第四十二話 苦くて甘い
八月十八日、銀狼曜日。
林間学校の三日目になった。
昨日の夕食は、学院から持ってきた保存食に、森の授業で集めた山菜や木の実を少し足したものだった。硬いパンと干し肉だけになるのかと思っていたけれど、温かい汁物があったので、思っていたよりちゃんと夕食だった。レオナさんも、わたし達と同じものを食べた。チャミーさんが用意した特別な食事ではなく、みんなと同じ椀を受け取り、みんなと同じ火のそばで、少しずつ口に運んでいた。量は多くなかったけれど、レオナさんは最後まで残さなかった。
今朝の朝食も、残っていたパンと干し肉、乾いた果物、それから薄いスープだった。寄宿舎の食堂みたいに、次から次へ料理が出てくるわけではない。食べたら、その分だけ減る。考えてみれば当たり前のことなのに、学院にいる時は、あまり意識していなかった。
朝食後、集合場所でジークハルト先生が、わたし達にサンドイッチを配った。
「これで、持ってきた食糧はほぼ終わりだ」
先生がそう言うと、何人かの手が止まった。
「終わり?」
ローティさんが、受け取ったサンドイッチを見下ろした。
「塩、油、調味料、茶葉、それと予備の非常食は教師側で預かっている。だが、おまえ達に配る食料は、昼食のそれで最後だ」
「これが昼食で、最後の食料……、つまり、夕食は?」
「現地調達」
ジークハルト先生は、当然のように言った。
「林間学校なんだ。何を学びに来たと思っている」
それは、たしかにそうかもしれない。けれど、急に手元のサンドイッチが貴重なものに見えてきた。残っているのは、最低限の調味料と茶葉だけ。それから、みんながそれぞれ持ってきたおやつくらいだった。
「ローティさん、おやつなら、少しありますから」
ハリエットさんが、いつも通り優しい。
「わたくしも、おやつを持って参りました」
レオナさんは、小さな箱を両手で持っていた。
「レオナさん、それは?」
わたしが聞くと、レオナさんは箱を少しだけ開けて見せてくれた。
「苦くて甘い、チョコレートです。チャミーが、疲れた時に少しずつ食べるようにと、持たせてくれました」
箱の中には、小さく切られたチョコレートが、薄い紙に包まれて並んでいた。甘い匂いが、ほんの少しだけする。
「大切なおやつですね」
「はい。でも、皆様の分もあります」
レオナさんは、嬉しそうにそう言った。
その後すぐ、食材確保について説明があった。
「では、これから班ごとに分かれて食材を集める。ただし、単独行動は禁止だ。必ず三人一組で動け」
ジークハルト先生は、わたし達を見回した。
「二人では足りん。一人が怪我をした時、もう一人が助けを呼びに行けば、怪我人が一人で残る。逆に、その場に残れば助けを呼べない。三人いれば、一人が付き添い、一人が知らせに走れる」
先生は、そこで少し間を置いた。
「それだけではない。森の中では、判断を間違えれば危険になる。進むか戻るか、食べられるか捨てるか、渡るか迂回するか。二人だと意見が割れた時に止まる。三人なら、多数決で決められる」
「多数決?」
ローティさんが聞いた。
「そうだ。三人は、多数決で行動を決められる最少人数だ」
班は、ジークハルト先生がその場で分けた。
わたしは、ヴァンさん、レオナさんと一緒だった。どういう基準なのかは分からない。けれど、もしかすると、生存能力が平均的になるように分けたのかもしれない。そう考えると、わたし達の班は、いちばん強いヴァンさんに、いちばん弱い二人を任せた形なのかもしれなかった。さすがはジークハルト先生、わたしの虚弱体質をよくご存じでいらっしゃる。でも、そのおかげで二人と一緒になれたのなら、悪くはないと思えた。
その他の人も、次々とチームに分けられる。
ハリスさん、エインさん、ウォールさん。
オーレリアさん、ロイさん、クリスさん。
ハリエットさん、フェルトンさん、マリアンナさん。
ローティさん、イネヴェアさん、アディさん。
先生の選考基準が良く分からなくなった。それでも、互いに顔見知り同士が、一緒のチームになるよう配慮されている気がした。だとしたら、レオナさんと仲良し筆頭が、わたしとヴァンさんってこと?
「何を集めますか?」
わたしが、ぼーっと考え事をしている間に、レオナさんが言った。
「わたくし、魚釣りを、してみたいです」
「魚釣りですか」
「はい。まだ一度もしたことがないので」
ヴァンさんは短く頷いた。
「なら、小川へ行く」
*
野営地から少し森の中へ入ると、水の音が聞こえてきた。そこは湖のように広く開けているわけではない。木々の間を細く流れる小川だった。岸には石と土が混じっていて、流れの速いところと、少しだけ水が深くなっているところがある。木の影が水面に落ちて、ところどころ暗く見えた。
ハリスさん達の班も、小川へ来ていた。ハリスさんは釣り糸や針の数を確認し、エインさんは小さな桶を持ち、ウォールさんはあまり喋らずに荷物を背負っていた。ハリスさん達は少し下流へ移動していた。姿は見えるけれど、声を掛け合うには遠い。
ヴァンさんは、レオナさんが座れる場所を先に確かめた。水際に近すぎない平たい石、ちゃんと座れるか、足元が滑らないか、自分の靴で軽く押している。
「ここなら大丈夫」
「ありがとうございます」
レオナさんはハンカチを出して広げてから、石の上に座った。ヴァンさんは肩掛け鞄を地面に置いた。鞄の中では、ルナが丸くなっていたはずだけれど、すぐに黒い耳が出てきた。それから顔を出し、周りの匂いを嗅ぐ。
「出てきました」
レオナさんが、少し嬉しそうに言った。ルナは鞄からするりと出て、石の上に前足を置いた。水の音が気になるのか、耳を動かしている。
「遠くへ行くな」
ヴァンさんが言うと、ルナは返事をするみたいに尻尾を揺らした。
「餌を採ってくる。待ってて」
「はい」
ヴァンさんはそう言って、小川の岸を少し上流へ歩いていった。石の下や湿った土のあたりを見るらしい。わたしは竿を並べようとして、荷物の紐をほどいていた。釣り糸が絡まらないように置こうとしたけれど、すぐに一本が別の糸に引っかかって、少し手間取った。その時、ルナが小さく鳴いた。
「みー」
レオナさんが、ルナを見た。
「お腹が空いたのですか?」
ルナはレオナさんの足元に近づき、鼻を動かしていた。お腹が空いているのか、ただ匂いを嗅いでいるだけなのか、わたしには分からなかった。レオナさんは、膝の上の小さな箱を見た。
「少しだけなら……」
わたしが糸をほどいて顔を上げた時、レオナさんはチョコレートの包みを開いていた。小さな欠片を指先に乗せ、ルナの方へ差し出そうとしている。
「おまえ、何してる!」
ヴァンさんの声が飛んだ。レオナさんが、びくっとした。その時には、もうヴァンさんは動いていた。濡れた土を蹴って戻り、レオナさんの手とルナの間に割り込む。次の瞬間には、ルナを抱き上げるようにして、チョコレートから引き離していた。レオナさんの手が、空中で止まった。
「……チョコレートを、ルナさんにも……」
「食べさせるな」
ヴァンさんはルナを胸に抱えたまま、レオナさんの手元を見た。声は低く、頑としていた。
「猫には毒だ。死ぬことがある」
レオナさんの顔から、すっと色が引いた。
「死ぬ……」
「ほんの少しでも駄目な時がある。ルナには絶対に食べさせない」
ヴァンさんは、ルナの口元を確認した。ルナはまだ食べていなかったらしく、ただ不満そうに尻尾を揺らしている。
「大丈夫。まだ、食べていません」
わたしが言うと、ヴァンさんはルナの鼻先と口元をもう一度見てから、少しだけ息を吐いた。
「よかった」
その一言で、ようやく周りの空気が動いた気がした。レオナさんは、割ったチョコレートを手の中に残したまま、俯いていた。
「ごめんなさい。わたくし、ルナさんがお腹を空かせているのだと思って……」
「分かってる」
ヴァンさんはそう言ったけれど、声はまだ硬かった。
「でも、だめなものは、だめだ」
「……はい」
レオナさんは、しゅんとしながら、小さく頷いた。
「好きなものを与えればよい、というわけではないのですね」
ヴァンさんは、ルナを抱えたまま少し黙った。
「ルナには、ルナの食べるものがある」
「はい。覚えます」
レオナさんは、今度ははっきり頷いた。ルナは、そんな空気を知ってか知らずか、ヴァンさんの腕の中で「みー」と鳴いた。チョコレートをもらえなかったことには、少し不満がありそうだった。
それから、釣りの準備を始めた。ヴァンさんは採ってきた小さな虫を餌用の器に入れ、石の上に置いた。レオナさんはそれを見て、少しだけ身を引く。
「これを、魚が食べるのですか?」
「ああ」
「人は、食べませんよね?」
「今日は食べない」
「今日は……」
レオナさんは、少しだけ困った顔をした。ヴァンさんは、何も言わずに餌を針につけた。針を持つ指先に迷いがない。小さな餌を通し、糸を確かめ、竿の先を軽く揺らす。
「ヴァンさんは、釣りもできるのですね」
「爺ちゃんに習った」
「お爺様に?」
「ああ」
ヴァンさんは、餌をつけ終えた竿をレオナさんに渡した。
「糸を垂らす。あまり前に出るな」
「はい」
レオナさんは、石に座ったまま、短い竿を両手で持った。普通の竿より持ち手の下が長く、座ったまま地面に置いて扱えるようにしてある。水面に糸を落とすと、浮きが小さく揺れて、流れに合わせて少しだけ動いた。
何も起きなかった。
「……動きませんね」
「待つ」
ヴァンさんが言った。レオナさんは頷いて、水面を見つめた。しばらくして、また小さく聞く。
「まだでしょうか」
「まだ」
さらに少し待つ。
「魚は、来ないのですね」
「魚にも都合がある」
ヴァンさんが言うと、レオナさんは少しだけ目を丸くした。それから、その言葉を大切にしまうみたいに、小さく頷いた。
「魚にも、都合があるのですね。猫さんと同じように……」
「ああ」
小川の音が続いていた。水が石に当たり、細かく砕ける音がする。わたしは二人の少し斜め後ろに座って、自分の竿を持っていたけれど、浮きを見るよりも二人の声を聞いていた。
「わたくしの祖父も、釣りをなさるそうです」
レオナさんが、ぽつりと言った。
「そうなのか」
「はい。わたくしは一緒に行ったことはありません。けれど、昔は母と一緒に釣りへ行ったことがあると、聞きました」
ヴァンさんは、水面を見たまま黙っていた。
「母は、わたくしを産んで、すぐに亡くなりました」
レオナさんの声は静かだった。
「祖父は、母をとても大切にしていたそうです。母に次いで、孫のわたくしまで死んでしまったら、きっと悲しみます」
小川の音だけが、少し大きく聞こえた。わたしは何も言えなかった。何か言わなければと思ったのに、何を言っても違う気がして、結局、黙っていた。
ヴァンさんも、すぐには答えなかった。
「俺は、父さんと母さんを知らない」
少しして、ヴァンさんが言った。
「いないのですか?」
「いない。顔も知らない」
レオナさんは、ヴァンさんを見た。
「寂しくは、ありませんか」
「分からない」
ヴァンさんは、短く答えた。
「最初から知らないから。でも、爺ちゃんと兄貴がいた」
「そうなのですね」
「ああ」
二人とも、それ以上はすぐに話さなかった。慰める言葉も、かわいそうだという言葉もなかった。ただ、小川のそばで並んで、魚が来るのを待っていた。
浮きが、小さく揺れた。
「動きました」
レオナさんが言った。
「まだ」
ヴァンさんが答える。
浮きが、もう一度揺れる。
「今のは」
「まだ」
レオナさんは、息を止めた。
次の瞬間、浮きが水の中へ沈んだ。
「今」
ヴァンさんが言った。
レオナさんが竿を上げる。竿先が震え、水面が小さく跳ねた。
「引いています……!」
「離すな。強く引きすぎるな」
「はい……!」
ヴァンさんは手を添えすぎなかった。けれど、竿の角度だけを少し直して、レオナさんが魚を逃がさないようにしている。
「少し上げる」
「はい」
「止める」
「はい」
「もう少し」
水面で、小さな銀色が光った。魚は大きくなかった。けれど、レオナさんは両手で竿を握りしめ、真剣に引いていた。やがて魚が岸へ上がると、ヴァンさんがそれを受け止め、小さな桶の中へ入れた。
魚が、ぱしゃ、と跳ねた。
レオナさんはしばらく、竿を握ったまま動かなかった。
「釣れました」
「釣れたな」
ヴァンさんが言った。
レオナさんは、桶の中で跳ねる小魚を見つめた。
「ヴァン様、すごいです」
「今のは、おまえが釣った」
「わたくしですか?」
「おまえだ」
レオナさんの表情が、ぱぁっと花が咲いたみたいに明るくなった。
「ミコト様、見て下さい。このお魚、わたくしが、釣りました」
「はい。レオナさんが釣りました」
わたしが言うと、レオナさんは胸の前で竿を抱えるようにして、小さく笑った。ルナが、ヴァンさんの鞄の中から顔を出した。魚の匂いに気づいたのか、黒い鼻をひくひく動かしている。
「ルナさんは、お魚なら食べられますか?」
レオナさんが聞いた。ヴァンさんは、桶の中の魚を見てから答えた。
「少しなら。骨を取って、味をつけない」
「骨を取って、味をつけない」
レオナさんは、忘れないように繰り返した。
「でも、子猫の間だけだ」
「子猫の間だけ、ですか?」
「ああ。いずれ骨のある魚も食べ慣れさせる。いつか一匹で生きていけるように」
ヴァンさんは、ルナの頭を指先で軽く撫でた。
「ずっと誰かが食べさせるわけじゃない」
レオナさんは、少しだけ黙った。
「一匹で、生きていけるように」
「ああ」
「……はい。覚えます」
レオナさんは、桶の中の魚を見て、それからルナを見た。
「ルナさんには、ルナさんに合ったやり方が、あるんですね」
「ああ」
「わたくし、忘れません」
ヴァンさんは頷いた。
「そうか」
ヴァンさんは「ああ」とか、「そうか」しか言わないのに、わたしには、苦くて甘い、とても優しい言葉に聞こえた。
その時だった。
上流の方から、足音が近づいてきた。小枝を踏む音と、少し慌てた息遣い。振り向くと、オーレリアさんが森の中からこちらへ走ってくるところだった。
しおりを片手に持ったまま、髪を少し乱している。
「大変なのよぅ!」




