第四話 ミコト・サトー
「……はい?」
ミコトは、顔を上げた。
アルフォンスは穏やかに微笑んでいる。
片眼鏡の奥の目は、細く、柔らかい。
けれど今、その柔らかさよりも、呼ばれた名前の方が大きかった。
ミコト・サトー。
ミコトは、自分の名前しか言っていない。
少なくとも、桟橋でも、この医務室でも、そこまでは口にしていない。
「どうして……」
声が、思ったより小さく出た。
「どうして、それを知っているんですか」
「神のお告げです」
アルフォンスは、少しも困った様子なく言った。
ミコトは返事に詰まった。
神のお告げ。
知らない場所で、知らない学院にいて、知らない文字と知らない言葉を聞いたあとでは、何を言われてもおかしくない気がした。
それでも、目の前の男があまりに自然に言うので、逆に困った。
つばめが、横で小さく息を吐いた。
「……また心を読んだのね?」
「いえいえ、読んでいませんし、読めませんよ」
アルフォンスは、さらりと返した。
ミコトは思わず肩を強張らせた。
心を読んだ。
その言葉だけが、妙にはっきり耳に残る。
けれどアルフォンスは、ミコトの方を見て微笑んだだけだった。
胸の内を言い当てることもない。
こちらが今、何を怖がったのかに踏み込んでくる気配もない。
どうやら、本当に心を読んでいるわけではないらしい。
それなら、ただ、とても洞察力が高い人なのだろうか。
それとも。
神のお告げというのは、本当なのだろうか。
「さて」
アルフォンスは、帽子を片手に持ったまま、寝台の側へ椅子を寄せた。
「いくつか確認させてください。答えられないことは、答えなくて構いません」
その声は柔らかい。
けれど、どこか手順が決まっているようでもあった。
「あなたは和語を話せる。けれど、和之国の地理や歴史は分からない。そうですね?」
ミコトは、少しだけ迷ってから頷いた。
「和之国という場所を、私は知りません」
「でしょうね」
アルフォンスが頷く。
つばめが何か言いかけた。
だが、その前にアルフォンスが続ける。
「つばめさん。同じ和之国の者かもしれない子なら、できるだけ助けてあげたい。あなたはそう考えるでしょう」
つばめの口が、そこで止まった。
少しだけ、目が細くなる。
「……本当に、心を読んでいないのよね?」
「読めませんとも」
アルフォンスは涼しい顔で言った。
「ただ、あなたがそういう人だと知っているだけです」
つばめは、呆れたように眉を下げた。
けれど、それ以上は言わなかった。
アルフォンスはミコトへ視線を戻す。
「まず、安心してよいことから伝えましょう。あなたに邪性はありません」
「じゃせい」
「ここに害をなすものではない、という意味です」
それだけ言うと、アルフォンスは深く説明しなかった。
ミコトには、その言葉の全部は分からない。
けれど、少なくとも自分が敵のように見られているわけではないのだと、それだけは分かった。
「ですが、困ったこともあります」
アルフォンスは、少しだけ声を落とした。
「あなたには、身元を証明するものがない。帰る先も、こちらでは確認できない。だから、このままでは学院に置くことも、外へ出すことも難しい」
ミコトは膝の上で手を握った。
言われて、初めて分かる。
ここにいることにも、きっと理由が要る。
助けてもらうことにも、何かの形が要る。
「ミコトさん」
アルフォンスの声は、急がせなかった。
「行く所はありますか?」
ミコトは、答えようとして、止まった。
帰らなければならない場所は、ある気がする。
けれど、それをここでどう示せばいいのか分からなかった。
ここから行ける場所としては、何もない。
「……ない、です」
「助けてくれる人はいますか?」
ミコトはまた、少し黙った。
水の中。
強く掴まれた手首。
誰かが、確かに引いてくれた。
「落ちた時に……助けてくれた人は、いた気がします」
「はい」
「でも、誰かは分かりません。今、どこにいるのかも」
「では、今すぐ頼れる人はいない」
ミコトは小さく頷いた。
「いません」
アルフォンスは、それを責めなかった。
「やりたいことはありますか?」
「やりたいこと……」
ミコトは言葉を繰り返した。
帰りたい。
そう言うべきなのだと思った。
でも、帰り方が分からない。
そもそも、何が起きたのかも分からない。
泣きたいのか、怖いのか、眠いのかも、うまく分からない。
「……分かりません」
「では」
アルフォンスは、少しだけ間を置いた。
「ここで学んでみますか?」
ミコトは顔を上げた。
「いいの?」
敬語が抜けた。
自分でも気付いて、少しだけ口を閉じる。
アルフォンスは気にしなかった。
「はい」
その返事は、静かだった。
「少なくとも、今のあなたには、休む場所と、言葉を学ぶ場所と、自分がどこにいるのかを知る時間が必要です」
つばめが、今度は何も言わなかった。
ただ、ミコトの側に立っている。
「では、この学院に入学しましょう。いいですか?」
ミコトはすぐには返事をしなかった。
学院。
まだ、ほとんど何も知らない場所だ。
知らない部屋。
知らない文字。
知らない先生。
知らない子供達。
それでも、ここには白いシーツがあった。
濡れた服を乾かしてくれる人がいた。
体操服を貸してくれる子がいた。
怖がらなくていいと言ってくれる人がいた。
ほかに行く所はない。
助けてくれる人も、今はここにしかいない。
ミコトは、ゆっくり頷いた。
「……は、はい」
アルフォンスは、穏やかに頷き返した。
「分かりました。では、そのように」
それから、まるで明日の天気を決めるような声で言った。
「明日の朝までに、必要な文書を整えておきます」
「文書……?」
「和之国から来た、貴族階級の留学生。学院への入学予定者。到着早々に湖で事故に遭い、少し混乱している」
アルフォンスは、一つずつ並べた。
「あなたは、そういうことになります」
そういうこと。
ミコトは、その言葉を胸の中で繰り返した。
本当ではない。
たぶん、今聞かされたものの多くは、本当ではない。
けれど、その嘘がなければ、ここにいることもできないのだろう。
「名前は、ミコト・サトー」
アルフォンスは帽子を持つ手を軽く胸に添えた。
「今から、あなたは学院生徒です」




