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緋鋼皇国物語 第一部 七聖学院編  作者: ふみの世界樹
第一章 つないだ手

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第四話 ミコト・サトー


「……はい?」


 ミコトは、顔を上げた。


 アルフォンスは穏やかに微笑んでいる。

 片眼鏡の奥の目は、細く、柔らかい。


 けれど今、その柔らかさよりも、呼ばれた名前の方が大きかった。


 ミコト・サトー。


 ミコトは、自分の名前しか言っていない。

 少なくとも、桟橋でも、この医務室でも、そこまでは口にしていない。


「どうして……」


 声が、思ったより小さく出た。


「どうして、それを知っているんですか」


「神のお告げです」


 アルフォンスは、少しも困った様子なく言った。


 ミコトは返事に詰まった。


 神のお告げ。


 知らない場所で、知らない学院にいて、知らない文字と知らない言葉を聞いたあとでは、何を言われてもおかしくない気がした。

 それでも、目の前の男があまりに自然に言うので、逆に困った。


 つばめが、横で小さく息を吐いた。


「……また心を読んだのね?」


「いえいえ、読んでいませんし、読めませんよ」


 アルフォンスは、さらりと返した。


 ミコトは思わず肩を強張らせた。


 心を読んだ。


 その言葉だけが、妙にはっきり耳に残る。


 けれどアルフォンスは、ミコトの方を見て微笑んだだけだった。

 胸の内を言い当てることもない。

 こちらが今、何を怖がったのかに踏み込んでくる気配もない。


 どうやら、本当に心を読んでいるわけではないらしい。


 それなら、ただ、とても洞察力が高い人なのだろうか。

 それとも。


 神のお告げというのは、本当なのだろうか。


「さて」


 アルフォンスは、帽子を片手に持ったまま、寝台の側へ椅子を寄せた。


「いくつか確認させてください。答えられないことは、答えなくて構いません」


 その声は柔らかい。

 けれど、どこか手順が決まっているようでもあった。


「あなたは和語を話せる。けれど、和之国の地理や歴史は分からない。そうですね?」


 ミコトは、少しだけ迷ってから頷いた。


「和之国という場所を、私は知りません」


「でしょうね」


 アルフォンスが頷く。


 つばめが何か言いかけた。


 だが、その前にアルフォンスが続ける。


「つばめさん。同じ和之国の者かもしれない子なら、できるだけ助けてあげたい。あなたはそう考えるでしょう」


 つばめの口が、そこで止まった。


 少しだけ、目が細くなる。


「……本当に、心を読んでいないのよね?」


「読めませんとも」


 アルフォンスは涼しい顔で言った。


「ただ、あなたがそういう人だと知っているだけです」


 つばめは、呆れたように眉を下げた。

 けれど、それ以上は言わなかった。


 アルフォンスはミコトへ視線を戻す。


「まず、安心してよいことから伝えましょう。あなたに邪性はありません」


「じゃせい」


「ここに害をなすものではない、という意味です」


 それだけ言うと、アルフォンスは深く説明しなかった。


 ミコトには、その言葉の全部は分からない。

 けれど、少なくとも自分が敵のように見られているわけではないのだと、それだけは分かった。


「ですが、困ったこともあります」


 アルフォンスは、少しだけ声を落とした。


「あなたには、身元を証明するものがない。帰る先も、こちらでは確認できない。だから、このままでは学院に置くことも、外へ出すことも難しい」


 ミコトは膝の上で手を握った。


 言われて、初めて分かる。


 ここにいることにも、きっと理由が要る。

 助けてもらうことにも、何かの形が要る。


「ミコトさん」


 アルフォンスの声は、急がせなかった。


「行く所はありますか?」


 ミコトは、答えようとして、止まった。


 帰らなければならない場所は、ある気がする。

 けれど、それをここでどう示せばいいのか分からなかった。


 ここから行ける場所としては、何もない。


「……ない、です」


「助けてくれる人はいますか?」


 ミコトはまた、少し黙った。


 水の中。

 強く掴まれた手首。

 誰かが、確かに引いてくれた。


「落ちた時に……助けてくれた人は、いた気がします」


「はい」


「でも、誰かは分かりません。今、どこにいるのかも」


「では、今すぐ頼れる人はいない」


 ミコトは小さく頷いた。


「いません」


 アルフォンスは、それを責めなかった。


「やりたいことはありますか?」


「やりたいこと……」


 ミコトは言葉を繰り返した。


 帰りたい。


 そう言うべきなのだと思った。

 でも、帰り方が分からない。

 そもそも、何が起きたのかも分からない。


 泣きたいのか、怖いのか、眠いのかも、うまく分からない。


「……分かりません」


「では」


 アルフォンスは、少しだけ間を置いた。


「ここで学んでみますか?」


 ミコトは顔を上げた。


「いいの?」


 敬語が抜けた。


 自分でも気付いて、少しだけ口を閉じる。


 アルフォンスは気にしなかった。


「はい」


 その返事は、静かだった。


「少なくとも、今のあなたには、休む場所と、言葉を学ぶ場所と、自分がどこにいるのかを知る時間が必要です」


 つばめが、今度は何も言わなかった。


 ただ、ミコトの側に立っている。


「では、この学院に入学しましょう。いいですか?」


 ミコトはすぐには返事をしなかった。


 学院。


 まだ、ほとんど何も知らない場所だ。


 知らない部屋。

 知らない文字。

 知らない先生。

 知らない子供達。


 それでも、ここには白いシーツがあった。

 濡れた服を乾かしてくれる人がいた。

 体操服を貸してくれる子がいた。

 怖がらなくていいと言ってくれる人がいた。


 ほかに行く所はない。


 助けてくれる人も、今はここにしかいない。


 ミコトは、ゆっくり頷いた。


「……は、はい」


 アルフォンスは、穏やかに頷き返した。


「分かりました。では、そのように」


 それから、まるで明日の天気を決めるような声で言った。


「明日の朝までに、必要な文書を整えておきます」


「文書……?」


「和之国から来た、貴族階級の留学生。学院への入学予定者。到着早々に湖で事故に遭い、少し混乱している」


 アルフォンスは、一つずつ並べた。


「あなたは、そういうことになります」


 そういうこと。


 ミコトは、その言葉を胸の中で繰り返した。


 本当ではない。


 たぶん、今聞かされたものの多くは、本当ではない。

 けれど、その嘘がなければ、ここにいることもできないのだろう。


「名前は、ミコト・サトー」


 アルフォンスは帽子を持つ手を軽く胸に添えた。


「今から、あなたは学院生徒です」

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