第四十三話 イノシシ事件
オーレリアが走ってきた。
しおりを片手に持ったまま、髪を少し乱している。息も乱れていた。普段なら、何かを書きつけながらでも喋る。けれど、その時は違った。
「大変なのよぅ」
おれは、オーレリアを見た。
「何があった」
「イノシシなのよぅ。大きいのよぅ」
「どこ」
「向こうなのよぅ。クリスさんが、動けなくなってるのよぅ」
クリス。
おれは下流を見た。ハリス達の班がいる。声をかけるには遠い。けれど、走ればすぐだ。
「ハリス!」
おれが呼ぶと、ハリスが顔を上げた。エインとウォールもこちらを見る。ハリスはすぐに竿を置き、こちらへ走ってきた。それとほとんど同時に、木の陰からつばめ先生が出てきた。
いたのか。
そう思ったけれど、言わなかった。多分、レオナを陰から見守っていたのだろう。先生はおれ達を見てから、オーレリアに目を向けた。
「場所は分かる?」
「分かるのよぅ」
「案内して」
つばめ先生の声は落ち着いていた。そこへ、別の方向から三人が来た。ハリエット、フェルトン、マリアンナの班だった。
「だから言っただろ、でかかったって!」
「本当に大きかったんですって。記事にするなら、これは――」
「落ち着いてください」
ハリエットが、やかましく騒ぐ二人をなだめていた。声は少し早い。でも、取り乱してはいない。
「大きなイノシシのようなものを見ました。こちらへ来る様子はありませんでしたが、危険と判断して避難して来ました」
「分かりました。賢明な判断ね」
つばめ先生が頷いた。
「先生、男手が必要になるかも知れません。俺たちも同行します」
ハリスがおれの言いたいことを代わりに言ってくれた。
「そうね。二人は一緒に来て」
おれはミコトを見た。レオナもいる。ミコトは、ほどきかけていた釣り糸を握ったまま、おれを見ていた。レオナは石の上に座ったまま、膝の上で小さなルナのマスコットを両手で包んでいる。二人とも何も言わなかったけれど、顔を見れば心配しているのは分かった。ルナは鞄から顔だけ出して、耳をピンと立てている。
「ミコト」
「はい」
「ここにいて」
「分かりました。レオナさんと、ルナは任せてください」
ミコトは頷いた。それから、小さく言った。
「それと、ヴァンさん、どうか気をつけてください」
おれは頷いた。ハリエットがいる。エインとウォールも残った。ここは大丈夫だと思った。おれとハリス、つばめ先生は、オーレリアについて森の中へ入った。
*
クリスは、木の根元に座り込んでいた。
顔色が悪い。息はしている。けれど、足に力が入っていないようだった。ロイがすぐそばに立っている。剣を抜いて、茂みの方を警戒している。そこには、ローティ、アディ、イネヴェアの班も来ていた。
「先生」
ロイがつばめ先生を見た。
「動かしていない?」
「はい。無理に立たせない方がいいと思ったので」
「それでいいわ」
つばめ先生は、クリスの前にしゃがんだ。脈を見る。顔を見る。足を見る。質問をする。おれは少し離れて見る。今は先生の仕事だ。
「痛むところは?」
「……ない、です。でも、足と、腰が……」
「驚いたのね。無理に立たない方がいいわ」
つばめ先生は、短くそう言った。アディが、クリスの手を握っていた。泣きそうな顔をしている。クリスも、その手だけは握り返していた。
イネヴェアが前へ出た。指先を胸の前で揃え、短く息を整える。円を描くように指先を動かし、中央に点を打つような動きをした。
「軽き盤よ、荷を受け、我が歩みに従え。荷運びの浮盤」
薄い円盤が、クリスのそばに浮かんだ。
「先生、これを」
「ええ。クリスさんを乗せます。イネヴェアさん、あなたは私について来て」
「はい」
つばめ先生は、クリスをすぐに立たせなかった。おれとロイに支えさせ、ゆっくり浮盤へ移した。イネヴェアは操作に集中していた。アディは、最後までクリスの手を離さなかった。オーレリアは記録を続けている。
「あなた達は、ハリエットさん達の所へ合流してから、一緒に野営地へ戻りなさい」
つばめ先生はそう言って、クリスを乗せた浮盤と一緒に動き出した。イネヴェアがその横につく。アディもついて行った。オーレリアも、しおりを握ったまま後に続いた。
残ったのは、おれとハリス、ロイ、ローティだった。
おれは、少し先の地面を見た。大きな跡があった。土が深くえぐれている。下草が倒れ、湿った地面に蹄の跡が残っていた。普通のイノシシより、ずっと大きい。それに重い。
「戻るか?」
ローティが言った。ハリスは少しだけ眉を寄せた。
「先生の指示は、戻れ、です」
「他の生徒が出会うと危ない。向きだけ見てくる」
おれは言った。ロイも剣を納めなかった。ローティは少し迷っていた。ハリスは、足跡を見た。
「安全確保のためなら、位置確認までは同行します。交戦は避けます」
「それはそうかも知れないが、狩れば夕食にもなる」
ロイの言葉に、ローティが笑った。
「いいな、それ」
「だから、安全確保のためです」
「分かった。行くぞ」
おれは走った。
*
跡は濃かった。土が返っている。根が削れている。木の皮に泥がついている。獣の匂いもあった。重くて、濃い。通った後の茂みは、枝が折れている。追跡は容易だ。おれが先に行く。ロイとローティが後ろ。ハリスは少し遅れるが、大きく離れはしない。
やがて、森が少し開けた。広がる視界、草がまばらに生えた空き地。そこに獲物はいた。
イノシシ。でも、大きい。
それは小型の馬ほどあった。背が高い。肩が盛り上がっている。根か芋のようなものを探しているのか、地面を掘り返している。幸いにも、こちらが風下だ。こっちにイノシシが気付く様子はない。
ローティが小さく息を呑んだ。
「思ったよりでけえな」
「何をしているんでしょうか?」
ハリスが言った。おれはよく観察した。何を掘っているのかを見た。ゴミだ。おやつの包み紙を、誰かが埋めたんだ。断続的に掘り返した跡が残っている。その向かう先は……。
「ハリス。あいつ、野営地まで行くぞ」
「ゴミですか……。交戦回避は、難しそうですね」
ハリスがため息を吐いた。
「放置すれば、みんなに危険が及ぶ。なら、その前に倒すしかない」
ロイが言った。
「お肉も、みんな喜ぶ」
ローティが言った。
「倒すには、足止めが要る」
おれは周りを見た。木。段差。蔓。枝。二本の樹木の間に、段差があった。あそこなら、跳び下りるしかない。必ず、着地の隙ができる。
「あれが使える」
おれが言うと、ハリスが頷いた。
「罠を作ります」
そこからは早かった。ロイが太い枝をしならせる。ローティが蔓と縄を引く。ハリスが角度を見る。おれは二本の木と段差の距離を測った。太い枝の先に、三本のスパイクをつける。角度を変えて、どう当たっても刺さるようにする。係留ロープを張る。ハリスが切れば、枝が振れて、スパイクの先で叩く仕掛けだ。おれが段差を飛び越えた後、着地の瞬間に当てる想定だ。ハリスはロープの位置を確かめた。
「ここで待つので、誘導をお願いします」
ロイが頷きながら、イノシシの位置を確かめる。まだ何か掘り出していた。
「私が最初に出て、後ろから驚かせる」
「俺はその次、横から出る」
ローティが言った。おれは、段差の向こうを見た。まだ風向きは変わってない。いける。
「こっちに回せば、最後はおれが引く」
「トドメは?」
ローティが尋ねた。一撃で仕留められる確証が無い。イノシシは、死んだふりをする可能性もある。安全と確実を選ぶべきだ。おれは即答する。
「全員で」
三人がうなずいた。ロイが先に動いた。慎重に遠回りして、背後方向へ回り込む。ローティも同様に反対側へ行く。おれも、茂みに隠れて距離を詰める。襲うタイミングは、ロイ任せだ。別にそういう約束はしていないが、この作戦なら、言わなくてもロイが動かないと始まらないことぐらい、みんな分かっている。ロイが動くまで待つ。
風が止んだ。
ロイが飛び出た。低く、横から。剣を振り上げ、雄叫びを上げる。獣が顔を上げる。土のついた牙が見えた。イノシシが反射的に動いた。相手を確かめてから逃げてるんじゃない。本能で動いた。それは逃げるように見えたが、ちがう気がした。
その先に、ローティがいた。
違う。やっぱり逃げない。驚いただけで、こいつの戦意は消えてない。ローティが危ない。
「ローティ!」
イノシシが突っ込む。ローティが跳んだ。牙がかすめた。服が裂れる。血が少し飛んで、転がった。うまい。あれは自分から吹っ飛んでいる。見た目ほど大した怪我じゃない。
うなり声を上げて、突っ切ったイノシシが方向転換して戻って来る。このままではローティが踏み潰される。
おれは足元の石を拾った。振りかぶっている時間はない。そのまま片足を前に出して、拾う動きを殺さずに、そのまま身体を一回転させる。石を拾った腕の水平回転を、勢いを殺さずに、そのまま肩を使って垂直回転に変える。石の弾道が例えブレても、上下の角度に収まるように微調整する。イノシシの顔面を狙う。正中線は外さない。眉間でも鼻先でも構わない。威力は無くて構わない。気を引くために、嫌がる所に当たりさえすればいい。おれは石を投げた。
当たった。
獣の目が、おれを向いた。来る。そう予感するよりも早く、おれは走った。二本の樹木を目印に、その間にある段差へ向かって。
さっき、ローティに突進かました速度を見る限り、おれの足でも逃げ切るのは難しい。でも、追いつくまでに数秒は掛かるはずだ。背中で音が大きくなる。近い。首筋に鼻息を感じるほど、近い。実際、それぐらいヤバかったのかも知れないが、後ろを見ているヒマはない。見たらやられる。
跳ぶ。
飛び降りて、罠の来る場所を越えて、地面を転がる。ハリスが、計算を間違えて罠を発動させなければ、おれは死ぬか大怪我をする。その罠が正常に可動しなければ、おれは死ぬか大怪我をする。その罠が、イノシシの動きを止めることができなければ、おれは死ぬか大怪我をする。これは、ちょっとしたスリルだ。楽しいと思ってはいけない何かだとは思う。でも、心が高揚した。生きている感じがした。一番、死ぬかもしれない時に、生きている感じがするのは、変な気持ちだ。
次の瞬間、後ろで重い音がした。
「今!」
ハリスが係留ロープを切っていた。しなっていた太い枝が振れて、三本のスパイクが、巨大なイノシシの胸元へ入っていた。重たい打撃音に紛れて、スパイクが運良く二本も刺さった音が混じっている。
イノシシの足は止まった。でも、命は終わらない。まだ動く。今にでもスパイクの罠を圧し折って、追い掛けて来そうだ。おれは地面を転がりながらも、背後を振り返った。一瞬で可能な限り、情報を把握しようと全体を俯瞰する。
ロイが追いついた。あの位置からは脇腹が狙える。ハリスは、おれたちが移動している間に、長い棒の先にダガーを括り付けていた。即席の槍だ。あれは正面から、喉か肩口を突くことになるだろう。ローティの姿は見えないが、声は聞こえる。たぶん、もう起き上がって追いかけて来てる。それなら、段差の上から跳んでくる。だとすれば尻か背中を狙える。おれは、その隙に合わせよう。
「おおおっ!」
ロイが、側面から腹に剣を叩き込む。だが心臓までは遠い。間髪入れずに、ハリスが正面から踏み込む。ダガーを括り付けた棒、即席槍で喉を狙って突き込む。しかし、イノシシが身じろいで肩口に刺さった。おれはダガーを抜いて走り込む。
「そのままっ!」
ロイとハリス、二人がそのまま抑えてくれたら最高だ。しかし、いくら二人分の力でも、このイノシシは抑えられないだろう。それでも一瞬で構わない。ローティが後ろから飛び掛かりやすくなる。
「らあっ!」
背中へ、期待通りの一撃。ロ―ティの全体重を乗せた突き込みだ。
イノシシが仰け反って、猛烈に暴れた。ロイが飛ばされて、樹にぶつかった。ローティは剣にしがみつく。ハリスの持つ槍は折れた。
「ハリス、背中ッ!」
その背中を借りる。踏んで、跳ぶ。一瞬だけ、イノシシと目が合った。
眉間。
ダガーを突き込んだ。刺すではなく、砕いて、捻じ込む。
大きく育ったイノシシの頭蓋骨は、癒着して、眉間には骨と骨の隙間がない。それでも、割りやすい目がある。差し込みやすいスジがある。
残るは、最後まで貫く。その意志だ。
「おらぁっ!!」
おれは気合と共に、突き抜いた。
イノシシが大きく跳ねた。
ローティが吹き飛ばされた。おれも弾かれた。上に飛ばされ、樹の枝で背中を打った。そのまま落ちて地面を転がる。何とか受け身はとった。土の匂いがした。腕が痛い。息が詰まる。だが、まだ戦いは終わってない。おれは手近にあった石を拾う。起き上がる。
イノシシは立っていた。まだ倒れていない。全身から血を流しているが、歩く。よろめく。
一歩。
もう一歩。
そして、倒れた。
地面が揺れた。動かない。
誰もすぐには喋らなかった。ロイが起きる。ローティも起きた。
風が吹いた。動かない。
腕に血がにじんでいる。ハリスは、折れた棒を握ったまま、倒れた獣を見ていた。
虫が鳴いている。イノシシは動かない。
遂にイノシシは死んだ。
おれ達は、イノシシを狩った。
握っていた石を捨てて、おれは安堵の息を吐く。
「イノシシか?」
ローティが言った。
ハリスは答えなかった。近づいて、牙を見る。脚を見る。毛を見る。瞼を開いて、目を見る。
それから、顔を上げた。
「これ、イノシシじゃない。たぶん、ダイア・ボア。……魔物だ」
ローティが、倒れた獣を見た。
「マジかよ……」




