第三十九話 おそろい
八月十六日、鳳凰曜日。
朝の学院正門前は、夏休み中とは思えないくらい賑やかだった。七月二十五日から授業はなくなっているはずなのに、今日は林間学校に参加する生徒達が、大きな荷物を抱えて集まっていた。
学院の正門の外には、生徒用の乗合馬車が六台、荷物用の荷馬車が二台、それから先生方が使う小型の馬車が一台、道に沿って整列していた。玄関前の噴水ロータリーには入らず、外側で出発の時を待っている。
荷馬車の方には、木箱、布袋、毛布、鍋、調理道具、折り畳み式の台、予備の縄、雨具らしい油布が積まれている。太い荷縄が木箱を押さえ、縄の結び目には、ほどけないように小さな木片が差し込まれていた。車輪の軸には油が差されていて、近くを通ると、木と革と鉄と油の匂いが混ざっていた。
馬達も、いつもの学院の馬車で見るより多かった。馬具には革の胸当てがあり、轡の金具が揺れるたびに小さく鳴る。馬が鼻を鳴らすと、近くにいた生徒が少し驚いて後ろへ下がった。御者さんが笑いながら、「近付くと蹴られっぞ」と注意している。
そのため、生徒達は正門の内側、玄関前の噴水の周囲に集まっていた。噴水の縁には荷物を置く子がいて、少し離れた石畳の上では、班ごとに人数を確認している。噴水の水音と、正門の外から聞こえる馬の鼻息や車輪の軋む音が、朝の空気の中で重なっていた。
集まっている生徒達は、いつもの制服ではなかった。動きやすい上着に、丈夫なズボン。足元は革の編み上げ靴で、手袋や帽子を荷物に差している子もいるし、中には帯剣している生徒もいる。女子生徒の中にも、長い裾の服ではなく、森を歩くための短めの外衣を着ている子が多かった。
わたしも、今日はいつもの服より少し動きやすい格好をしていた。慣れない靴は少し硬かったけれど、ハリエットさんが、林道を歩くなら足元だけはきちんとした方がいいと教えてくれたので、今朝は何度も紐を結び直した。歩いている途中でほどけたら困る。そう思って強く結んだら、少し締めすぎた気もする。
学院の正門前にいるのに、すでに少しだけ学院ではない場所に来たみたいだった。
正式な集合の号令がかかる前、ハリエットさんが小さな布包みを抱えて、わたし達のところへやって来た。
「皆さん、少しだけよろしいですか」
ハリエットさんの声は、いつもより少し緊張していた。包みを両手で抱えている。その仕草がとても大事そうだったので、わたし達は自然に輪になるように集まった。
「出発の前に、お渡ししたいものがあります」
「お、あれか?」
ローティさんがすぐに身を乗り出した。ハリスさんは、少し離れたところから荷馬車の方を見ていたけれど、ハリエットさんの包みを見ると、静かにこちらへ戻ってきた。ロイさんも、オーレリアさんも、ヴァンさんも集まる。
ハリエットさんは包みを開いた。
中に並んでいたのは、小さな黒猫のマスコットだった。手のひらに乗るくらいの大きさで、黒い布の中に綿が詰められている。耳の角度や尻尾の上がり方が一つずつ少し違っていて、同じ猫なのに、どの子も少しだけ表情が違う。
首の後ろには細い組紐が付いていた。首輪ではない。首の後ろからすっと伸びていて、鞄や腰紐に結べるようになっている。その組紐も、全部同じ色ではなかった。
「ルナさんです」
ハリエットさんが、少し恥ずかしそうに言った。
「本物のルナさんとは違いますけれど、みんなで持てるように、小さく作りました」
「すごいのよぅ……」
オーレリアさんが、思わずというように呟いた。
最初に渡されたのは、わたしの分だった。紫黒と濃い紫を組み合わせた組紐が、首の後ろから細く伸びている。
「これ、わたしのですか」
「はい。ミコトさんの分です」
ハリエットさんが、わたしの手のひらに小さなルナを乗せてくれた。柔らかい。顔は単純なのに、どこか本物のルナみたいに、こちらをじっと見ている気がした。わたしは、首の後ろから伸びる組紐をそっと見た。
「素敵です」
そう言ってから、胸の奥が少し熱くなった。
「レオナさん、頑張りましたね」
わたしがそう言うと、ハリエットさんは優しく頷いた。
「はい。体調の良い時に、少しずつ作ってくださいました」
これは、ただのおそろいではない。レオナさんが、自分の部屋で、みんなの髪と目の色を思いながら作ってくれたものだ。しまい込むより、一緒に連れていく方がきっといい。
わたしは、小さなルナを鞄の紐に結んだ。
次に、ハリエットさんはヴァンさんへ一つ渡した。ヴァンさんの分は、暗い髪色に合わせた糸と、瞳の色を思わせる深い色が組まれていた。
ヴァンさんはそれを無言で受け取り、しばらく見ていた。
その時、ヴァンさんの鞄が、もぞりと動いた。
「みー」
小さな声がした。
わたしが目を向けると、鞄の口から、本物のルナが顔を出していた。中には柔らかそうな布が敷かれていて、ルナはそこに丸く収まっていたらしい。外の騒がしさが気になったのか、黒い耳をぴんと立てて、ヴァンさんの手元を見ている。
「ルナ、そこにいたんですね」
「ああ」
ヴァンさんは当然のように答えた。
「連れてくって言った」
確かに、そう言っていた。けれど、本当に鞄に入れて連れてくるとは思っていなかった。ルナは鞄の中から首だけを伸ばし、小さな自分のようなマスコットへ鼻を近づけた。
くん、と匂いを嗅ぐ。
それから、前足でちょんと触った。
「認められたのよぅ」
オーレリアさんが、妙に真剣な顔で言った。
「そうなんですか」
「少なくとも、攻撃はされていないのよぅ」
ヴァンさんは、小さなルナのマスコットと、本物のルナを交互に見た。それから、いつもより少しだけ丁寧な手つきで、自分の荷物に結んだ。
「ヴァンさん、どうですか?」
わたしが聞くと、ヴァンさんは短く答えた。
「似てる」
「ルナさんにですか?」
「ああ」
鞄の中のルナが、もう一度だけ小さく鳴いた。
ローティさんの分は、尻尾が少し上がっている子だった。組紐には明るい色が混ざっている。
「俺の、強そうだな」
「猫ですよ」
「強い猫だっているだろ」
ローティさんは、妙に満足そうに自分の荷物へ結んだ。小さなルナが、荷物の横で少し跳ねる。
ハリスさんは、自分の分を受け取ると、すぐに組紐を見た。
「髪と目の色ですね」
「はい。レオナ様が、そう仰っていました」
「よく見ていますね」
ハリスさんは静かにそう言って、金と緑を含んだ組紐を指先で整えた。それから、揺れても傷まない場所を選んで、自分の鞄に結ぶ。そういうところが、とてもハリスさんらしいと思った。
ロイさんは、大きな手で小さなルナを受け取ると、壊さないように本当に慎重に持った。
「これは……俺が持つと、少し小さいな」
「ロイ様が大きいのよぅ」
オーレリアさんが言った。
「それもそうか」
ロイさんは笑って、荷物の留め具に組紐を通した。指が大きいので少しやりにくそうだったけれど、最後まで自分で結んだ。結び終えると、すぐにオーレリアさんの方を見る。
「オーレリアの分は?」
「もちろんあるのよぅ」
オーレリアさんは、自分の分を受け取った瞬間、目を輝かせた。組紐の色を確認し、耳の角度を確認し、尻尾の向きを確認し、すぐにしおりを取り出そうとする。
「記録するのよぅ」
「今ですか」
「配布記録は大事なのよぅ。誰がどの個体を受け取ったか、あとで分からなくなったら困るのよぅ」
「分からなくなるほど同じではないと思いますけど」
「記録者は、分かることも記録するのよぅ」
そう言いながら、オーレリアさんは本当にしおりの余白に何かを書き始めた。ハリエットさんは少し困ったように笑っている。
最後に、ハリエットさんは自分の分を取り出した。自分で作ったものなのに、手にする時には少し照れた顔をしていた。自分の荷物に結ぶと、そこにも小さなルナが揺れる。
わたし達の荷物には、同じ小さな黒猫が付いた。
組紐の色は、それぞれ違う。けれど、それを作った手は同じだった。わたしは、みんなの荷物に揺れる小さなルナを見て、何度も見比べてしまった。
その時、正門の外に並ぶ馬車とは明らかに違う車輪の音が近づいてきた。
四頭立ての馬車だった。生徒用の乗合馬車よりも静かで、揺れが少ない。四頭の馬は毛並みが整っていて、馬具には銀色の飾り金具が付いていた。手綱も革の質から違うように見える。車体は派手すぎないけれど、磨かれた木と金具の形だけで、普通の馬車ではないと分かった。不死鳥と剣。側面には皇家紋章が控えめに入っていた。
皇家の馬車だった。
正門前のざわめきが、少しずつ別の種類のものに変わっていった。
「あれ……皇家の馬車?」
「レオナ皇妹殿下が乗るの?」
「本当に参加されるのか?」
生徒達の視線が、一斉に馬車へ向く。
正門の近くにいた生徒達が、自然に端へ寄った。噴水の周囲に集まっていた子達も、荷物を抱え直して場所を空けていく。誰かが慌てて噴水の縁から降り、誰かが友達の袖を引いて下がった。
皇家の馬車は、正門を抜けて噴水ロータリーへ入ってきた。
四頭の馬が、噴水を囲む石畳の道をゆっくりと進む。車輪は大きく回り込み、噴水を半周するようにして玄関前へ向かった。御者が手綱を引くと、馬達は揃って足を止めた。馬車は、学院の玄関前に静かに停まった。
その少し後で、学院の玄関扉が開いた。
先に現れたのは、四人の護衛兵だった。兵士達は左右に分かれ、玄関から馬車までの間に立つ。大きな声で命じるわけではない。ただそこに立つだけで、生徒達はもう一歩ずつ下がった。玄関から馬車まで、はっきりとした道ができる。
「護衛までいる……」
誰かが、小さく呟いた。
その道を通って、レオナさんが姿を見せた。その左手前には、ベイオベア卿がいた。大柄な体に野外用の外套をまとい、半歩先で周囲を確認している。さらに右手後ろには、チャミーさんが付き添っていた。レオナさんの歩幅に合わせ、身体の前で手を重ね、目を伏せている。
レオナさんは、わたし達とは違う服を着ていた。
野外活動用の上着でも、丈夫なズボンでもない。淡い色の、柔らかい布で仕立てられたドレスだった。裾は移動の邪魔にならないよう整えられているけれど、明らかに林道を歩くための服ではない。肩には薄い羽織物が掛けられ、髪もきちんと結われている。足元も歩けるようには整えられていたけれど、やっぱり、わたし達とは違った。
綺麗だった。
けれど、その綺麗さは、森へ行くための服を着た生徒達の中で、少しだけ浮いていた。馬車も違う。服も違う。護衛もいる。
レオナさんは、林間学校に来た。でも、同じ場所に立った時点では、まだ同じとは言えなかった。
生徒達のどよめきが、正門前に広がっていく。驚きと好奇心と、少しの緊張が混ざった声だった。レオナさんはその視線を受けて、ほんの少しだけ肩を縮めた。チャミーさんが羽織物の位置を直す。
その時、ハリエットさんが、残っていた小さな包みを胸に抱え直した。
「行ってきます」
ハリエットさんは、小さくそう言った。
「ハリエットさん」
わたしが呼ぶと、ハリエットさんは振り返って、静かに頷いた。
「レオナ様にも、お渡ししないと」
ハリエットさんは、背筋を伸ばして、レオナさんの方へ歩いていった。
護衛の兵士達が一瞬だけ反応したけれど、ハリエットさんを見て、何も言わなかった。
チャミーさんは、ハリエットさんの手元を見て、表情を柔らかくした。
レオナさんが顔を上げる。
ハリエットさんは、レオナさんの前で丁寧に一礼した。
「レオナ様。おはようございます」
「おはようございます、ハリエット様」
レオナさんの声は、少し緊張していた。でも、ハリエットさんの手元にあるものを見た瞬間、その目が小さく揺れた。
「これを、お渡ししたくて」
ハリエットさんは、小さな包みを開いた。
中にあったのは、小さな黒猫のマスコットだった。レオナさんの分だ。首の後ろからは、細い組紐が伸びている。色は、淡い髪と瞳に合わせたものだった。
ハリエットさんは、それを両手で持ち、まずベイオベア卿の方へ差し出そうとした。
けれど、その前に、レオナさんが小さく首を振った。
ハリエットさんの手が止まる。
ベイオベア卿は何も言わなかった。ほんのわずかに視線を下げ、半歩だけ退く。
レオナさんは、ゆっくりと両手を伸ばして、自ら受け取った。
「ありがとうございます、ハリエット様」
「こちらこそ、ありがとうございます」
レオナさんは、小さなルナを両手で包むように持って、しばらく何も言わなかった。
チャミーさんが、目元を押さえるように少し顔を伏せた。
ベイオベア卿は何も言わなかった。ただ、ほんの少しだけ目を細めたように見えた。
「おそろい……」
レオナさんが、小さく呟いた。
ハリエットさんが微笑む。
「はい。みんなで、おそろいです」




