第五話 ヴァン
朝の教室は、いつもより少しだけ落ち着かなかった。
ヴァンは、最後尾右側の窓際の席にいた。
窓の外には、水晶湖が見える。
朝の光を受けた湖面は、白く細かく揺れていた。
その向こうに古き影の森があり、さらに遠く、青灰色の石の背山脈の尾根が薄く連なっている。
七湖の一つ。
そう呼ばれる湖は、この地域に七つある。
七聖という名は、いくつかの歴史を持っていた。
勇者ルマンドとその仲間達も、後の世には七聖と呼ばれた。
けれど、その名はさらに古い。
アーダル初代皇帝と共に建国に尽くした七人の英雄。
七聖剣。
およそ千年前、その七人には、この地域の七つの湖が、それぞれ別荘領地として与えられたという。
この湖を預かったのは、エルフの戦将ガウアホロン・フォルディゲール。
今もなお生きるというその古い戦士は、約四百年前、聖皇時代にこの地を学舎として寄贈した。
だから、七聖学院。
ミコトが見れば、ただ知らない湖と遠い山だっただろう。
けれどヴァンにとっては、名前と由来のある景色だった。
もっとも、今さら見入るほどのものでもない。
窓硝子には、外の景色に重なるように、自分の顔が薄く映っていた。
手入れも適当な黒い髪。
少し眠そうに見える目元。
よれても平気な制服の襟。
いつも通りの冴えない顔だった。
少なくとも、そう見えた。
前の方では、オーレリアが手帳を開いたり閉じたりしている。
ハリエットは何度も扉の方を見ていた。
ウォールは、欠伸をかみ殺している。
ローティに至っては、完全に居眠りをしている。
ハリスが、ヴァンの机の横に来た。
「昨日の溺れていた娘、学院に通うらしいぞ」
ヴァンは窓の外を見たまま、短く返した。
「そうか」
「聞いていたか?」
「今聞いた」
「だよな……」
やがて、教室の扉が開いた。
入ってきたのは、アルフォンス先生だった。
つばの広い帽子は、今日は手に持っている。
片眼鏡の奥の目は、いつも通り穏やかだった。
その後ろに、少女がいた。
昨日の娘だった。
借り物らしい学院服を着ている。
まだ身体に馴染んでいないのか、袖口を少し気にしていた。
黒い髪は乾いていて、眼鏡の奥から黒い目が教室の中を見ている。
教室の声が、小さく止まった。
ヴァンは、少女を見た。
ただ、それだけだった。
アルフォンス先生が教壇の前に立つ。
「皆さん、少しだけお時間をいただきますよ」
柔らかい声だった。
柔らかいのに、不思議と教室は静かになる。
「今日から、こちらで共に学ぶことになりました」
アルフォンス先生は、少女へ半歩だけ場所を譲った。
「和之国から来られた留学生です。名前は、ミコト・サトーさん」
教室の中に、小さな揺れが走った。
和之国。
留学生。
ミコト・サトー。
その三つが並んだだけで、見る目が少し変わる。
フェルトンが椅子をきしませて、身体を少し前へ傾けた。
オーレリアの筆記具が、手帳の上で止まる。
ハリエットは安心したように息を吐いた。
ハリスは教室全体の反応を見ている。
イネヴェアは、背筋を伸ばしたまま、少女を見ていた。
値踏みするような目ではあった。
だが、ただの好奇心ではない。
家格。
振る舞い。
言葉遣い。
この教室の中で、その子をどう扱うべきか。
そういうものを測る目だった。
ヴァンは、それを横目で見た。
面倒そうだ、と思った。
アルフォンス先生が、ミコトへ視線を向ける。
「では、ミコトさん。ご挨拶を」
少女は一度、小さく息を吸った。
教壇の前に立つには、少し小さい。
緊張しているのは分かった。
けれど、逃げる様子はない。
「ミコト・サトーです」
声は、少し硬かった。
それでも、聞こえる声だった。
「まだ分からないことが多いので、ご迷惑をかけるかもしれません。よろしくお願いします」
そう言って、少女は頭を下げた。
深すぎず、浅すぎない礼だった。
教室の何人かが、少し意外そうにした。
昨日、湖から上がったばかりの娘。
今日、和之国から来た留学生として立っている娘。
その二つは、きれいには重ならない。
ヴァンは、そう思った。
だが、何も言わなかった。
アルフォンス先生が満足げに頷く。
「ありがとうございます。皆さんも、分からないことは助けてあげてください。もっとも、必要以上に取り囲むのは感心しませんよ」
最後の一言に、オーレリアが少しだけ目を逸らした。
アルフォンス先生は気付いていたのか、気付いていないのか、穏やかなままだった。
「席は、そちらへ」
示された先は、教室の最後尾、ヴァンの隣だ。
ヴァンは、窓の外へ視線を移した。
少女がこちらへ歩いてくる。
教室中の視線が、その背を追った。
ハリエットが声を掛けたそうにしている。
オーレリアは完全に何か聞きたそうだった。
ローティは面白がっている。
ウォールは少しだけ姿勢を正した。
ミコト・サトーは、最後尾まで来た。
ヴァンの隣の席で立ち止まる。
それから、小さく会釈した。
「……よろしくお願いします」
ヴァンは、ほんの少し目線をやったが、直ぐに戻した。
「…あぁ」
椅子の脚が、床を小さく鳴らす。
面倒に関わるつもりはなかった。
面倒がなくても、この少女に関わるつもりはない。
そもそも、この教室でハリス以外の他人に関わるつもりは、全くない。
ただ、隣に座った少女が、まだ少し緊張したまま背筋を伸ばしていることだけは分かった。
教室の空気は、すぐには戻らなかった。
前の方で、イネヴェアがまだこちらを見ている。
正確には、ヴァンではない。
ミコトを見ていた。
背筋を伸ばし、膝の上で指を揃え、何かを言う時機を測っている。
ハリスが、面倒そうに息を吐いた。
ハリエットが少し心配そうにする。
オーレリアは、もう手帳を開いていた。
ヴァンは、窓の外を見たまま、隣の気配だけを聞いていた。
関わるつもりはない。
アルフォンス先生が口を開いた。
「では、今日の授業を始めます」




