責めるようにではなく、確かめるようにそう言った。
ヴァンさんは、少しだけ黙った。
「兄貴らしい」
短く、そう言った。
「それで、ヴァン君はどうするの?」
マリアンナさんが聞いた。
ヴァンさんは、マギさんを見た。
「やると言った」
「本当にいいのですか?」
「二度言わせるな」
マギさんは、ほんの少しだけ頭を下げた。
「ありがとうございます」
「場所は?」
「裏庭を借りる予定です」
「時間は?」
「放課後、夕食の前に一時間。明日から、本番の二日前まで」
「分かった」
ヴァンさんは、それだけで話を終わらせようとした。
けれど、マリアンナさんが、すぐに手帳を開いた。
「明日から本番二日前まで、裏庭で、ヴァン君とマギ様が剣の練習。これはなかなか面白いわね」
「書くな」
ヴァンさんが低い声で言った。
「書かないわよ。まだ」
「まだ?」
「取材はするけど」
「するな」
「見るだけ見るわ」
「帰れ」
「新聞屋から目を奪うのは、剣士から剣を奪うようなものよ」
「そうか。なら、簡単には奪えないな」
あ。そこで納得するんだ。
「ふふん」
マリアンナさんは、胸を張って笑った。
*
その翌日から、裏庭でヴァンさんとマギさんの稽古が始まった。それぞれの舞台稽古が終わってからすぐに集まった。
稽古といっても、本当に斬り合うわけではない。舞台の上で、剣をどう見せるか。そのための練習だった。
けれど、二人が木剣を構えると、それだけで空気が少し変わった。
ヴァンさんは、あまり大きく動かない。必要な分だけ足を動かし、必要な分だけ剣を上げる。マギさんは、それを見ながら、何度も動きを合わせていた。
剣が重なる音がする。
乾いた音だった。
強く打ち合っているわけではないのに、近くで聞くと胸の奥が少しだけ震えた。
「そこは遅い」
「はい」
「踏み込む前に肩が動いている」
「はい」
「見せたいなら、先に視線を使え」
「はい」
マギさんは、ほとんど反論しなかった。
ヴァンさんの言葉は短い。けれど、マギさんはその短い言葉を逃さないように、一つずつ受け取っていた。何度も同じ場面を繰り返し、踏み込み、止まり、剣を下ろし、また最初の位置へ戻る。
わたしは、雑用……、もとい助監督の仕事をする合間をみて、毎日のようにタオルと飲み物、それから小さな差し入れを持って行った。
最初は、これも仕事の一つだと思って、なんとなく見ていた。けれど、毎日見ていると、少しずつ分かることが増えてきた。
マギさんは、真面目だった。ううん、真面目というより、必死だった。顔にはあまり出ない。声も大きくならない。けれど、木剣を握る指や、何度も同じところへ戻る足の動きに、諦めない気持ちが見えた。
マリアンナさんも、毎日のように見学に来た。
「取材よ、取材」
本人はそう言っていたけれど、手帳を開いていない時間の方が長かった気がする。二人とも根性がスゴいと思った。
わたしたちは、本番までに、どれだけのことを覚えて、直して、決めて、作らなければならないのだろう。そう考えると少しだけ気が遠くなったけれど、不思議と、嫌ではなかった。
*
そして、本番の二日前。
明日は、講堂でのリハーサルがある。だから、裏庭での練習は今日が最後だった。
陽は沈みかけていて、風は冷たかった。裏庭の木々の葉が、かすかに揺れている。わたしはタオルを抱えたまま、邪魔にならない場所に立っていた。
ヴァンさんとマギさんは、何度も同じ場面を繰り返した。
マギさんが踏み込み、ヴァンさんが受ける。木剣が重なる。距離を取る。もう一度、最初から。
その繰り返しだった。
けれど、最初の日とは違う。
マギさんの動きは、少しずつ舞台の動きになっていた。ただ剣を振るのではなく、見る人に分かるように動く。追い詰められているように見せる。けれど、弱くは見せない。剣を受ける時も、退く時も、顔の向きや足の置き方まで、何度も確認していた。
最後の一度が終わった後、マギさんはしばらく木剣を下ろさなかった。
「ねえ、マギ様」
声をかけたのは、マリアンナさんだった。マギさんが、静かに振り向く。
「どうして、そこまで一生懸命やるの?」
マリアンナさんの声は、いつもの軽い調子より少しだけ真面目だった。
「劇でしょ。もちろん、皇帝陛下がいらっしゃるから大事なのは分かるけど……それだけじゃない気がするのよね」
マギさんは、少しだけ黙った。風が、裏庭の草を揺らしている。
「使命だから」
やがて、マギさんは言った。
「陛下が御観覧されるということは、僕を品定めに来るということ。ここで下手は見せられない」
その言葉は、静かだった。
けれど、冗談ではないのだと分かった。
「僕には、夢があるから」
「夢?」
マリアンナさんが、少し目を細める。
「どんな夢?」
マギさんは、すぐには答えなかった。
木剣を握る指に、ほんの少しだけ力が入ったように見えた。
「それは、まだ言えない」
「恥ずかしいから?」
「違う」
マギさんは、首を横に振った。
「恥ずかしいからではない。まだ、その時じゃないからだ」
「ふうん。夢かあ」
マリアンナさんは、手帳の端で自分の頬を軽く叩いた。
「いいわよね、夢。ちなみに、わたしの夢は、いつか新聞記者になること!」
少し胸を張って、マリアンナさんはそう言った。その言葉に、ヴァンさんが少しだけ目を細めた。
「おれは、夢なんてものは、早く捨てろと教わった」
「え?」
思わず声が出た。マリアンナさんも、ぎょっとした顔をする。
「それって、ひどくない?」
「兄貴の言葉だ」
「ヴァルク先生の?」
「続きがある」
ヴァンさんは、木剣を下ろしたまま言った。
「ちゃんと期日を与えて、夢を目標に変えろ」
その場が、少しだけ静かになった。
「……あ」
マリアンナさんが、小さく声を漏らした。
夢。
目標。
似ているようで、少し違う言葉だった。
「マリアンナ」
「先輩って呼びなさい」
「マリ先輩」
「略すな」
「マリアンナ先輩」
「よろしい。呼び方って、とても大事なのよ」
マリアンナさんは、満足そうに頷いた。ヴァンさんは、何事もなかったみたいに続ける。
「新聞記者になるのが夢って言うけど、いつなるの?」
マリアンナさんは、少しだけ言葉に詰まった。
「それは……確かに、漠然としてたわね」
手帳を持つ指が、少しだけ止まる。
「学院を卒業してから、どこかの新聞社にスカウトされるとか、就職するとか……そういう感じで考えてたけど」
「ちゃんと決めた方がいい」
ヴァンさんは、短く言った。
「夢は、いつまでも夢のまま、ってことがある」
それは、冷たい言葉のようにも聞こえた。けれど、突き放しているわけではない気がした。
「でも、目標なら違う」
マリアンナさんは、何も言わなかった。マギさんも、黙ってヴァンさんを見ていた。わたしは、少し迷ってから聞いた。
「ヴァンさんの目標は?」
ヴァンさんは、すぐには答えなかった。
ただ、こちらを見た。
「ヴァン」
「え?」
「ヴァンでいい。さんはいらない」
急にそんなことを言われて、わたしは瞬きをした。
「でも……」
「呼び方って、とても大事らしいから」
ヴァンさんは、少しだけ視線を逸らして、そう言った。
さっきのマリアンナさんの言葉だ。
顔が、少し熱くなる。
「……ヴァン」
「ああ」
ヴァンは、短く頷いた。
わたしは、もう一度聞いた。
「ヴァンの目標は?」
ヴァンは、少しだけ空を見た。
そして、いつものように、短く答えようとした。
「おれの目標は──」




