第四十六話 背中
「先生!」
ロイ様の大きな声が、夜の中にひびきました。
わたくしは、びくっとしました。
何が起きたのか、すぐには分かりませんでした。前を歩いていたロイ様が、急に大きな声を出したのです。誰かに呼ばれた声ではありません。何かを見つけた声でした。
けれど、ヴァン様はすぐに止まりました。
わたくしの手を引いて、テントの影へ寄せます。動きはしずかで、速くて、少しもまよいがありませんでした。
ロイ様は、こちらを見ませんでした。
ヴァン様にも、わたくしにも、目を向けませんでした。
ただ、背中だけをこちらに向けていました。
その背中が、言っているようでした。
止まれ。
隠れろ。
あとは、僕がやる。
その時になって、わたくしにも分かりました。
ロイ様の前に、誰かがいます。
先生です。
たぶん、ジークハルト先生です。
ロイ様の声は、先生を呼ぶ声であり、わたくし達への合図でもあったのです。
「あちらにダイア・ウルフがいるかも知れないので、確認に出ました」
ロイ様の声が聞こえました。
「ダイア・ウルフだと?」
低い声でした。
やはり、ジークハルト先生です。
「はい。ウォールが、向こうで音がしたと言っていました。フェルトンも一緒に確認へ向かっています」
「なに?」
ジークハルト先生の声が、少し変わりました。
「案内しろ」
「はい!」
ロイ様は、すぐに答えました。
そして、先生を連れて、わたくし達とは別の方へ歩いていきました。
ロイ様の背中が、夜の中へ遠ざかっていきます。
振り返りません。
大丈夫とも、行けとも、言いません。
でも、その背中は、ちゃんと言っていました。
今のうちに行け。
わたくしは、その背中を見つめていました。
ロイ様とヴァン様は、何の打ち合わせもしていないはずです。それなのに、見つかった瞬間に、すぐに役目を分けました。ロイ様は先生を連れていく。ヴァン様はわたくしを連れて進む。
言葉がなくても、分かり合える。
まよわずに、動ける。まるで、マナ姉様と、マギ兄様みたいです。
それが、少しだけ、うらやましいと思いました。
「行く」
ヴァン様が言いました。
「はい」
わたくしは、小さく答えました。
けれど、すぐに分かりました。
わたくしの足では、間に合いません。
少しなら歩けます。でも、夜の森を、みなさまのところまで急いで進むことはできません。走ることなど、できるはずがありません。
ヴァン様は、置いてある籠を見ました。
わたくしも、籠を見ました。
ここまで、ヴァン様とロイ様が運んでくださった籠です。わたくしのために作ってくださった、大切な籠です。でも、それは二人で持つ必要があるのに、ロイ様はいません。
ここから先、それを持っていくのは無理なのだと分かりました。
「籠は置く」
ヴァン様が言いました。
わたくしは、少しだけ息をのみました。
籠がなければ、わたくしは長く歩けません。
でも、持ち手がいなければ、籠で先へ進めません。
ヴァン様は、わたくしの前で少し身を低くしました。
「背負う」
「……え」
「その方が早い」
わたくしは、すぐには返事ができませんでした。
背負っていただく。
それは、いちばん早い方法です。
きっと、そうです。
でも、少しだけ、はずかしいと思いました。
わたくしは、女の子です。
男の子の背中にしがみつくなんて、そんなことをしてよいのでしょうか。ヴァン様は、護衛でも、侍女でも、騎士でもありません。わたくしと二つしか違わない、男の子です。
ヴァン様は、急かしませんでした。
ただ、しずかに言いました。
「レオナが決めて」
わたくしは、はっとしました。
わたくしが、決める。
そうでした。
わたくしが、行きたいと言ったのです。
湖へ行きたい。白く光る湖を見たい。
みなさまと一緒にいたい。
そう思ったのは、わたくしです。
ミコト様が、他のみんなが、湖で待っているはずです。
なら、わたくしが決めてよいのです。
こんな当たり前のことを、わたくしは少しだけ忘れていました。
「お願いします」
わたくしは、そう言いました。
声は小さかったけれど、ちゃんと言えました。
ヴァン様は、うなずきました。
「腕、首に」
「はい」
「苦しくしないで」
「はい」
わたくしは、ヴァン様の背中におぶさりました。
腕を首に回します。
落ちないように、しっかりつかまります。
少し、はずかしいです。
でも、それよりも、落ちてはいけないと思いました。わたくしが落ちれば、ヴァン様の足を止めてしまいます。みなさまの作戦を、だいなしにしてしまいます。
「行く」
「はい」
ヴァン様は走り出しました。
夜の森が、流れていきました。
わたくしは、今まで走ったことがありません。
少なくとも、自分の足で、風を切るほど速く走ったことはありません。馬に乗ったこともありません。馬車には乗ったことがあります。もっと速い皇國鉄道にも、何度も乗ったことがあります。
けれど、これは違いました。
馬車とも、皇國鉄道とも、ぜんぜん違いました。
わたくしは、しっかりつかまっていなければなりません。手をはなせば、落ちてしまいます。体をかたむけすぎれば、ヴァン様のじゃまになります。
足もとから、土をける音がしました。
枝が近くをかすめました。
夜の風が、ほほに当たりました。
これは、運ばれているだけではありませんでした。
自分の足ではないのに、自分も一緒に走っているみたいでした。
こわいです。
でも、胸がどきどきします。
少しだけ、楽しいです。
ヴァン様は、まよいませんでした。
まっくらな森の中なのに、どちらへ進めばいいのか、分かっているみたいでした。
木の根元に、小さな光が見えました。
夜光苔です。
ハリエット様が置いてくださった目印でした。
一つ。
また一つ。
岩のそばに一つ。
曲がるところに一つ。
小さな光です。強い光ではありません。でも、その光があるだけで、森の夜道は、ただの暗やみではなくなりました。
ハリエット様が、ここにいる。
そう思えました。
ハリエット様は、この場にはいません。でも、あの方が置いてくださった光が、わたくし達をみちびいてくれています。
こっちです。
まよわなくていいです。
そう言ってくれているようでした。
わたくしは、少し安心しました。
道は少しずつ登り坂へと変わっていきます。
ヴァン様の背中に、もう少し強くつかまりました。
ヴァン様の背中は、大きかったです。
わたくしと二つしか違わない、子供の背中です。大人の騎士の背中ではありません。ドルガンみたいな、くまのように大きな背中でもありません。
それなのに、とても大きく感じました。
とても、たよりになる背中でした。
背中。
わたくしは、いくつかの背中を思い出しました。
お父様の背中も、大きかったです。
先代皇帝であったお父様。
戦場へ行き、そのまま帰って来なかった方。
わたくしの中にあるお父様は、いつも少し遠くにいました。近くにいるのに、遠い背中でした。
わたくしが生まれてすぐ、母様は亡くなりました。
だから、お父様にとって、わたくしは母様をうばった子だったのかもしれません。生まれて来てはいけなかった子だったのかもしれません。
そう言われたわけではありません。
でも、小さいわたくしにも、分かりました。
抱き上げられることが、あまりなかったこと。
名前を呼ぶ声が、いつも少しかたかったこと。
わたくしを見る目が、わたくしではない誰かを見ているようだったこと。
そして、すぐに背中を向けてしまうこと。
お父様の背中は、大きかったです。
でも、遠かったです。
ヴァン様の足が、地面を強く蹴りました。
わたくしの腕に、少し力が入りました。
それから、ヴェナリスお兄様。
今の皇帝であるお兄様。
すごく年のはなれたお兄様は、わたくしが病気だと聞いて、一度だけ見舞いに来ました。
大きな部屋でした。
とても静かでした。
侍医達は、みんな下を向いていました。
寝台の上から見上げたお兄様の目は、冷たかったです。
不治の病だと知った時、お兄様は言いました。
『弱者は皇族に不要だ』
その言葉を、わたくしは覚えています。
お兄様は、その時、わたくしへの興味をなくしました。
そして、背中を向けました。
遠ざかっていく背中。
あれは、わたくしの家族ではありません。
わたくしは、そう思ってしまいました。
でも、わたくしには家族がいます。
お爺様がいます。
お爺様は、わたくしの無理を聞いてくださいました。学院に通わせてくださいました。ドルガンとチャミーをつけて、わたくしが少しでも安全に過ごせるようにしてくださいました。
そのおかげで、わたくしは学院に来られました。
みなさまに会えました。
こうして、林間学校にも来られました。
ヴァン様。
ミコト様。
ハリエット様。
ハリス様。
オーレリア様。
ロイ様。
それから、わたくしの騎士になると言ってくださったローティ様。
ルナさんもいます。
みなさまと、おそろいのマスコットを持っています。
小さなものです。
でも、とても大切なものです。
あれを見た時、わたくしは、とてもうれしかったです。とても楽しかったです。
わたくしは、ただ守られているだけの病人ではなくて、みなさまの輪の中に入れてもらえたのだと思いました。
でも。
大公領主として、城の執務室に、一人で座っているお爺様の背中は、いつもさみしそうでした。
苦しそうでした。
お爺様は、わたくしにやさしいです。
でも、そのやさしさの奥に、痛みがあることも分かります。わたくしのことで、思いなやませているのだと分かります。
助けたい。
でも、助けられない。
その苦しみを、お爺様はずっと背負ってくださっています。
わたくしは、それがうれしくて。
そして、つらいです。
マナ姉様とマギ兄様も、そうです。
お二人は、ぜったいにわたくしの治療法を見つけると言ってくださいました。
本に向かうマナ姉様の背中。
研究に没頭するマギ兄様の背中。
わたくしのために、がんばってくださっています。
やさしいお二人です。
わたくしは、お二人が大好きです。
大好きな家族です。
でも、あの二人の人生を、わたくしのために使わせたくはありません。
わたくしが病気でなければ、あの二人は、もっと自由にふるまえるはずです。
もっと好きなことをして。
もっと遠くへ行って。
もっと笑っていられるはずです。
わたくしの命は、たくさんの人の背中に乗っています。
お爺様の背中。
マナ姉様とマギ兄様の背中。
ドルガンの背中。
チャミーの背中。
そして今、ヴァン様の背中。
どうして、わたくしは、こんなに重いのでしょう。
こんなに軽い体なのに。
わたくしは、みんなにとって、おもりでしかない。
そう思ったら、目の奥が熱くなりました。
夜の風が、ほほに当たります。
小川の上流、水のせせらぎも聞こえます。
その瞬間、ヴァン様の背中が、ほんの少し沈みました。
走り方が変わります。
わたくしを落とさないように、支え直したのだと分かりました。
「力、抜けてる」
ヴァン様の声がしました。
「すみません。大丈夫です」
「泣いてる」
わたくし、泣いていたようです。
「いえ、大丈夫です」
そう答えました。
でも、ヴァン様はしばらく何も言いませんでした。
ぜったい大丈夫じゃないって、ばれている気がします。
「そうか」
でも、ヴァン様は、そう言ってくれました。
それから、少し間がありました。
じっと何か考えているようでした。
ぽつりと、ヴァン様は言いました。
「くまの騎士」
わたくしは、瞬きをしました。
「チャミー」
ヴァン様は、前を向いたまま言いました。
「マギ、マナ」
夜光苔の光が、また一つ、また一つと、足もとを過ぎていきます。
「ミコト、ハリエット、オーレリア、ハリス、ロイ、ローティ」
ひとり、ひとり、その人たちの顔が、思い浮かびます。
「ルナも」
ヴァン様の言葉は、いつも短いです。
「レオナは、大丈夫」
本当に短いです。でも。
「みんなが、いる」
でも、なぜか、とても胸の奥に届きました。
わたくしは、ヴァン様の肩に、もう少し強くつかまりました。
「ヴァン様もいます」
ヴァン様は、少しだけ黙りました。
「そうか。おれも、いた」
「はい、ヴァン様もいました」
「ヴァンでいい」
「そうなのですか?」
その時でした。
ヴァン様の足が、大きな石を踏みました。
その石がゆれ、足場が大きく崩れました。
「しくった」
ヴァン様の声が、いつもより少し近く聞こえました。
体が、ふわりと浮きました。
地面が消えました。
夜の森も、夜光苔の光も、ヴァン様の背中も、月の光も、ぜんぶ一度にひっくり返りました。
わたくし達は、崖の外へ投げ出されていました。




