第四十八話 湖に映るもの
森と空。
水と風。
月と湖。
そのすべてが、今、ひとつとなった。
月が、石の背山脈の稜線に触れた。
夜へ広がっていた月光が、山の背に遮られ、細く、細く絞られていく。空から降り注ぐ光ではない。山の端から低く差し込む、一本の白い糸のような光だった。
その光が、湖面に届いた。
黒く沈んでいた水晶湖の上に、まず一筋、白い線が走る。細く、頼りなく、けれど迷わず伸びた光は、波に触れた瞬間、ほどけるように広がっていった。
線が、面になる。
低く差した月光を、澄み切った水が受け止める。
沈めないで。
汚さないで。
そっと、抱くみたいに。
湖は、光を飲み込まなかった。濁らせもしなかった。ただ静かに受け止めて、月の白を、夜の底から柔らかく返していく。
湖は、内側から光ったのではなかった。
月の白を、湖そのものが抱いたのだ。
山の稜線が、夜の中に白く浮かび上がる。まるで、巨大な石の獣が、遠い昔からそこに背を横たえていたかのように。
その背の下で、湖は少しずつ夜の色を失っていった。
白い。
それは、雪の白ではなかった。霧の白でも、花の白でもない。色というより、夜がほんの束の間だけ許した、もう一つの顔だった。
長くは続かない。
月は沈み続けている。山も、湖も、風も、誰かの願いのために歩みを止めることはない。
けれど、その夜、その場所に、レオナはいた。
間に合ったのだ。
束の間の白が、今、ここにある。
──────────。
暗闇。
月女神の時は過ぎ去った。
「……あ」
レオナの声は、湖へ届く前に消えた。
*
ドルガン・ベイオベアは、絶句した。
目の前に立つ侍女は、いつもと同じ顔をしていた。
背筋を伸ばし、両手を前で重ね、少しも取り乱していない。だが、その口から告げられた言葉は、老練な親衛騎士の肝を冷やした。
「……今、何と言った」
低い声で、ドルガンが問い返す。チャミーは、深く頭を下げた。
「ですから、申し上げました通りでごぜえます。レオナ様は、ただいま、この小屋にはいらっしゃいませんだ」
控えていた兵達が、息を止めた。
天蓋付きの寝台。整えられた毛布。閉ざされた窓。見張りの兵。結界小屋。
そのすべてが、レオナ皇妹姫を守るために置かれていたはずだった。
ドルガンは、寝台へ歩み寄り、毛布をめくる。
そこに、レオナはいなかった。ドルガンは、その空白を見下ろしたまま、低く息を吐いた。静かに周囲を見回す。暖炉の中、灰に残された小さな靴跡を見つけた。
次の瞬間だった。
「……は」
喉の奥で、笑った。
「大したものだ」
チャミーは、頭を下げたまま動かなかった。
「レオナ様が、自らの足でか」
「はい」
「行きたいと、仰ったのだな」
「はい」
ドルガンは、窓の外へと視線を向けた。
病に細り、寝台の上で守られるばかりだった少女が、自ら小屋を出た。
夜の森へ。仲間達と共に。
「本当に、大したものだ」
今度の声には、隠しきれない笑みが混じっていた。それから、ドルガンは顔を上げる。
「目的地は」
「水晶湖南岸、少し突き出た崖の上でございます」
「護衛を集めろ」
「はい」
「叱るのは後だ」
ドルガンは、扉を開いた。
「まずは、お迎えだ」
チャミーが、一歩前へ出た。
「その前に、ご覧に入れたいものがありますだ」
*
野営地。
並んだテントの中では、もう眠った生徒もいれば、まだ起きている生徒もいる。
「っ!? しまった。つい寝ちゃった」
マリアンナは飛び起きた。
すぐに手帳とペンを握って外に出る。
「っと、すまない」
そこで誰かにぶつかりそうになった。
ロイ。
例の怪しい計画。その実行メンバーだと疑わしき少年。
「ドゥフテヴァルト公爵の息子が、ここで何を?」
「ロイだ。ロイ・アッシュフィールド。それより、今すぐ皆を叩き起こせ。大至急!」
「はっ、はい!」
下級生であっても、領主の息子は人に命令すること、指示することに慣れていた。マリアンナは反射的に返事をしてしまってから、少し後悔した。
「ウォール、フェルトン、君達もだ。急いで」
「僕に命令するな。ウルフはどこだ?」
この耳障りな声はフェルトンね。
マリアンナは、この状況は未だに理解できないが、すべきことは理解できた。あのロイが、フェルトンを使ってまで皆を起こそうとしている。どう考えても、ただごとじゃない。
「……だ、ダイア・ウルフが出たって言うの?」
また怪物なの?
「いや。ムダに怖がるといけない。ただ、起こして回れ」
つまり怪物じゃない。それじゃ、なに?
マリアンナは、他に思い付く答えがなかった。ロイの前に立つ。見上げる。目を逸らさず。
「待って、ロイ・アッシュフィールド。みんなを起こすの手伝ってあげるから、後で事情を全て教えてね。あの計画なんだよね?」
一瞬、ロイは目を見張った。
「そうだ。その計画だ。全て話す」
「契約成立」
何の話だか分からないウォールとフェルトンを尻目に、マリアンナはテントに入って荷物を開いた。何かを手に持って戻る。
「それは?」
「これからの未来、女性の必需品になるものよ」
そこへ、ジークハルト先生がやって来た。
「ロイ。貴様、何を考えている!」
「これからお見せします」
「なに?」
ロイは、マリアンナを見るとうなずいた。
「先生、ごめんね」
手にした小さな筒状の何かから、差し込まれていた金属ピンを、マリアンナは勢いよく抜いた。
夜空を切り裂くような警戒術の音が響き渡る。
*
山を越えた先、湖の沖。
水面に浮かべた小舟までは、その警戒音も届きはしなかった。
「オーレリア、準備は?」
「大丈夫なのよぅ」
ハリスの問いに、オーレリアは自信満々の声を返した。
「俺は何をすれば?」
「後始末があるから、それまで待機」
ローティの問いに答えると、ハリスは親指を立てて合図した。
「それじゃ、行くのよぅ」
*
白き輝きの時が終わった。
一瞬で過ぎ去った情景が、レオナの胸に、静かな寂しさを残した。
終わってしまった。
そう思って俯いた時だった。
「レオナさん」
ミコトが、そっと言った。
「顔を上げてください」
レオナは、暗くなった湖へと、ゆっくりと視線を上げた。
一粒の光。
湖の黒い水面のただ中で、ぽつんと灯った。
小さな、小さな光だった。
けれど、それは消えなかった。
闇を押し分けるように、まっすぐ空へ昇っていく。
そして。
─────────────光。
遅れて、音が来た。
湖を渡り、崖を震わせ、森の奥へ消えていく。
赤が咲いた。
青がほどけた。
金が尾を引いた。
すぐに別の光、音。また光、音。
光、音。光、光、音。
夜空に生まれた花々は、すぐ下の湖にも映っていた。
レオナは、満面の笑みで空を見上げていた。
空と水。
天と地。
そして、そのすべてが、レオナの瞳にも映っていた。




