第五十三話 雑用係
皇帝陛下が、学芸会にいらっしゃる。
その知らせがあってから、学院全体の空気は少し変わった。
誰も急に別人になったわけではない。廊下では相変わらず誰かが走って先生に叱られているし、食堂では昼食の献立について真剣に悩んでいる人もいる。ローティさんの声は相変わらず大きいし、オーレリアは相変わらず手帳を抱えてあちこちを歩き回っている。
けれど、それでも、どことなく何かが違った。
講堂の前を通る生徒の足が、少しだけ遅くなる。衣装室へ出入りする人が増える。倉庫の扉が開いている時間が長くなる。先生たちの声も、いつもより少しだけ硬い。そんな感じの、そこはかとない緊張感。
学芸会。
それは、ただの学内行事だったはずだ。皆で何かをして、舞台に立って、見に来た人たちに拍手をもらう。少し大変で、でもきっと楽しい。わたしにとっては、そういうものだった。
けれど、皇帝陛下がいらっしゃる。
その一言で、学芸会は、ただの学芸会ではなくなってしまったかのようだ。実際、そうなのだと思う。わたしには実感がわかないけれど、緊張するのは確かだった。今の皇帝陛下というと、どうしてもハンナの日記に出て来たひどい人という認識しか頭にない。まだ会ってもいないのに、先入観だけで人を判断しちゃいけないとは思うけれど、こればっかりは仕方ない。恐いものは恐いし、緊張するものは緊張する。
「そんなに緊張しなくてもいいのよぅ」
オーレリアが、そう言った。
「助監督と言っても、雑用係みたいなものなのよぅ」
その日の朝、オーレリアは手帳を開きながら、わたしの役目について教えてくれた。雑用係、なんでもする人。わたしは、そんな認識だった。
「雑用係、ですか?」
「役職名は、助監督なのよぅ」
「助監督」
わたしは、思わずその言葉を繰り返した。
「ただし、やることは多いのよぅ。衣装、大道具、小道具、音楽、照明、稽古。どこかで困ったことがあったら、私の補助として、ミコトに動いてもらいたいのよぅ」
それはつまり、やっぱり雑用係なのでは。そう思ったけれど、オーレリアの顔は真剣だった。
「私は全体を見るのよぅ。でも、私は体が一つしかないから、全部の場所に同時には行けないのよぅ。だから、ミコトに助けてほしいのよぅ」
助けてほしい。
そう言われると、断れなかった。
「……分かりました。できるだけ、やってみます」
「頼りにしているのよぅ」
頼りにしている。その言葉が、少しだけ胸の中で温かかった。それから、わたしの仕事は本当の本当に増えた。
*
「姫ならば、歩き方から整えませんと」
イネヴェアさんは鏡の前で背筋を伸ばし、何度も歩き方の練習をしている。わたしは歩き方を変えるたびに、ずっと感想を述べ続けた。演技指導なんて初心者には無理だと思ったけれど、本人がやる気になっているので問題ない気がした。
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「綺麗でも、転んだら駄目だから」
ハリエットのところでは、衣装用の布を押さえた。白百合姫の袖が長すぎると危ないらしく、短すぎると華やかさが損なわれる。それと裁縫を手伝ったら、針で指を刺した。衣装係は難しい。
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「買う物は最小限で済ませたいの」
大道具と小道具、道具係のまとめ役になったエインさんからは、倉庫から選び出した廃材と道具の一覧を受け取った。エインさんは、ただで使えるものを持って来て、予算を徹底的に節約した。わたしは荷物持ちをした。疲れた。
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「音が入る瞬間に照明も変えないとね……」
アディさんは譜面と講堂の見取り図を見比べながら、静かに言った。ずっと悩んでいるみたいだ。場面ごとの音楽と照明を書き留めた紙を受け取らなきゃいけないのに、焦らせるわけにもいかなくて、とりあえず決まるまで待ち続けた。
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「これを、舞台で喋れる言葉にしないといけないんですよね」
クリスさんは、げっそりと少し青い顔をしていた。アルフォンス先生から貰った原典の写し、その紙束を見て心が折れかけているクリスさんを励ますのに、二時間ぐらい悩みを聞いて、推敲に付き合った。
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「ローティ、早すぎる」
「ウォール、遅い」
追手となる二人の騎士役は、タイミングが合わない問題で困っていた。これは専門外過ぎるので、口出しはせずに汗拭きタオルと、サンドイッチだけ届けた。この問題は、その後で二人してヴァルク先生の指導を受けに行ったらしく、解決したっぽい。
*
「ヴァン、ちゃんと台本は読んだか?」
「あとで読む」
その一方で、台詞が多過ぎるハリスさんと、台詞の少ないヴァンさんで、読み合わせに取り組む熱量が違い過ぎる問題が起きていた。
「では、ヴァンさんが読むまで、わたしが黒騎士の台詞を読みます」
そう言うと、ハリスさんは少しだけ眉を上げた。
「君が読むのか」
「上手くは読めません。でも、間を取る相手くらいならできます」
そうして何度か読んでいるうちに、わたしは気づいた。黒騎士の台詞は、少ない。でも、少ないから簡単なのではなかった。
「ヴァンさん」
「なに」
「台詞が少ないからこそ、ちゃんと読んだ方がいいと思います」
「ん」
「一言で、黒騎士が何を考えているか伝えないといけないからです」
ヴァンさんは、少し黙った後、ようやく台本を開いた。
「読めるなら最初から読め」
「あとで読むと言った」
「今がそのあとだ」
そんな風に、一度でも読み合わせの練習に付き合ってしまったので、イネヴェアさんからも、ローティさんとウォールさんからも、練習に付き合ってくれと頼まれるようになってしまった。正直、休むヒマがない。
*
教室の隅で、フェルトンさんが一人で木剣を構えていた。何度か踏み込み、止まり、また最初の位置に戻る。何度か首をかしげている。たぶん、動き方で迷っているように思えた。
「フェルトンさん」
声をかけると、フェルトンさんは少し驚いたように振り向いた。
「貴様か、何か用か?」
「困っていますか?」
そう聞くと、フェルトンさんは少しだけ目を伏せた。
「僕は、最後に悪を裁き、黒騎士にとどめを刺す正義の騎士。なにも困りはしない」
とどめを刺す。その言葉は、劇の話なのに、少しだけ重く聞こえた。
「……台詞は覚えた」
フェルトンさんは、木剣を握り直した。運動の成績が悪いのは、わたしも知っている。徒競走でも、わたしと並ぶぐらいだから。その悩みは分かる。わたしは少し考えた。
「ヴァルク先生に、見てもらいませんか?」
「ヴァルク先生に?」
「はい。ローティさんとウォールさんも、騎士役の稽古を見てもらっているはずです。フェルトンさんの役も、騎士なら、きっと見てもらえると思います」
フェルトンさんは、少しだけ考えた。けれど、迷った時間は短かった。
「……そうだな。ヴァルク先生は、騎士として名高い方だ。一流の騎士を演じるなら、本物の一流に教わるのが一番いい。なにせ僕も一流だからな」
「はい、そうですね。頑張ってください。期待しています」
最近では、フェルトンさんが叩く大口にも、すっかり慣れてしまった。助監督という立場もあってか、みんなを世話して、やる気にさせることが段々と板について来た気がする。
*
教室へ戻ると、入口のところに見慣れた顔があった。
「あ、いたいたー!」
マリアンナさんだった。手には手帳。腕には校内新聞用の腕章。その表情は、ものすごく楽しそうだった。
「マリアンナさん?」
「聞いてるよね? 今年の学芸会、すごいことになってるじゃない」
「皇帝陛下のことですか?」
「そう、それ!」
マリアンナさんは、ぱっと目を輝かせた。
「ヴェナリス陛下が御臨席。しかも、双子様の成長ぶりを見に来るって話でしょ。校内新聞としては大事件よ。記事にしない方がおかしいわ」
言いながら、マリアンナさんは教室の中を素早く見回した。
「陽級一年は『姫と黒騎士』。黒騎士がヴァン君で、姫がイネヴェア。継母妃がハリス。……うん、これは強いわね」
「何がですか」
「インパクト」
即答だった。教室の奥で、ハリスさんが低い声を出した。
「書くな」
「まだ書くとは言ってないわ」
「今、顔が書くと言っていた」
「取材はするわよ。事実確認は大事だもの」
「それを記事にするなと言っている」
マリアンナさんは、聞こえないふりをした。
「月級三年生の演目は『誓いの冠』。マギ様が舞台に立って、マナ様は監督。あの二人、舞台に出ても出なくても絵になるから、新聞屋としては助かるのよね」
「よく知っていますね」
「情報は足で集めるものよ」
マリアンナさんは胸を張った。その自信は、少し怖い。
「でも、余計なことまで調べると危ないですよ」
「分かってるって。さすがに皇家の秘密を探るほど命知らずじゃないわよ」
本当に分かっているのだろうか。わたしがじっと見ると、マリアンナさんは少しだけ目を逸らした。
「今はね」
「今は?」
「細かいことは気にしない」
「気にします」
マリアンナさんは、そこで悪戯っぽく笑った。
「でも、皇帝陛下がいらっしゃる学芸会なんて、そうそうないわよ。誰かが陛下の目に留まったら、人生が変わるかもしれないじゃない」
「人生が変わる、ですか?」
「そう。超・玉の輿ってやつ」
マリアンナさんは、楽しそうに言った。
「まあ、私はミシェル先輩命だから、そういうのは見る専門だけどね」
「見る専門なんですね」
「もちろん。人の出世話と恋路は、記事にならなくても面白いもの」
さらっと言うところが、やっぱり少し怖い。
マリアンナさんは、そこでわたしを見た。
「ミコトはどう? 狙ってみたら?」
「わ、わたしですか?」
「そう。陛下の目に留まって、後宮入り。異国情緒もあるし、話題性は抜群よ」
「だめだ」
即答だった。
……え?
わたしより先に、ヴァンさんが言った。教室の空気が、少しだけ止まる。マリアンナさんは、ゆっくりとヴァンさんを見た。
「……へえ」
「なんだ」
「別に?」
マリアンナさんは、すごく楽しそうに笑った。
「今のは、記事にはしないでおいてあげる」
「するな」
「だから、しないってば」
わたしは、少し遅れて自分の顔が熱くなっていることに気づいた。
だめだ。
何が、だめなのだろう。後宮入りがだめなのか。皇帝陛下の目に留まるのがだめなのか。それとも、わたしが狙ってみることがだめなのか。いや、そもそも狙わない。狙わないけれど。ヴァンさんの声が、あまりにも早かった。
おそらくヴァンさんのことだ。ハンナの日記に書かれていた内容も知っているから、わたしが皇帝とか皇家を恐がっているのを分かって、そう言ってくれたのかもしれない。いつもみたいに、ただ守ろうとしてるだけ。そう、きっとそうだ。
その時だった、教室の入口に、静かな気配が立った。
薄桃色に近い白金の髪と、紺碧の瞳。いつものように表情はほとんど動かない。
マギさんだった。
珍しいことに、マナさんの姿はなかった。マギさんは教室の中を見回し、それから窓際のヴァンさんを見つけると、まっすぐに歩いていった。
ヴァンさんが顔を上げる。
「何だ」
マギさんは、ヴァンさんの机の前で足を止めた。教室中のみんなが、手を止めて二人を遠巻きに見守った。
「レオナの件で、礼を言いに来た」
マギさんは、まっすぐヴァンさんを見ていた。
「大したことはしてない」
ヴァンさんは、短くそう言った。
けれど、マギさんは首を横に振った。
「違う。僕たちにはできなかったことをしてくれた。思いつきもしなかったことを、あの子のためにしてくれた。他のみんなも」
声は静かだったけれど、ちゃんと熱がこもっていた。これは、すごく珍しいことだと思った。マリアンナさんもそう思ったのか、口に手を当てていた。
「ありがとう」
ヴァンさんは、少し沈黙した後で、いつもどおりに答えた。
「そうか」
それだけ言うと、もう何も言わなかった。マギさんは、ほんの少しだけ頭を下げた。それから顔を上げ、静かに続ける。
「それと」
紺碧の瞳が、まっすぐヴァンさんを見る。
「頼みがある」




