第五十話 やくそく
夜明け前。
グレーヴェン・ロスシルトは、公城のバルコニーから城下町を見下ろしていた。
広い平野の真ん中。周囲を茶畑に囲まれた城塞都市。シュティレン・ヒューゲルの空は、まだ青く染まり始めたばかりで、山の稜線は黒く、遠い雲の腹だけが、わずかに鉛色を帯びている。だが、堀向こうに広がる街並みは、眠りを忘れていた。石造りの大通りには、魔導灯が規則正しく並び、淡い光の列が、縦横無尽に続いてる。
その灯の間を切り裂くように、東から西へと城下町を横断して走り抜けて行く蒼白い閃光。その重い響きが、まだ暗い街の底を渡っていく。
皇國鉄道。
鋼鉄の車輪が、軌条を叩く。機関車の煙突から、白い蒸気が噴き上がった。駅舎の屋根を越え、鉄橋の上を流れ、工房街の煙突から立ち昇る幾筋もの水蒸気と重なって、街の上に薄い霧の層を作っている。
蒸気の街だった。古い城壁と、魔導技術革命時代の鉄道、それらが同じ土地の上にあり、尖塔の影と、工場の煙突が同じ空へ伸びている。
遠ざかる列車の光を、グレーヴェン大公は目を細めて見送った。
彼は老いてなお大きな男だった。灰銀の髪を後ろへ流し、額には歳相応の深い皺が刻まれている。厚い眉の下にある目は鋭く、整えられた口髭と豊かな顎髭は、老境に入った男の風格を、むしろ威厳へと変えている。
身体にはいくらか年相応の厚みがある。だが、弛んだ老人のそれではない。広い肩、重い胸板、杖に添えられた手の大きさには、かつて鎧をまとい、戦場に立った者だけが持つ独特の名残があった。貴族の礼装に身を包んでいても、その奥に眠る武人の真髄は隠せない。
黒と深紫を基調とした外套は、肩口に黒い毛皮をあしらい、縁には金糸の刺繍が走っている。胸元には勲章と鎖飾りが重なり、白い襟布には紫の宝石を抱いた留め具が光る。腰には儀礼剣。右手には白手袋。金装飾の杖を握る姿は、ただの老貴族ではなく、一つの街、一つの家、一つの歴史を背負う支配者そのものだった。
その彼が見下ろす城下町は、ロスシルト家が築き、幾代もの大公が守り、増やしてきた富と技術と血脈の都だった。
「大公殿下、お時間です」
衛兵に呼ばれたグレーヴェン大公は、手すりに置いていた手をゆっくりと離す。
老いた指は太く、節ばっていた。剣を握った手であり、契約書へ署名してきた手であり、膨大な領地と財貨と人民の命、その重さを受け止めてきた領主の手だった。
だが、その手が、ほんの少しだけ震えていた。
グレーヴェン大公は、街に背を向けた。厚い石壁に囲まれた天守の広間へ戻る。高い天井は、陽が昇れば空間を虹色の反射で飾る採光用の窓が並ぶ。本来であれば玉座のあるべき広間中央の壇上には、硝子の棺が置かれていた。
その棺の中で、レオナは眠っている。
薄桃を帯びた白金の髪が、枕の上に静かに広がっている。細い睫毛は伏せられ、頬は白く、唇の色も薄い。ただ、深く。時間の外へ、そっと置かれたように。まるで死んだかのように眠っている。
胸元で丁寧に組まれた小さな手には、七聖学院で受け取った組紐の付いた小さな猫のマスコットが添えられていた。
グレーヴェン大公は、棺の側へ歩み寄った。
「レオナ」
呼びかけても、返事はない。
分かっていた。
分かっていても、彼は孫娘の名を呼ばずにはいられなかった。
棺の周囲には、錬金術の環、魔導冷却管、圧力計、温度計、銀線と丨白金線の刻印、魔石を収めた制御柱が並んでいる。複雑に組み上げられたそれらは、この棺が単なる棺ではなく、特殊な装置である事を示していた。
生かすための棺。
未来へ送るための眠り。
死を先延ばしにするだけの装置。
技師達が、各部各数値の確認を終え、一人の男に報告をする。白衣の上に、濃い外套を羽織ったその男は、癖のある髪を後ろへ流し、片眼鏡の奥で、眠るレオナの装置を見ていた。
ダグラス。
レオナの錬金術の家庭教師であり、この装置を造った男だった。彼が最終確認をして頷くと、低い鐘の音が、広間に一つ落ちた。
「密閉を開始します」
技師の誰かが言った。
大公は答えなかった。
鋼鉄の蓋が、ゆっくりと降りてくる。
厚い硝子の上を、さらに重い鋼鉄が覆っていく。歯車が回り、鎖が軋み、封印環が一つずつ噛み合う音がした。
かちり。
かちり。
かちり。
小さな音が重なっていくたびに、レオナの眠りが、この世界から遠くなる。
最後の留め具が閉じて、装置は、完全に密閉された。
大公は、しばらく動かなかった。
いや、動けなかった。己の無力感と無念を噛み締めながら、再会できるかも分からぬ孫娘の眠る重厚な棺を、ただ見つめていた。
「殿下、終わりましたぞ。現時点で、できることはすべて」
ダグラスは、いつもの調子でそう言った。
軽い声だった。
だが、その軽さがなければ、この広間の空気は重すぎて息が詰まりそうだった。
「まさか、同じ装置を二基も造ることになるとは思いませんでしたが」
ダグラスは、別室の方へと視線を向けながら、少し大袈裟に両肩を竦めた。
「チャミーは、迷わなかったか」
「まったく」
ダグラスは首を振る。
「むしろ、こちらが確認するたびに怒られましたよ。『レオナ様をおひとりで眠らせるつもりですか』と」
大公の口元が、かすかに動いた。
「そうか」
「見事な侍女です」
「ああ」
大公は、短く答えた。
「見事だ」
それきり、少しの間、二人とも黙った。
広間の奥で、装置の低い駆動音だけが続いている。
ダグラスは、懐から書類束を取り出した。
「それで、費用の件ですが」
「今、その話をするのか」
「今だからです。後にすると、皆様、感情的になられる」
ダグラスは、真顔で言った。
「二基分です。材料も魔石も、通常の倍では済みません。冷却機構も、保存環も、制御魔術式も、ほぼ一から組み直しました。正直、笑える額ではありません」
「請求書は」
「いつも通り、財務部へ回しておきます」
「そうしろ」
「はい」
そこで、ダグラスは書類束を戻した。
「それと、もう一つ」
大公が振り向く。
「何だ」
「チャミー殿から、お預かりしているものがあります」
「チャミーから?」
「正確には、レオナ様からです」
大公の目が、わずかに細くなり、ダグラスは、封書を差し出した。白い封筒だった。表には、幼いながらも丁寧な字で、こう書かれている。
おじいちゃんへ。
「レオナ様が、ご自分が眠った後に渡してほしいと、チャミー殿へ託されたそうです」
大公は、封筒を受け取った。指が、また震えた。封蝋を割るのに、少し時間がかかった。
中には、数枚の便箋が入っていた。大公は、それを静かに開いた。そこには、見慣れた孫娘の字が並んでいた。丁寧で、少し小さくて、ところどころ線が細くなっている字だった。
────
親愛なる、おじいちゃんへ。
この手紙を読んでいる時、わたくしは、もう眠っていると思います。
だから、起きている間には少し恥ずかしくて言えなかったことを、手紙に書くことにしました。
おじいちゃん。
わたくしを七聖学院へ通わせてくださって、ありがとうございました。
最初は、少し怖かったです。
知らない場所で、知らない方々と会って、皆様に迷惑をかけてしまうのではないかと思っていました。
最初は、ずっとなじめなかったけれど、学院は、とても楽しい場所でした。
ミコト様は、いつも優しくしてくださいました。
ハリエット様は、わたくしのためにたくさん考えてくださいました。
オーレリア様は、何でも記録していて、とても頼もしかったです。
ハリス様は、少し難しい顔をすることもありますが、本当はとても優しい方でした。
ロイ様は、わたくし達のために、ご自分から危ない役目を引き受けてくださいました。
ローティ様も、わたくしの騎士になるとまで言ってくださいました。
そして、ヴァン。
ヴァンは、わたくしを背負って、夜の森を進んでくださいました。
危険から、わたくしを守ってくださいました。
わたくしに、まっしろな水晶湖を見せてくださいました。
月の光で、湖が白くなるのです。
とても綺麗でした。
でも、とても短かったです。
終わった時、少しさみしくなりました。
けれど、その後、夜空に花が咲きました。
湖にも、花が映りました。
わたくしは、あんなに綺麗なものを見たことがありません。
それから、ヴァンと一緒に釣りもしました。
一匹、釣れました。
わたくしが釣りました。
とても楽しくて、とても嬉しかったです。
ヴァンは、わたくしに約束もしてくれました。
必ず、わたくしの病を治す方法を探すと。
そのために、冒険者になって、世界中を探して回ると。
ミコト様も、ハリエット様も、皆様も、それを手伝うと言ってくださいました。
だから、わたくしは、ただ一人で眠るのではありません。
やくそくを抱えて眠ります。
いつかまた、皆様と会える夢を抱いて眠ります。
チャミーも一緒にいてくれます。
ですから、どうか、あまり悲しまないでください。
おじいちゃん。
わたくしのわがままを聞いてくださって、ありがとうございました。
わたくしを愛してくださって、ありがとうございました。
わたくしも、おじいちゃんを、心から愛しております。
また起きたら、一緒に釣りをしてください。
あなたの孫娘。レオナより。
────
大公は、最後の一行を見つめたまま、動かなかった。
広間には、装置の低い音が続いている。街の方から、遠く、機関車の汽笛が聞こえた。
朝が近い。
蒸気機関と魔導技術、文明の街は、今日も動き出す。列車は走り、工房は火を入れ、駅には人が集まり、書類は積み上がり、財務部には請求書が届く。
世界は、止まらない。
レオナが眠っても。
チャミーが眠っても。
グレーヴェン大公が、どれほど願っても。
世界は、止まらない。
営みは続く。
大公の手から、便箋が落ちかけた。ダグラスが、何か言おうとして、やめた。
グレーヴェン大公は、膝を折った。石の床に、重い体が沈む。その手は、便箋を握りしめていた。
鋼鉄の街を治める大公は、泣いた。
領主としてではなく。大公としてでもなく。
ただ、孫娘を愛した一人の老人として。
声を上げて、泣いた。




