第四十話 林間学校
教頭先生の声が、噴水ロータリーに響いた。
出発前の注意は、思っていたより長かった。班から離れないこと。勝手な行動をしないこと。体調が悪くなったらすぐに申し出ること。森の中では、見慣れないものに手を出さないこと。火を扱う時は先生の指示に従うこと。どれも大事なことだとは分かるけれど、正門の外にはもう馬車が並んでいる。荷物も積まれている。馬も待っている。しおりも、小さなルナも、みんなの荷物に結ばれている。わたしは、早く出発したい気持ちを、両手で荷物の紐を握ることで抑えていた。
「三泊四日です。今日から八月十九日まで、学院の外で集団生活を行います。学生として節度を守り、互いに協力するように」
教頭先生がそう締めると、生徒達の返事が重なった。
「はい!」
それを合図に、馬車への乗り込みが始まった。レオナさんは、皇家の馬車に乗った。ベイオベア卿と、チャミーさんも一緒に乗り込む。護衛の兵士達は、それぞれが馬に乗る。最後まで小さなルナを両手で持っていたレオナさんは、馬車の中に入る前に、こちらを見て小さく笑った。
わたし達も、生徒用の乗合馬車へ向かった。ヴァンさんの鞄の口から、ルナが少しだけ顔を出して、辺りの匂いを嗅いでいる。
「ルナ、揺れても大丈夫でしょうか」
「嫌なら出てくる」
「出てきたら困りませんか」
「困る」
ヴァンさんは、全然困っていなさそうに言った。
馬車が動き出す。学院の正門を出て、まずは西へ向かった。窓の外で、学院の石壁と門がゆっくり後ろへ流れていく。いつもの湖も、いつもの校舎も、少しずつ遠くなる。道は、湖を反時計回りに進んでいった。
最初は学院に近い整った道だった。けれど進むほど、街の気配は薄くなり、湖の広さが目立つようになった。水面は夏の光を受けて明るく、ところどころで風が白く模様を作っている。遠くに見える森の濃い緑と、湖の青が、馬車の窓の中で何度も入れ替わった。
「酔ってないか」
ヴァンさんが言った。
「まだ大丈夫です」
「まだ?」
「大丈夫です」
言い直すと、ハリエットさんが少し笑った。
「無理しないでくださいね。揺れが続くと、あとから気分が悪くなることもありますから」
「はい」
オーレリアさんは、膝の上でしおりを開いていた。
「出発、移動、宿場町で昼食、小休止。そのあと林道を徒歩で移動なのよぅ」
「馬車で最後まで行けないのか?」
ローティさんが聞く。
「野営地までは林道が細くなるので、馬車は途中までです」
ハリスさんが答えた。
「荷物は?」
「共用の重い荷物は荷車で運びます。生徒は自分の分を持つことになります」
「つまり荷物を背負って歩くんだな」
「林間学校ですから」
*
昼前、馬車は街道沿いの宿場町に着いた。そこは、湖を南側へ回り込む途中にある小さな町だった。馬車を停める広場があり、行商人や旅人用の食堂、冒険者ギルド連盟の出張所、馬の水場、荷を置くための屋根付きの場所が並んでいる。馬車の車輪が止まると、生徒達は順番に降りた。馬車を降りるだけで、少し足元がふわふわした。
「大丈夫ですか?」
ハリエットさんが聞く。
「はい。地面が少し動いている気がします」
「動いていません」
ハリスさんが真面目に言った。
「分かっています」
わたし達は班ごとにまとまり、先生達の指示で昼食を取ることになった。宿場町の食堂からは、焼いたパンと煮込みの匂いがしている。生徒達はそれだけで少し元気になったように見えた。
レオナさんの馬車も、少し離れた場所に停まった。ベイオベア卿が先に降りて周囲を確かめる。護衛の兵士達が馬車の脇に立ち、チャミーさんが手を貸しながら、レオナさんはゆっくりと降りた。長く馬車に揺られていたせいか、少し顔色が白いように見えたけれど、こちらに気づくと小さく手を振ってくれた。
昼食の席は、完全に同じではなかった。レオナさんは、風の通る日陰の席に案内され、チャミーさんが水を用意している。つばめ先生が近くで顔色を見ていた。けれど、レオナさんの手元には小さなルナのマスコットがあった。わたし達の荷物に揺れているものと同じ、小さな黒猫。まだ、どこに結び付けるか決めかねているのか、ずっと手に持っていたようだった。それだけでも、わたし達との距離が縮まったように見えた。
問題は、そのあとだった。食後の小休止中、ヴァンさんの鞄が、また動いた。
「みー」
鞄の口から、ルナが顔を出す。わたしは慌てて周囲を見た。生徒達は昼食後で少し気が緩んでいる。ローティさんは気づいて笑い、オーレリアさんはすぐに記録しようとした。ハリエットさんは、見つかったら怒られるのではないかと、焦った顔をしている。
そして、つばめ先生がこちらを見た。ばっちり見つかってしまった。
「ヴァン」
声は静かだった。ヴァンさんは、鞄の口を閉じようとはしなかった。
「何ですか」
「その鞄」
「兄貴にもらった」
「そうじゃない。中にいる子」
「ルナです」
隠す気が全然なかった。つばめ先生は、少しだけ目を細めた。軽く息を吐く。それから近づいてきて、鞄の中を覗く。ルナは逃げも隠れもせず、鞄の中から、つばめ先生を不思議そうに見上げた。
「どうして連れてきたの」
「ルナを置いてけない」
つばめ先生は、少しだけ額に手を当てた。
「猫は、林間学校の参加者ではありません」
「学院の生徒でもない」
「そうだったわね。野生って事になってるのよね」
つばめ先生は、ルナを見て、それからヴァンさんを見た。
「それでも、逃がさないこと。体調を崩させないこと。食べさせてはいけないものを食べさせないこと」
「分かった。ルナは逃げない。体調も見守る。餌もちゃんとする」
「それから、勝手に増やさないこと」
「増えるの?」
「交尾させるなってこと」
わたしは、ちょっと驚いた。さすがは保健の先生。
「まだそんな年齢じゃない」
でも、普通に返すヴァンさんにも、ちょっと驚いた。
「それもそっか……」
つばめ先生はそう言って、鞄の中のルナをもう一度見た。もう丸くなって寝ている。
「大人しい子ね」
「ルナだから」
ヴァンさんは、理由になっているような、なっていないようなことを言った。つばめ先生はそれ以上追及しなかった。
*
小休止が終わると、馬車は宿場町に残された。ここから先は、林道を徒歩で移動することになる。共用の重い荷物は荷車に積み替えられ、先生達が数を確認していた。生徒達は自分の荷物を背負い、班ごとに並ぶ。
その時、レオナさんのために用意されていた籠が出された。ただの荷籠ではない。人が腰掛けられるように内側に椅子があって、日差しを避けるための小さな屋根が付いている。薄い布の覆いと膝掛けも用意され、持ち手は太く、四人で担ぐように作られていた。護衛の兵士四人が、その籠の前後左右についた。
レオナさんは、最初だけ少し歩こうとした。けれど、つばめ先生が顔色を確認し、チャミーさんが小さく首を振ると、レオナさんは素直に頷いた。
「では、お願いします」
レオナさんはそう言って、籠に乗った。兵士達は声を掛け合いながら、ゆっくりと籠を持ち上げた。揺れはほとんどない。歩幅を合わせ、道の凹凸を避け、木の根がある場所では少し速度を落とす。四人で担ぐのは、重さのためというより、揺らさないためなのだと思った。
林道に入ると、空気が変わった。街道の硬い音が遠ざかり、足元は土と落ち葉になる。木々の間から差し込む光が揺れ、鳥の声が近くなった。馬車で進んでいた時より、ずっと林間学校らしい。けれど同時に、道は思っていたよりも歩きにくかった。
少しの根。小さな石。わずかな傾き。普段なら気にしないようなものが、荷物を背負っていると全部足にくる。特に、運動不足のふくらはぎと、ふとももと、足の裏にくる。要するに全部なのだ。
「ミコトさん、大丈夫ですか?」
ハリエットさんが振り返った。
「はい。大丈夫です」
たぶん、大丈夫な顔はしてないけれど。
「本当に?」
「今度は、まだ、を付けませんでした」
ハリエットさんは、少しだけ笑った。
前の方を、レオナさんの屋根付きの籠が進んでいく。布の覆いが揺れ、その中から小さなルナのマスコットが少しだけ見えた。レオナさんが手元に置いているのだろう。ローティさんが、その籠をじっと見ていた。いつものように何か言い出すかと思ったけれど、今は何も言わなかった。
*
午後、野営地に着いた。
森の中に開けた平地だった。周囲には木々があり、少し離れたところから小川の音が聞こえる。地面は比較的平らで、すでに教師達が区画を確認していた。炊事に使う場所。テントを張る場所。荷物を置く場所。怪我人や体調不良者を休ませる場所。しおりで見た文字が、目の前で本物の場所になっていく。
レオナさん用の結界小屋は、野営地のすぐそばには作られなかった。生徒達への影響を避けるため、テント設営地からは見えない、林の向こう側の丘の上に用意されるのだと聞かされた。
ベイオベア卿は、荷の中から細長い筒を取り出した。中には、結界小屋を作るための魔法の巻物が収められているらしい。小屋そのものを運んできたのではなく、指定した場所に術式で作るのだと、オーレリアさんが小さく教えてくれた。
その準備のため、ベイオベア卿と護衛の兵士達はいったん林の方へ向かうことになった。チャミーさんも、寝具や薬箱の置き場所を確かめるためについていく。
「姫様、少しの間、こちらで皆様とお待ちくだせえまし」
チャミーさんが言った。
「はい、チャミー」
レオナさんは頷いた。ベイオベア卿は、わたし達の方を見た。
「無理はさせぬように」
それだけ言うと、護衛の兵士達を連れて林の方へ向かった。チャミーさんも一度だけ振り返り、それから後を追う。やがて一行が木々の向こうへ消えると、テント設営地には、わたし達生徒と、レオナさんだけが残った。
そのあと、ジークハルト先生の指示で、テント設営訓練が始まった。先生は、最初に見本を見せた。支柱を立て、布を広げ、杭を打ち、縄を張る。雨が流れる向き、風を受ける向き、入口の位置、地面の傾き。思っていたより考えることが多い。布を広げて棒で支えれば終わり、というものではなかった。
「野営で寝床を作れない者は、翌日まともに動けない。まともに動けない者は、仲間の足を引っ張る。だから、まず確かな寝床を作れ」
説明は、とても分かりやすかった。少し怖かったけれど。
班ごとにテントを張ることになり、わたし達も作業を始めた。ロイさんが支柱を持ち、ヴァンさんが杭の位置を見て、ハリスさんがしおりと先生の説明を照らし合わせる。オーレリアさんは手順を読み上げ、ハリエットさんは縄の結び方を確認し、ローティさんは勢いよく杭を打った。
勢いよく打ちすぎて、一本目の杭は少し斜めになった。
「ローティ」
ヴァンさんが言った。
「なんだよ」
「曲がってる」
「地面が悪い」
「杭が悪いのではなく、打ち方です」
ハリスさんが静かに言った。
「おまえ、こういう時だけ正確に刺してくるよな」
「杭よりは正確に刺さったようで何よりです」
「今の、うまいこと言ったつもりか?」
「事実を述べました」
少しだけ笑いが起きた。
レオナさんも、わたし達のそばにいた。もちろん、重い支柱を持ったり、杭を打ったりはしない。けれど、ハリエットさんが軽い紐を渡すと、レオナさんはそれを両手で持って、必要な時にこちらへ渡してくれた。
「レオナさん、そこの短い紐をお願いします」
「はい」
レオナさんは真剣な顔で紐を選び、わたしに渡してくれた。ほんの小さな役目だったかもしれない。でも、その時のレオナさんは、ただ見ているだけではなかった。
わたしは受け取った紐を結ぼうとして、すぐに手が止まった。結び方が分からない。
「ミコトさん、そこは逆です」
ハリエットさんが隣で教えてくれた。
「逆?」
「こちらを下に通して、それから引きます」
「こうですか?」
「それだとほどけます」
「すいません」
結局、ハリエットさんが結び直してくれた。オーレリアさんはその横で、しおりの余白に「結び方、図解が必要」と書いている。わたしの失敗が、来年以降の誰かを助けるかもしれない。そう思うことにした。
何度かやり直しながら、ようやくテントが立った。少し歪んでいる気もするけれど、立っている。風で倒れないかは、ジークハルト先生が確認することになった。先生は無言で近づき、縄を一つ引き、杭を一つ見て、入口の位置を確認した。
「六十点」
低いのか高いのか分からない点数だった。
「寝るだけなら使えるが、雨が降れば文句を言うことになる」
「どこが悪いですか」
ハリスさんが聞く。
「張りが甘い。杭の角度が揃っていない。入口の向きは悪くない。支柱は安定している。縄の結びは、途中から急にまともになった」
誰も言わなかったけれど、途中からハリエットさんが結んだからだと思う。
「やり直しですか?」
ロイさんが聞くと、ジークハルト先生は少しだけ口の端を動かした。
「当然だ」
ローティさんが小さく呻いた。
二度目は、少しだけ早くできた。三度目は、もっと早かった。手順が体に入ってくると、最初よりずっと楽になる。わたしは紐担当、とオーレリアさんが勝手に決めたので、わたしは軽い紐と小物を渡す係になった。レオナさんも、同じように紐を選ぶのを手伝ってくれた。結局、ルナのマスコットは、どこに結んだのか。ちょっと気になりながら、時間は流れた。
*
夕方近くになって、ようやくテント設営訓練は終わった。
全員、かなり疲れていた。ローティさんは地面に座り込み、ロイさんは肩を回し、オーレリアさんは手が疲れたと言いながらも記録を書いている。ハリエットさんはまだ余裕があるように見えたけれど、額には少し汗が浮いていた。ヴァンさんは周囲の杭をもう一度見ている。ハリスさんは、手順の改善点をしおりの余白に書き込んでいた。
レオナさんも、少し疲れた顔をしていた。それでも、すごく嬉しそうだった。
「楽しかったです」
レオナさんがそう言った時、わたしは少しだけ胸が詰まった。その一言が聞けただけで、来て良かったと思えた。
その時、林の方からチャミーさん達が戻ってきた。ベイオベア卿と護衛の兵士達も一緒だった。結界小屋の準備が終わったのだと思う。チャミーさんはレオナさんの顔を見るなり、泣きそうな顔になった。
「レオナ様、少しお休みくだせえまし。お顔の色が……」
「はい。分かっています」
つばめ先生もやって来て、レオナさんの様子を確認した。額に触れ、呼吸を見て、静かに頷く。
「今日はここまでにしましょう」
ベイオベア卿も頷いた。
「姫様、本日はここまでにいたしますぞ」
「はい、ドルガン」
レオナさんは素直に頷いた。けれど、立ち上がる前に、わたし達の方を見た。
「また明日も、一緒ですよね」
「はい」
わたしはすぐに答えた。
レオナさんは、安心したように笑った。
護衛の兵士達が屋根付きの籠を用意する。チャミーさんが膝掛けを整え、小さなルナのマスコットをレオナさんの手に持たせた。レオナさんは名残惜しそうにわたし達を見てから、籠へ乗った。
籠はゆっくりと林の方へ向かう。チャミーさんが横につき、ベイオベア卿と護衛の人達がその周囲を固める。やがて一行は木々の向こうへ入り、見えなくなった。
同じ林間学校に来ている。
同じ空の下にいる。
同じしおりを持って、同じ小さなルナを持っている。
けれど夜になると、レオナさんは、わたし達のテントではなく、林の向こう側へ戻る。そこは、ここから見えない場所だ。見えないというだけで、その距離は、思っていたよりも遠く感じられた。
わたしは、木々の向こうへ消えていく籠に向かって、小さく言った。
「おやすみなさい。また明日」




