第四十七話 目的地
水晶湖。
その南岸、少し湖面へと突き出た丘の上。この目的地には、私達以外、まだ誰も来ていない。つまり、私と、ミコトさんと、ルナだけ。
石の背山脈の稜線に、月が沈んでしまう前に、レオナ様を連れて、ヴァン君とロイ君が、今こちらへと順調に向かっているはずだ。でも、どうしても心配になる。私が心配性だから、というのも少しあるけれど、あの古き影の森から少し外れているとはいえ、古代種の獣が出没する程の深い森だ。木の葉は揺れ、虫の声もする。湖から上がってくる冷たい匂いと、水の気配も、ちゃんとある。なのに、森全体が、じっと息をひそめているように感じる。
私は、レオナ様が座った時、冷たくないようにと、広げた敷物の端を押さえる。風でめくれないように。これは何かをしていないと、何度も山道の方を見てしまいそうだったから。
「これで大丈夫でしょうか?」
ミコトさんが、敷物の上に毛布を置く。
「うん、寒くなったら、もう一枚かければいいと思う」
「はい」
ミコトさんはうなずきを返してから、山道の方を見ている。
これで、何度目でしょう。
レオナ様を心配しているのは分かります。私だって心配です。あの小屋から抜け出すなんて、普通なら有り得ない話で、ヴァン君とロイ君がいるとはいえ、危ないことには変わりありません。
でも、ミコトさんの目は、レオナ様だけを待っている目ではない気がする。今回も作戦の首謀者になったヴァン君。おそらくミコトさんは、その悪戯っ子のリーダーを心配している。
ルナが、ミコトさんの足元でしっぽを揺らしました。
「ルナも、心配ですか」
ミコトさんがそう言うと、ルナは小さく鳴きました。お返事みたいな、そうだよと答えているような鳴き方でした。獣話術を使わなくても、最近は何となく動物の気持ちと言葉が分かる気がします。私は、少しだけ笑いました。
でも、すぐに湖の方を見てしまいました。月が、山の稜線へとだいぶ近づいています。ハリスと一緒に、オーレリア、ローティ君、あの三人が湖の方へ向かってくれている。私にとっては、ヴァン君達も心配だけど、ハリス達の方も心配になる。
天候祈願。
高位の神聖系魔法で、天候を操る。もしも、あの呪文が私に使えたなら、雨や曇り空になった時の対策として、三人が湖の岸まで降りて準備するという話は出て来なかった。
「ハリスさん達も、大丈夫でしょうか?」
私の視線に気付いたのか、ミコトさんが尋ねました。
「うん。ハリスなら、無理なことはしない。オーレリアもいるし」
大丈夫。
うん、ヴァン君達も大丈夫。きっと、無事に向かって来てる。時間も、まだ大丈夫。
でも、月は少しずつ動いていた。こちらの都合なんて、少しも待ってくれない。大自然の中でも、星々の運行は、天気よりも手が届かない領域だ。谷の切れ目に光が入るのは、ほんのわずか、短い時間しかない。その時に、レオナ様がここにいなかったら。
そう考えた瞬間、胸の奥がきゅっと縮む。私は夜光苔の入った小さな袋を、そっと閉じた。昨日までの間に置いて来た苔に加えて、斜面を降りて、この目的地へ来るまでの坂道にも、ついさっき目印を置いて来た。木の根元、岩のそば、曲がる場所。強い光ではないけれど、満月の光も届きにくい暗い森の中なら、きっと見えるはず。
ヴァン君なら、見つけてくれる。
今の私で借りられる自然の力が、夜に光る苔を、道々に目印として置くだけの、ちょっとした小さな力でしかなくても、ヴァン君なら見つけてくれる。ドルイドの私以上に、なぜか野外慣れしているヴァン君だし、あの根性だし、何よりハリスが親友に選んだ男の子だし、きっと間違いない。大丈夫。
「ヴァンさんなら、大丈夫ですよね……」
ミコトさんの肩が、ほんの少しだけ揺れました。その声は、信じようとしている声に聞こえました。
信じているから、心配ない。そうではないのだと思う。
どれだけ心から信じていても、心配なものは心配です。大丈夫だと思っていても、早く姿を見たいものは見たい。一刻も早く、安全を、その無事を、今すぐにでも確かめたくて、仕方ない。その気持ちは、痛いほどに分かります。
私は、ミコトさんの横顔を見ました。
森の奥を見つめる目。少しだけ強く握られた手。息をするたびに、小さく動く肩。
どうしてか、そこから目を離せませんでした。そして、聞きたくなりました。
「ミコトさん」
「はい」
「ミコトさんは、恋占いもできるのよね」
聞いてから、少しだけ後悔しました。少し困ったような表情のミコトさん。今、聞くことではなかったかもしれません。でも、聞いてしまいました。
「ええと……女神様に相談するだけですが」
「それって、自分のことも分かるの?」
「自分のこと、ですか」
「うん。たとえば、誰が自分のことを好きなのか、とか、逆に自分は、誰のことが好きなのか、とか」
ミコトさんの手が、止まりました。
本当に、少しだけ。
森の葉が一枚揺れたくらいの、小さな止まり方でした。
「……自分のことは、よく分かりません」
「そうなの?」
「はい。他の方のお話なら、少しだけ見えることがあります。でも、自分のことになると、近すぎるのか、うまく見えないんです」
ミコトさんは、少し考えるように視線を下げました。
「それに、自分の気持ちを占いで決めるのは、少し違う気がします」
「違う?」
「はい。誰かを好きかどうかは、たぶん、自分で気づくものだと思うので」
自分で気付くもの。ミコトさんは、そう言いました。その言い方は、とても真面目で、ミコトさんらしく思えました。
「それじゃ、占いで確かめるのは?」
「うーん、それはどうなんでしょう。女神様の言葉を借りるなら、占いは切っ掛けに過ぎないそうです」
「切っ掛け?」
「はい。それから恋は何でもアリらしく、占いで確かめても、ガン無視しても、好きにして構わないって……」
「何でもアリ?」
「そうです。ルール無用らしいです。でも、マナーが悪いのは嫌いみたいです」
「……そ、そうなんだ」
まだ私にはよく分からないけれど、掟と作法、そこに何か明確な違いがあるのは分かった。だから私は今、聞いてはいけないところまで、無作法に踏み込むつもりはない。多分、エドワード様が、私を急がせないことと似ているんだと思う。
ルナが、ぴくりと耳を動かしました。
「ルナ?」
さっきまでのんびりしていたしっぽが、少し低くなっています。私も耳を澄ませました。森は、静かでした。
静かすぎる気がしました。
その時。
かすかに。ほんのかすかに、遠くで、何か大きなものが崩れ落ちたような音が、聞こえました。紙に針で穴を開けた時ぐらいの、小さな小さな音が、わずかに聞こえました。
ルナが、低く身を沈めました。小さな身体なのに、その背中の毛が、少しだけふくらんだように見えます。
ミコトさんも、山道の方へ顔を向けました。
「今の音は……」
「山道じゃないと思う」
私は、そう答えていました。夜光苔を置いた道から、少しずれている。もっと斜面の方。昼でも通りたくない場所です。でも遠すぎて、はっきりとは分かりません。
ミコトさんが、一歩、前に出ました。
「待って、ミコトさん」
「でも」
「ここを空けたら、レオナ様が来た時に困る」
自分で言って、胸が痛くなりました。本当は、私だって走り出したかった。音のした方へ行きたかった。ヴァン君達に何かあったのなら、じっと待っているなんて嫌だ。
でも、ここは目的地です。レオナ様を連れて来る場所です。もしも行き違いになって、ここに私達がいなければ、ヴァン君はきっと心配する。レオナ様も不安になる。それに……。
「それに、ヴァン君達なら大丈夫」
ミコトさんは、私の言葉を聞いて、目を閉じてから、頷きました。再び目を開いた時には、そこに強い意志の光が宿っているように見えました。
「はい。その通りでした。わたし、ヴァンさんを信じます」
ヴァンさん。
私はヴァン君達と言ったのに。
ミコトさんは、多分まだ自分で気付いてない。もしかすると、私の思い違いかも知れないけれど……。私は、それを指摘しませんでした。
何度目かの夜風が通り過ぎて、やがて木々の間に影が見えました。最初は、ただの黒い影でした。影が揺れます。
一歩。また一歩。
重そうな足取りでした。でも、倒れません。こちらへ向かって来ます。森を出て、月明かりの下へ出た時、誰かを背負っているのが分かりました。
レオナ様です。そして、レオナ様を背負っていたのは、ヴァン君でした。
ヴァン君の頬に、細い傷が見えました。服には土がついています。袖も膝も擦れています。手の甲にも、赤い線が増えていました。さっき別れた時より、明らかに怪我が多い。
「ヴァン!」
ミコトさんが、走り出しました。
その声は、いつもの「ヴァンさん」ではありませんでした。
怪我をして、土にまみれて、それでもレオナ様を背負って歩く姿を見た瞬間、考えるより先に出てしまった声なのだと思います。
ミコトさん自身も、気づいたようでした。
「ヴァンさん……!」
すぐに駆け寄って、そう言い直しました。けれど、一度出てしまった声、聞いてしまった言葉は、戻せません。でも、今はそれを深く考えている暇はありません。私も後を追いました。
「レオナ様!」
私とミコトさんが最初に見たのは、もちろんレオナ様でした。顔色。手。足。服の破れ。怪我がないかを確かめるために、視線を細かく動かします。
「大丈夫です。ミコト様」
レオナ様は、少し息を弾ませながらも、はっきりそう言いました。
「ヴァンが守ってくださいました」
ヴァン。
レオナ様は、とても自然にそう呼びました。まるで、ずっと前からそう呼んでいたみたいに。夕食までは、ヴァン様と呼んでいたのに。ミコトさんが、ほんの少しだけ目を丸くしました。
私は、それにも気づいてしまいました。
「ロイさんは……?」
ミコトさんが尋ねました。
レオナ様は、胸元で手を握りました。
「ロイ様は、わたくし達を逃がすため、ご自身を犠牲にしてくださいました」
一瞬、息が止まりました。
「死んでない」
ヴァン君が、すぐに言いました。
「先生を引き付けてる。時間を稼いでるだけ」
「……そう、なのですね」
ミコトさんが、小さく息を吐きました。
私も、ようやく息が戻りました。
犠牲。
レオナ様は、本当に真面目にそう言ったのだと思います。自分達のために、ロイ君がその役目を引き受けてくれたから。だけど、ヴァン君の怪我を見た後で、そう話を聞くと、ロイ君に不幸があったかと思ってしまいました。
でも、ヴァン君がすぐに言い直してくれて助かりました。今、あまり怖い言葉を聞くと、心臓に悪いです。ロイ君が作ってくれている時間、この機会を無駄にはできません。
「ヴァン、わたくしは大丈夫です。下ろしてください」
「分かった」
ヴァン君は、静かに膝を曲げて、レオナ様を下ろしました。レオナ様は少しふらつきましたけれど、ミコトさんがすぐに支えました。私は、慌てて敷物の方を整え直します。
「こちらへ。冷えますから」
「ありがとうございます、ハリエット様」
レオナ様を敷物の上へ座らせ、毛布を膝に掛けます。レオナ様の服の裾は少し破れていました。たぶん、枝に引っ掛かったのだと思います。
でも、顔にも手にも、血は見えません。それだけで、胸の奥が少しだけゆるみました。守ったんだ。そう思いました。落ちても。転んでも。枝に引っ掛かっても。ヴァン君は、レオナ様だけは傷つけないようにしたのです。
「本当に、お怪我はありませんか」
「ありません。少し、服が破れてしまいましたけれど」
「それだけで済んで、よかったです」
ミコトさんの声には、本当にほっとした響きがありました。けれど、その次に、ミコトさんの目はすぐヴァン君へ向きました。
頬の傷。土のついた肩。擦りむいた手。破れた袖。
ミコトさんの息が、ほんの少しだけ浅くなった気がしました。
「ヴァンさんは……」
「平気」
ヴァン君は短く答えました。
「でも」
「平気」
同じ言葉でした。ミコトさんは、何か言いたそうに唇を開きかけました。でも、すぐに閉じました。今は、問い詰める時ではないと分かったのだと思います。
「ハリエット」
ヴァン君が、私を見ました。
「道、助かった」
「夜光苔?」
「ああ」
「見えた?」
「見えた。途中まで」
途中まで。やっぱり、途中で道を外れたのです。
「落ちたの?」
私が聞くと、ヴァン君は少しだけ視線を外しました。
「少し」
「少しで、その怪我?」
「落ちたけど、下までじゃない」
ミコトさんが息を呑みました。レオナ様は、申し訳なさそうにヴァン君を見ます。
「ヴァン、わたくしが重かったから」
「違う」
ヴァン君はすぐに言いました。
「石が悪い」
「石、ですか」
「崩れた」
ルナが、レオナ様の足元へ近づきました。
「ルナさん」
レオナ様がそっと呼ぶと、ルナは小さく鳴きました。レオナ様が、ようやく少し笑いました。その笑顔を見て、私も少しだけ息ができるようになりました。でも、安心している時間はありません。月は、もう山にかかっています。
石の背山脈の稜線に、白い月の端が触れていました。
森の影が、すっと深くなります。湖から上がってくる風が、少しだけ冷たくなりました。さっきまで息をひそめていた夜の精霊達が、いっせいに顔を上げたような気がしました。
私は、湖の方を見ました。黒く沈んだ水晶湖は、まだ静かです。月は、山の向こうへ沈んでいきます。
こちらの都合なんて、少しも待ってくれません。
でも。間に合いました。
「レオナ様、湖の方を」
私は、レオナ様の横に膝をつきました。ミコトさんも、息を殺すように湖を見ています。ヴァン君は黙っていました。レオナ様も、何も言いません。ルナも、レオナ様の膝に乗って、湖の方を見ています。
黒く沈んだ湖面へ、谷を抜けた月の光が、今まさに落ちようとしていました。
ここが、目的地。
私達が、レオナ様に見せたかった場所。
森と空。
水と風。
月と湖。
その全てが、今。




