第五十一話 戸惑い
皇國歴1002年、覇竜11年、9月15日、白虎曜日。
新学期が始まってから、何日かが経っていた。送別会が終わり、お茶会にも参加した。だから、もう日常は戻ってきたのだと思う。
朝の教室には、いつもの音がある。椅子を引く音、教本を机に置く音、誰かが小さく笑う声、筆記具が紙を擦る音。けれど、全部が元通りになったわけではなかった。
ロイさんがいない。
あの人がいないだけで、オーレリアさんの近くが少し静かに見える。オーレリアさんはいつも通り手帳を開いているし、いつも通り何かを書いている。けれど、大きな声で彼女の名前を呼ぶ人がいない。それだけで、教室の空気が一つ抜けたみたいだった。
わたしは、そういうことを、ちゃんと考えようとしていた。でも、わたしの目は、すぐに窓際へ逃げた。
ヴァンさんが、窓の外を見ていた。いつもの席で、いつものように頬杖をついて、水晶湖の方を見ている。黒い髪が、窓から入る風で少しだけ揺れていた。
わたしは、それを見ていた。
たぶん、現実逃避だった。
教室の前では、学芸会の話が進んでいる。陽級の出し物は、もう演劇に決まっていた。学芸会まで、あと一か月しかない。ちゃんと聞いてなきゃ。そう思うのに、わたしはヴァンさんを見てしまっていた。
気になる男の子。
そう言ってしまうと、何かが決まってしまう気がして、心の中で少しだけ慌てる。でも、気になるのは本当だった。
ヴァンさんが何を見ているのか。何を考えているのか。あの時、レオナさんとした約束を、今も考えているのか。
レオナさんは、かわいい。
とてもかわいい。
儚くて、綺麗で、でもただ守られているだけの人ではなくて、ちゃんと自分の願いを持っている子だ。ヴァンさんが、レオナさんを大事にするのは分かる。レオナさんなら、ヴァンさんにお似合いだと思う。
だから、応援したい。
うん。
応援したい。
もし、そういうことなら、わたしはちゃんと身を引いて――
身を、引く?
そこで、わたしは止まった。
身を引く、とは。
わたしは今、どこから引こうとしたのだろう。そもそも、わたしは何かに立っていたのだろうか。
ヴァンさんとレオナさんを応援する。それはいい。あの二人なら、ロイさんとオーレリアさんみたいに、推せるカップルになると思う。それは、とてもいいことだと思う。なのに、胸の奥が少しだけ、きゅっとなった。
これは、もどかしい気持ちだ。ヴァンさんが何を考えているのか、ほとんど分からないから、それでもどかしい。
たぶん。
きっと。
そういうことなんだと思う。
「では、監督はオーレリアさんにお願いします」
アルフォンス先生の声で、わたしは現実に戻った。
「……え、私なのよぅ?」
オーレリアさんが、手帳を持ったまま目を瞬かせる。けれど、驚いていたのは一瞬だけだった。次の瞬間には、もう目が輝いていた。
「適任だと思う」
ハリスさんが静かに言った。
「記録も進行もできる。全体を把握するのにも向いている」
「私も、いいと思う。オーレリアなら、みんなのことをよく見てくれるから」
ハリエットさんがそう言うと、オーレリアさんは手帳を胸に抱えたまま、少しだけ頬を赤くした。
「そうですわね。粗雑に仕切られるよりは、ずっとよろしいですわ」
イネヴェアさんが扇を少しだけ開いて言う。
「粗雑って誰のこと?」
ローティさんが聞いた。
「心当たりがありますの?」
「ないけどさ」
「そこまで言われたら、仕方ないのよぅ」
仕方ない、と言いながら、オーレリアさんの声は嬉しそうだった。
アルフォンス先生が黒板の端に文字を浮かべる。
監督。
オーレリア・キルシュ。
その文字を見た瞬間、オーレリアさんの顔が変わった。いつもの記録係の顔ではなかった。もうすでに監督の顔だった。
「それでは、演目を決めるのよぅ。希望を集めるのよぅ。ただし、声の大きさで決めないのよぅ。私は監督なので、公平にいくのよぅ」
「声の大きさで決めたら、ローティになるしね」
ウォールさんが小さく言った。
「なら、俺有利じゃん」
「だから駄目なのよぅ」
オーレリアさんが即答したので、教室に笑いが起きた。けれど、すぐにあちこちから声が上がり始めた。
「宮廷劇がよろしいと思いますわ」
最初に声を通したのは、イネヴェアさんだった。
「学芸会ですもの。見栄えは大事です。姫、王宮、舞踏会、綺麗な衣装。舞台に立つ以上、華やかさは必要ですわ」
それに、女子たちの何人かが頷いた。
「姫はいいよね」
「衣装、作りがいがありそう」
「舞踏会の場面、綺麗かも」
イネヴェアさんは、当然ですわ、という顔で顎を上げた。すると、反対側でローティさんが勢いよく手を上げる。
「でもさ、劇なら戦うやつがいいだろ!」
男子たちの何人かが、すぐに反応した。
「勇者とか」
「剣士とか」
「魔物退治!」
「決闘!」
「それは、いささか乱暴ですわ」
イネヴェアさんが眉を寄せる。
「乱暴じゃなくて、派手なんだって。姫がずっと城で喋ってるだけじゃ、眠くなるだろ」
「喋っているだけとは言っていませんわ。宮廷劇にも、陰謀や恋や誇りがあります」
「剣がないじゃん」
「剣ばかり振り回して、何が楽しいのです」
「楽しいだろ!」
教室が、二つに割れた。
綺麗な衣装がいい、という声。強い剣士がいい、という声。姫がいい。勇者がいい。舞踏会。決闘。王宮。魔物。華やか。かっこいい。
わたしは、少しだけ圧倒されていた。演劇の演目を決めるだけで、こんなに皆の顔が変わるのだと思った。
イネヴェアさんは、ただ目立ちたいだけではない。綺麗な舞台を本気で作りたいのだと思う。ローティさんも、ただ騒いでいるだけではない。自分が面白いと思うものを、ちゃんと舞台に乗せたいのだと思う。どちらも楽しそうで、どちらも譲らない。
オーレリアさんは、その全部を手帳に書いていた。
「姫、王宮、舞踏会、衣装。勇者、剣士、魔物退治、決闘……」
書きながら、顔を上げる。
「ウォールさんは?」
「ぼくは、皆がやりやすい方でいいかな。商人の出世劇とか言ったら、父さんに見られた時に何か言われそうだし」
「ハリエットさんは?」
「私も、みんなが納得できるものがいいと思う。ただ、あまり怖すぎる話じゃない方がいいかな」
「ハリスさんは?」
「好みで決める気はない」
ハリスさんは短く言った。
「人数、準備期間、舞台転換、衣装、練習時間。その辺りで破綻してなければいい」
「それは後で全て検討するとして、今は演目なのよぅ」
オーレリアさんが手帳に線を引くと、また教室の声が重なった。
姫。勇者。王女。剣士。宮廷。冒険。
華やかさと、勇ましさ。
わたしは、それを聞きながら、もう一度だけ窓際を見た。
ヴァンさんは、まだ窓の外を見ていた。たぶん、半分くらい聞いていない。でも、時々、眉が少しだけ動く。聞いていないふりをしているだけなのかもしれない。
その時、ハリエットさんが小さく手を上げた。
「姫様のお話と、剣士のお話を、分けなくてもいいんじゃないかな」
声は大きくなかった。
でも、不思議と教室が少し静かになった。
「お姫様が出て、剣を持った人も出るお話なら、どちらの希望も入ると思う」
ローティさんが目を瞬かせる。
「姫と剣士?」
「うん」
「それなら戦える?」
「お話によるかな」
「衣装も綺麗にできますわね」
イネヴェアさんが少し考えるように扇を伏せた。オーレリアさんの筆記具が止まる。
「姫と剣士……」
その時、ハリスさんが口を開いた。
「それなら、近い話がある」
皆の目が、ハリスさんへ向いた。ハリスさんは少しだけ考えてから、静かに言う。
「姫と黒騎士の物語だ」
「黒騎士?」
ローティさんが身を乗り出した。
「勇者じゃなくて?」
「勇者ではない」
「剣士?」
「騎士だ。古い話で、実話が元になっているとも言われている」
それ以上、ハリスさんは語らなかった。
オーレリアさんが、すぐに聞く。
「どんなお話なのよぅ?」
「詳しくは知らない。題名と、大まかな流れだけだ」
「流れ?」
「姫と、黒い騎士が出る。戦いもあって、王宮の陰謀もある。それだけでも、今の条件には近い」
ハリスさんがそう言った時、アルフォンス先生が少しだけ笑った。
「ああ、その話なら、私も知っています」
教室の空気が、また少し変わる。
「先生も知っているんですの?」
イネヴェアさんが顔を上げた。
「ええ。かなり古い物語ですね。一般には、『黒騎士アルブレヒトと白百合姫の悲話』として知られています。地方によって細部は違いますが、五百年前、農園都市ノイエラグーネで起きた実話をもとにした話です」
「実話なの?」
ローティさんの声が少し明るくなる。
「もとは実話です。ただ、現在知られている物語には、後の時代に宮廷劇として創作された部分も多いですね」
アルフォンス先生は、穏やかに訂正した。
「ですが、姫君、騎士、宮廷、剣戟。舞台向きの要素は揃っています。陽級で扱うには、悪くない題材でしょう」
オーレリアさんの目が光った。
「……それなのよぅ」
その声は、さっきより低かった。監督の声だった。
「姫と黒騎士。宮廷もある。衣装も映える。剣の場面も入れられる。役も増やせるのよぅ」
「黒騎士なら、かっこいいじゃん!」
ローティさんが言う。
「姫が中心なら、舞台としても美しいですわ」
イネヴェアさんも、今度は反対しなかった。女子たちも、男子たちも、少しずつ頷き始める。わたしは、その言葉を心の中で繰り返した。
白百合姫と黒騎士。悲話。
何だか、少しだけ胸に引っかかる題目だった。綺麗で、怖くて、寂しい感じがする。
オーレリアさんは手帳を閉じ、黒板に大きく題名を書いた。
黒騎士アルブレヒトと白百合姫の悲話。
けれど、全部書いてみると、さすがに長かった。オーレリアさんは少し考えてから、独断で削った。
姫と黒騎士。
「では、演目はこれで決まりなのよぅ」
反対の声は出なかった。
決まった。
陽級は、学芸会で『姫と黒騎士』を演じることになった。
その瞬間、教室の空気が少しだけ浮いた。まだ何も始まっていないのに、何かが始まったような感じがした。
アルフォンス先生が、大まかなストーリーを紙に書いてオーレリアさんに渡した。
「それで」
それを読んだ後、オーレリアさんが、改めて手帳を開いた。
「まず、黒騎士役は誰がやるのよぅ?」
「俺!」
ローティさんが、ほとんど同時に手を上げた。何も考えてない。脊髄反射だと思う。
「俺やりたい! 黒騎士だろ? 剣で戦うんだろ? 絶対俺向きじゃん!」
「いや。ヴァンが適任だと思う」
ハリスさんが、静かに言った。
教室の空気が、一拍止まった。
それから、あちこちで声が上がる。
「たしかに」
「ヴァンだな」
「黒騎士なら、ヴァンさんなのよぅ」
「似合いますわね」
「うん、似合うと思う」
「えーー!?」
ローティさんが椅子から半分立ち上がった。
「なんで!? 俺、今、立候補したじゃん!」
「立候補と適任は別だ」
ハリスさんが言った。
「ひどくない!?」
わたしは、思わず窓際を見た。
ヴァンさんは、まだ窓の外を見ていた。たぶん、話を半分も聞いていなかったのだと思う。
けれど、教室中の視線が集まったことで、ようやくこちらを向いた。
「……は?」




