閑話休題3 第二話 送別会
ロイさんの最後の挨拶は、思っていたよりも、ずっときちんとしていた。
教室の前に立ったロイさんは、いつものように堂々と胸を張っていた。赤い髪が、窓から入る午後の光を受けて、少しだけ明るく見える。声も大きい。けれど、その大きさは、食堂や秘密基地で聞く勢い任せのものとは違って、少しだけ大人びていた。
「短い間だったが、世話になった」
ロイさんは、教室全体を見て言った。
「体験入学という形ではあったが、ここで過ごした時間は、とても楽しかった。授業も、食堂も、秘密基――」
そこで、ハリスさんが小さく咳払いをした。
「……いろいろな場所での経験も、忘れない」
言い直した。何人かが笑った。わたしも笑ってしまった。
オーレリアさんは、前の席で手帳を抱えている。いつもなら、こういう時は真っ先に記録しているはずなのに、今日はまだ筆記具を持ってすらいなかった。
ロイさんは、少しだけオーレリアさんを見た。
「特に、オーレリア」
「ロイ様」
オーレリアさんの声が、少しだけ慌てた。
「君と同じ学院で過ごせて、本当に嬉しかった」
「……ここで言わなくてもいいのよぅ」
「ここで言う」
「だから、そういうところなのよぅ」
困っている声だった。でも、嫌そうではなかった。相変わらずロイさんは、真っ直ぐだ。眩しくなる。
ロイさんは、また教室の方へ向き直った。
「皆、ありがとう。また会おう」
そう言って、きちんと頭を下げた。
拍手が起きた。わたしも手を叩いた。ロイさんの体験入学は、今日で終わる。そう思うと、胸の奥が少し変な感じになった。わたしがこの学院に来てから知った人が、一人、ここから離れていく。いなくなるわけではない。手紙もあるし、また会えるのだと思う。
でも、明日からこの教室にロイさんはいない。これはちょっと寂しい。
「では、放課後までに荷物をまとめておくように」
アルフォンス先生が穏やかに言った。
「別れを惜しむのは構いませんが、廊下を塞がないように。特に、勢いのある方々は」
ローティさんが、自分ではないという顔をした。ウォールさんが、すぐに横から言う。
「君のことだよ」
「え、俺なの?」
「他に誰がいるの」
ロイさんが笑った。その笑い声を聞いて、オーレリアさんがやっと手帳を開いた。
けれど、少し手が遅い。
いつものオーレリアさんなら、ロイさんの挨拶は一言も逃さないように素早く全力で書いていたはずだった。
*
放課後になっても、ロイさんはすぐには帰らなかった。いや、帰れなかった。
ローティさんが、にこにこしながらロイさんの前に立つ。
「ロイ、最後にまた一局やろうぜ」
「また皇國将棋か」
「そうそう。今日こそは負けない」
「その言い方は、勝つ気がないようにも聞こえるぞ」
「うーんと、あれだ。負けなければ、勝てるかもしれない」
「それも一理あるな。最近の君は粘りがある」
ロイさんは頷いた。ローティさんは、ちらりとこちらを見た。その顔が、少しだけ得意そうだったので、わたしは小さく頷きを返しておいた。ちゃんと、足止めしてくれている。
その間に、わたし達は秘密基地へ向かった。用務員室の奥の倉庫。最初は本当にただの古びた倉庫だったのに、今はもう、少しだけわたし達の場所になっている。机の上には、布が敷かれていた。揃っていない椅子も、今日はちゃんと円になるように置かれている。皿はばらばらだけど、きれいに拭かれていた。お菓子は、高そうなものではない。でも、数はある。ロイさんなら、きっと喜ぶ。
みんなで飾り付けの準備を終えた後、ハリエットさんが、最後に小さな花を置いた。
「これで、大丈夫かな」
「大丈夫だと思います」
わたしは答えた。
オーレリアさんは、机の端に立ったまま、両手で包みを持っている。薄い紙で包まれた、小さな冊子。わたしも少しだけ手伝ったけれど、ほとんどはオーレリアさんが作ったものだ。
ロイさんが体験入学で過ごした日の記録。授業のこと。秘密基地のこと。皇國将棋のこと。ルナが盤を崩したこと。剣の勝負のこと。食堂でのこと。皆の一言。
記録だけではなく、贈り物になっていた。
「大丈夫です」
わたしはもう一度言った。
「きっと、喜んでくれます」
オーレリアさんは、少しだけ頷いた。
「そうだと、いいのよぅ」
その時、扉の向こうから足音がした。ローティさんの声がする。
「こっちこっち」
「なぜ用務員室なんだ?」
「いいからいいから」
「怪しいな」
「怪しくないって」
「怪しい時ほど、怪しくないと言う」
扉の前で、一度足音が止まった。中の全員が息をひそめる。
ヴァンさんが扉の横に立っていた。いつもの顔で、何も言わずに取っ手へ手をかける。ローティさんの声が、もう一度聞こえた。
「はい、どうぞ!」
扉が開いた。
「ロイ君、体験入学お疲れさまでした!」
ハリエットさんの声に続いて、皆で声を重ねた。クラッカーを鳴らし、紙吹雪を浴びせる。
「お疲れさま!」
ロイさんは、入口で止まった。本当に止まった。赤い目が、机の上のお菓子を見て、布を見て、椅子を見て、わたし達を見て、それからオーレリアさんのところで止まる。
「これは」
声が、少しだけ小さかった。
「送別会です」
ハリエットさんが言った。
「ロイ君に、ありがとうを言う会です」
「僕に?」
「はい」
ロイさんは、少しだけ瞬きをした。いつもなら、すぐ大きな声で喜びそうなのに、今日はすぐには声が出なかった。
オーレリアさんが、一歩前に出る。
「ロイ様」
包みを差し出した。
「これを」
「オーレリア?」
「体験入学の記録です。私から……いえ、皆からです」
ロイさんは、両手でそれを受け取った。紙を破らないように、慎重に包みを開く。中から冊子が出てきた。表紙には、オーレリアさんの字で、こう書かれている。
『ロイ様 七聖学院体験入学記録』
ロイさんは、表紙を見たまま、しばらく動かなかった。
「……全部、書いたのか」
「全部ではないのよぅ」
オーレリアさんは、少しだけ目を伏せた。
「書ききれなかったことも、あるのよぅ」
「そうか」
ロイさんは、そっと冊子を開いた。
最初のページ。
そこには、ロイさんが秘密基地へ飛び込んできた時のことが書かれていた。
次のページには、皇國将棋の盤面の簡単な図と、ルナの足跡みたいな小さな絵がある。
ローティさんが笑った。
「そこ、俺の活躍も書いてある?」
「うるさかったことは書いてあるのよぅ」
「活躍じゃない?」
「記録よぅ」
ロイさんはページをめくった。剣の勝負のところで、少しだけ手が止まる。そこには、ヴァンさんの名前もあった。ヴァンさんは壁際に寄りかかって、何も言わない。
ロイさんが顔を上げた。
「ヴァン」
「何だ」
「また勝負しよう」
「いいぞ」
短いやり取りだった。それだけなのに、ロイさんは嬉しそうに笑った。
それから、最後の方のページを見て、目を細めた。
そこには、皆からの一言が並んでいた。
ハリエットさんの丁寧な文字。
ハリスさんの短く整理された文字。
ローティさんの大きくて元気な文字。
ウォールさんの少し遠慮がちな文字。
ヴァンさんの、短すぎる文字。
そして、わたしの文字。
わたしは、少しだけ恥ずかしくなった。何を書けばいいか分からなくて、結局こう書いた。
『また、遊びに来てください。待っています』
普通すぎたかもしれない。でも、ロイさんはその行を見て、ちゃんと頷いてくれた。
「来る」
はっきり言った。
「必ず来る」
それから、オーレリアさんを見た。
「オーレリア」
「はい」
「これは、宝物にする」
オーレリアさんの指が、手帳の表紙をぎゅっと押さえた。
「大げさなのよぅ」
「大げさではない」
「紙なのよぅ」
「君が書いた紙だ」
オーレリアさんは、返事に困った顔をした。でも、耳が少し赤かった。わたしは、それを見て、胸が少しあたたかくなった。この二人はずっと推していこう。
送別会は、そこからは少しだけ賑やかになった。ロイさんはお菓子をよく食べた。
ウォールさんが「やっぱり量にして正解だった」と小さく言うと、ハリスさんが「同意する」と真面目に頷いた。
ローティさんは、自分も食べようとして、ハリエットさんに「ロイ君の分だからね」と止められていた。
ヴァンさんはあまり喋らなかったけれど、ロイさんに菓子の皿を渡していた。
ルナは机の下を歩き、ロイさんの足元で一度だけ鳴いた。
「ルナも見送りに来てくれたのか」
「多分、お菓子の匂いだ」
ハリスさんがそう言うと、ロイさんは真剣に頷いた。
「それでも光栄だ」
少し笑ってしまった。
時間は、思っていたより早く過ぎた。最後に、ロイさんは冊子を胸に抱えた。
「皆、ありがとう」
今度の声は、教室での挨拶よりも少しだけ近かった。
「ここで過ごせてよかった。また必ず来る」
皆が頷いた。
オーレリアさんは、手帳を開いていなかった。
記録していない。
ただ、ロイさんを見ていた。
そのことが、今日の中で一番、記録に残したいことのように思えた。
わたしは小さく息を吸って、手を振った。
「また、来てくださいね」
「ああ」
ロイさんは笑った。
「また来る」
その言葉は、さっき教室で聞いた「また会おう」よりも、ずっと確かなものに聞こえた。




