第五十五話 目標
「おれの目標は──」
ヴァンさ……、ヴァンは、少しだけ空を見た。
「三十になる前に、爺ちゃんのやった剣をする」
爺ちゃんのやった剣。
それがどういう剣なのか、わたしには分からなかった。
けれど、ヴァンの声は、いつもより少しだけ遠くを見ているように聞こえた。
「それから、死ぬまでにレオナの治療法を見つける」
そこでみんな少し黙った。
「爺ちゃんのやった剣?」
沈黙を破って、マリアンナさんが聞いた。
「そうだ」
「それは、どんな剣?」
ヴァンは少し黙った。
それから、木剣を下ろしたまま言った。
「誰も、殺さないための剣」
その言葉に、マギさんが顔を上げた。ほんの少しだけ。
「……誰も、殺さないための剣」
マギさんは、小さく繰り返した。その声は、さっきまでとは少し違っていた。わたしには、何が変わったのか分からなかった。でも、マギさんの中で、何かが繋がったのだと思った。
「ヴァン先輩」
マギさんが言った。
「何だ」
「もう一度、お願いします」
マギさんは木剣を構え直した。
「今の言葉を聞いて、少しだけ分かりました。たぶん、僕は、相手を倒す動きばかり考えていた」
ヴァンは、マギさんを見た。
「舞台だろ」
「はい」
「なら、相手を倒すより、見る人に分からせろ」
「分からせる?」
「おまえが追い詰められていること。けど、折れていないこと。負けそうでも、まだ立っていること」
ヴァンは、木剣を持ち上げた。
「それが見えればいい。そういう役なのだろ?」
マギさんは、しばらく黙っていた。それから、ほんの少しだけ、静かに、でも力強く頷いた。
「分かりました」
その声は、とても静かだった。けれど、さっきよりも迷いの少ない声をしていた。
「最後に、もう一度だけ」
「一度だけだぞ」
「はい」
二人は、もう一度だけ向かい合った。
マギさんが踏み込む。
ヴァンが受ける。
木剣が重なる。
その動きは、さっきまでと大きく変わったわけではなかった。けれど、マギさんの眼差しが違っていた。剣を見るのではなく、前を見る。押されているのに、逃げてはいない。退いているのに、諦めてはいない。そんな必死さが伝わってきた。
最後に木剣が離れた時、マギさんは深く息を吐いた。
「ありがとうございます」
マギさんは、ヴァンに向かって頭を下げた。
「まだ足りない」
ヴァンは言った。
「はい」
「けど、さっきよりはいい」
「はい」
マギさんは、ほんの少しだけ顔を上げた。表情は、ほとんど変わらない。
けれど、わたしには、少しだけ嬉しそうに見えた。
*
同じ日の夕食後。
七聖学院の職員室では、学芸会に向けた職員会議が開かれていた。
議題は、各級の進捗状況、講堂の使用時間、リハーサル当日の配置、そして、皇帝陛下御臨席に伴う準備についてだった。
職員室には、普段とは違う緊張感があった。
いつもの学芸会であれば、問題は生徒たちの進行状況と安全管理で済む。大道具の釘が出ていないか、衣装の裾が長すぎないか、舞台転換に無理がないか。それだけでも十分に大変ではあるが、まだ学内行事の範囲だった。
だが、今年は違う。
皇帝陛下が来る。
その一点だけで、職員室の空気はいつもより重かった。
「では、各級の進捗状況から確認します」
教頭が書類を手に、会議を進めていた。
「まず、星級から」
星級担当の教師が、予定表を見ながら報告する。
「星級は、三学年とも大きな遅れはありません。一年の歌唱、二年の器楽演奏、三年の朗読発表については、いずれも予定どおりです。衣装もほぼ揃っています。あとは、明日のリハーサルで立ち位置を確認すれば、本番までに調整可能です」
「よろしい」
教頭が頷いた。
「次に、陽級」
アルフォンス先生が、手元の紙を見た。
「陽級も、三学年分の準備はおおむね予定どおり進んでいます。二年、三年の発表と展示については大きな問題なし。一年の演目『姫と黒騎士』についても、台本は完成済みです。衣装、大道具、小道具についても、大きな遅れはありません」
「問題は?」
「黒騎士役、白百合姫役、継母妃役の主要場面は、まだ通し稽古に時間が必要です。ただし、現時点では深刻な問題ではありません。生徒たちがよく動いています」
その言葉に、何人かの教師が小さく頷いた。
実際、陽級一年の生徒たちはこの数日、かなり忙しく動いていた。監督のオーレリアと、助監督役のミコトの頑張りのおかげで、多少の混乱はあっても、準備は着実に前へ進んでいた。
「では、今回の目玉となる月級」
教頭が次の紙へ目を移した。
「月級についても、三学年分の進行に大きな遅れはありません。一年、二年の演目は予定どおりです。ただし、中心演目である三年の『誓いの冠』について、監督役のマナ様より、明日のリハーサル時間変更の申し出が出ています」
職員室の視線が、教頭に集まった。
「変更、ですか?」
アンディアナ校長が扇を手にしたまま聞いた。
「はい。現在、月級三年のリハーサルは午前に予定されています。しかし、マナ様から、午後へ変更してほしいとの申し出がありました」
「理由は?」
「マギ様が、舞台上の剣の動きについて、もう少しだけ練習時間を取りたい、と」
職員室に、短い沈黙が落ちた。
皇帝陛下が御観覧される学芸会で、月級三年の演目は特に注目される。マギが舞台に立ち、マナが監督を務める。それだけで、見る者の目は自然と集まるだろう。
そこで、本人たちが最後まで詰めたいと言っている。
無下にする理由はなかった。
「リハーサル時間の入れ替えは可能ですか?」
アンディアナ校長が聞く。
教頭は書類をめくった。
「可能です。陽級一年の演目と入れ換えれば、月級三年を午後へ回せます」
「では、そうしましょう」
アンディアナ校長は頷いた。
「マナ様には、午後の時間を使っていただきます。ただし、本番前日です。無理をさせすぎないように」
「承知しました」
教頭が書き込む。
その時、アルフォンス先生が軽く手を上げた。
「一つ、よろしいでしょうか。ついでに本番当日、月級三年の『誓いの冠』を、陽級一年の『姫と黒騎士』より先に回してはどうかと」
教頭先生が予定表から顔を上げた。
「理由は?」
「皇帝陛下の御滞在時間です。陛下が最後まで御覧になるとは限りません。皇家の御二方が出演される『誓いの冠』を先に置けば、そこは確実に御覧いただけますし、その後の幕間で御退席の導線も作りやすいかと」
会議室に、短い沈黙が落ちた。
ジークハルト先生が腕を組んだまま頷く。
「警備上も、その方がいい」
「では、上演順を入れ替えましょう」
校長先生がそう言って、予定表の二つの演目名を指で示した。
「月級三年『誓いの冠』を先に。陽級一年『姫と黒騎士』は、その後です」
こうして、上演順は変更された。
会議は次の議題へ進んだ。
「続いて、皇帝陛下をお迎えする準備についてです」
その言葉で、職員室の空気がさらに硬くなった。アンディアナ校長は、ゆっくりと扇を閉じた。
「それでは、明日のリハーサル、および本番に向けて、学院としての最優先目標を確認します」
職員たちの姿勢が、少しだけ正される。
「目標は一つ」
アンディアナ校長は、職員たちを見回した。
「とにかく、粗相のないこと!」
掲げられた目標は、あまりにも現実的だった。
「皇帝陛下の怒りに触れれば、あたくしのクビはもちろん、学院の存続だって危うくなるざます。よろしいですか。演目の出来も大切。生徒たちの成長も大切。けれど、それ以前に、粗相をしないこと!」
アンディアナ校長は、扇で机を軽く叩いた。
「目標、粗相をしないこと!」
職員たちは、誰からともなく頷いた。誰も笑わなかった。笑える内容ではなかった。
「まず、清掃です」
教頭が書類を読み上げる。
「明日の朝から、講堂、正面玄関、来賓用通路、控室、職員用廊下に清掃業者を入れます。通常の清掃では足りません。床、窓、手すり、扉、椅子、来賓席、すべて確認してください」
「花瓶の花も、全て新しく入れ替えるざます」
アンディアナ校長が続けた。
「古い花が一本でも残っていてはいけません。玄関、廊下、講堂、控室。陛下の目に入る可能性のある場所は、すべてです」
「花屋への追加発注は済ませています」
教頭が答える。
「よろしい」
校長は頷いた。
「次に、当日の出迎えについてです」
その言葉で、職員たちの何人かがわずかに視線を逸らした。アンディアナ校長は、その反応を見逃さなかった。
「あたくし一人では、少々、心細いざます。どなたか、共に出迎えに立っていただけませんか?」
職員室の空気が、ほんの少しだけ固まった。
皇帝陛下を出迎える。それは名誉な役目である。同時に、一歩間違えれば取り返しのつかない役目でもあった。
「ジークハルト先生」
アンディアナ校長が名を呼ぶ。
ジークハルト先生は、背筋を伸ばした。
「申し訳ありません。私は、軍隊式の挨拶しか知らないもので」
「軍隊式」
「はい。皇帝陛下の御前で、余計な緊張を生む恐れがあります」
言い方は丁寧だったが、断る意思ははっきりしていた。アンディアナ校長は、少しだけ困ったように扇を揺らした。
「では、どなたか他に」
校長の視線が職員室を巡る。しかし、目が合いそうになった教師たちは、それぞれ書類を見たり、咳払いをしたり、窓の外を見たりした。
誰も手を挙げない。
「……ヴァルク先生」
最後に、アンディアナ校長はヴァルク先生を見た。
ヴァルク先生は目を閉じて、しばらく腕組みをして黙っていた。それから、ゆっくりと目を開くと静かに頷いた。
「わしでよけりゃあ」
その一言で、職員室の空気が少しだけ緩んだ。
「助かるざます」
「ただ、一つ確認しちょきたいことがあるがです」
ヴァルク先生は、声の調子を変えずに言った。
「陛下の直衛として、エドワードが来るはずじゃ」
その名が出た瞬間、何人かの教師がわずかに反応した。
「エドワード卿、ですか」
教頭が聞き返す。
「はい」
ヴァルク先生は頷いた。
「陛下が学内行事を御観覧されるがやき、直衛が同行せんということは考えにくい。今回は、エドワード卿が就くと聞いちょります」
「ヴァルク先生は、エドワード卿と面識が?」
「あります」
短い答えだった。それだけで、余計な説明は不要だった。
「であれば、出迎えの場にヴァルク先生が立つ意味は大きいですね」
教頭が言った。アンディアナ校長も頷いた。
「では、出迎えは、あたくしとヴァルク先生で行うざます」
「承知しました」
ヴァルク先生は静かに答えた。
「本番当日の警備導線については、エドワードと確認しちょきます」
「お願いします」
アンディアナ校長は、深く息を吐いた。
「よろしいですか、皆さん。明日のリハーサルは、本番前の最後の確認です。ここで問題を洗い出し、本番では絶対に粗相のないようにするざます」
職員たちは、それぞれ頷いた。リハーサル時間の変更。清掃業者の手配。花瓶の花の入れ替え。出迎え役。皇帝陛下の直衛。確認すべきことは多かった。
それでも、会議は一つずつ進み、やがて終わった。誰もが、本番に向けて、できる限りの準備を整えようとしていた。
粗相のないように。
ただ、その目標だけは、全員が共有していた。だが、その翌日。
皇國歴1002年、覇竜11年、10月14日、天馬曜日。
リハーサル当日。
その事件は起きた。




