第三十八話 残された時間
マリアンナ・エメスフルは、校内新聞の取材帳を持ち歩いていた。
廊下で交わされる小さな噂。食堂の隅で急に声を潜めた会話。教師が何気なく落とした予定の一言。そういうものを拾い集め、形にして、校内新聞の記事にする。それがマリアンナの日課だった。将来は新聞記者になるつもりでいるし、そのための練習として、今の学院ほど都合のいい場所はない。事件も、人間関係も、噂も、失敗も、変な流行も、毎日のようにどこかで起きている。
その取材帳に、最近よく出てくる名前があった。
ミコト。
転校前に湖で事故を起こした和之国の少女。途中から学院に入ってきた、眼鏡の下級生。最初から妙な子だとは思っていた。言葉も、常識も、反応も、どこか少し違う。それだけでも十分に記事の種だったのに、旧塔の事件で、名前はいっそう目立つようになった。禁書。消えた記録。誰かの声。そこに、アーノウズの巫女、という呼び名が加わった。
その呼び名を広めた一人は、マリアンナ自身だった。
最初は、少し面白い噂のつもりだった。旧塔の件に関わった下級生が、恋愛の女神アーノウズの声を聞いたらしい。そういう話は、人の口から口へ移るには十分すぎるほど甘くて、怪しくて、面白い。けれど噂は、広がるうちに勝手に形を変え、大きくなっていく。そこへさらに、マナ殿下とマギ殿下がミコトを呼び出した、という話が加わった。
皇族が動いた。
そこから、マリアンナの取材は始まった。
学院は七月二十五日から夏休みに入っていた。授業はない。それでも、林間学校を控えた生徒達や、寄宿舎に残る生徒達の出入りがあるせいで、校舎は完全に静まり返ってはいなかった。
【七月二十六日、鳳凰曜日。午後。教室】
取材対象、オーレリア。
林間学校用の小冊子を作成中。
マリアンナの取材帳には、そう書かれた。教室の隅で、オーレリアは何枚もの紙を並べていた。いつもの手帳とは別に、小さな冊子のようなものを作っている。表紙らしきものには、林間学校、と大きく書かれていた。
「それ、校内新聞に載せてくれる原稿?」
「先輩、違うのよぅ。林間学校のしおりなのよぅ」
「しおり?」
「予定と、持ち物と、班の名前と、行く場所と、あとで思い出を書ける欄を一冊にまとめたものなのよぅ。ミコトさんの案なのよぅ」
「何日分?」
「八月十六日から十九日まで。三泊四日分なのよぅ」
紙には、持ち物、予定、注意事項、自由記入欄、一言欄、などの文字が並んでいた。学院に、そういうものを作る習慣はない。少なくとも校内新聞で取り上げられたこともなかった。けれど、予定と記録と思い出を一冊にする、という考え方は、校内新聞を作っている者から見ても悪くない。
「これ、全員分作るの?」
「まずは関係者分なのよぅ。その後で、評判がよければ、来年から正式に採用されるかもしれないのよぅ」
「気が早いわね」
「記録と思い出は、早めに用意した方がいいのよぅ」
オーレリアはそう言って、また紙に向かった。しおりの表紙はまだ仮のものだったが、その横には、頁を増やすための紙束が置かれていた。
【七月二十七日、黒龍曜日。夕方。寄宿舎談話室】
取材対象、ハリエット。
黒い猫のぬいぐるみを製作中。
机の上には、小さな布片と綿と糸が広がっていた。ハリエットは器用な手つきで、黒っぽい布を丸く縫い合わせている。耳らしい三角の布も、いくつか脇に並んでいた。
「今度は猫?」
マリアンナが聞くと、ハリエットは少しだけ手を止めた。
「はい。おそろいのものを作ろうと思いまして」
「一つじゃないのね」
「みんなの分です」
布の数を見れば、一つや二つではないことはすぐに分かる。黒っぽい猫の形をした小さなぬいぐるみ。まだ顔も尾もないものが二つ。耳だけ付いたものが一つ。綿を詰められる前のものがいくつか。作業は始まったばかりだったが、数だけは最初から決まっているようだった。
「誰の猫?」
「ルナさんです」
「ルナ?」
「ヴァンさん達が、とても大切にしている猫さんです」
それ以上の説明はなかった。ハリエットはまた針を動かし始める。小さな猫は、少しずつ形になっていた。
【七月二十八日、銀狼曜日。午後。寄宿舎二階廊下】
取材対象、チャミー。
糸箱を所持。
チャミーは、レオナ皇妹殿下の部屋から出てきたところだった。手には小さな糸箱を抱えている。箱の中には、紫がかった黒の糸と、濃い紫の糸が入っていた。
「それ、何?」
マリアンナが聞くと、チャミーは少し驚いた顔をしてから、小箱を大事そうに抱え直した。
「レオナ様の、お仕事ですだ」
「仕事?」
「毎日、少しずつですだ。無理はさせられねえけんど、レオナ様が、どうしても作りたいと仰いますだ」
箱の中の糸は、ただの飾り紐用には見えなかった。色の組み合わせが妙に具体的で、誰かを思い浮かべて選ばれたもののように見える。チャミーはそれ以上詳しく言わず、ハリエットのいる方へ向かっていった。
【七月三十日、孔雀曜日。昼過ぎ。教室】
取材対象、オーレリア。
天候への懸念。
「でも、当日が曇ったらどうするのよぅ」
その一言で、下級生達の手が止まった。ミコトは口を開きかけて何も言えず、ハリエットは少しだけ眉を寄せる。ハリスはすぐに答えず、手元の紙に視線を落とした。ヴァンは窓の外を見たまま黙っている。ローティは何か言おうとして、ロイに視線で止められた。
「当日って、何の日?」
マリアンナが声をかけると、全員の反応が半拍遅れた。
「林間学校の話なのよぅ」
オーレリアが答えた。
「曇ったら困る林間学校?」
「野外活動ですから、天気は大事なのよぅ」
説明としては間違っていない。けれど、全員が止まった理由としては弱かった。
【八月一日、日曜日。午後。教室】
取材対象、オーレリア。
しおりとは別の図面を作成中。
オーレリアは、しおりとは別の紙に何かを描き始めていた。最初は予定表の付録かと思ったが、近づいてみると、そこには予定表とは思えない線と印がいくつも描かれていた。小冊子の図としては、ずいぶん物々しい。
「それ、しおりじゃないわよね」
「しおりの付録なのよぅ」
「付録に、こんな図面を描くの?」
「必要になるかもしれないのよぅ」
オーレリアは、さらりと言って紙を伏せた。伏せるのが遅かったので、図面の端に、角度、固定、風向き、という文字が見えた。
【八月二日、月曜日。夕方。寄宿舎談話室】
取材対象、ハリエット。
ルナぬいぐるみ、進捗あり。
ぬいぐるみは、前に見た時より数が増えていた。耳が付き、尾が付き、顔が刺繍され、一匹ずつ少しずつ表情が違っていく。ハリエットは、同じ形に揃えようとしているのではなく、それぞれ少しずつ違っていてもいいと思っているようだった。そこへ、チャミーが小箱を持ってやって来た。
「ハリエット様、レオナ様からですだ」
小箱の中には、細い組紐が一本入っていた。紫黒と濃い紫を組み合わせたものだった。ハリエットはそれを受け取り、机の上に並んでいる小さなルナの一つを選んだ。
「これは、どなたの分ですか?」
「ミコト様の分だそうですだ。髪と、お目々の色だと」
「ありがとうございます。では、この子に付けますね」
組紐は首輪ではなかった。ぬいぐるみの首の後ろに縫い付けられ、細く伸びる。鞄や腰紐に結べば、小さなルナを一緒に連れて歩けるような形だった。
【八月三日、獅子曜日。午後。食堂】
取材対象、ロイ。
費用計算中。
ロイは、食堂の片隅で金額を計算していた。紙には、布、紐、木箱、防水布、運搬費、予備、という文字が並んでいる。公爵家の子息が小遣い帳をつけているようには見えなかった。
「公爵家の帳簿でもつけているの?」
「違う。林間学校の準備費だ」
「林間学校って、そんなにお金がかかる行事だったかしら」
「普通は、ここまでかからない」
ロイはそこまで言って、口を閉じた。マリアンナが取材帳に目を落とすと、ロイは紙を半分だけ隠した。隠すなら、最初からもっと上手に隠せばいいのに、と言いたくなる隠し方だった。
【八月四日、天馬曜日。午後。湖畔】
取材対象、ハリス。
小舟で湖上へ移動。帰着後、紙を確認。
ハリスは、湖へ出ていた。学院の湖畔で小舟に乗り、しばらくして戻ってくる。釣り竿も持っていたので、表向きは釣りに見える。けれど、戻ってきたハリスの手元には、魚よりも紙の方が目立っていた。湖岸の線、南東、距離、目印、風、という文字が見える。
「あなた、今どこへ行っていたの?」
「湖です」
「それは見れば分かるわ」
「湖の上です」
「答えになっていないわ」
「方角と距離の確認です。林間学校の安全計画に必要なので」
「林間学校の安全計画って、湖の上まで必要なの?」
「必要になる可能性があります」
ハリスはそう言って、濡れないように紙をしまった。嘘ではないのだろう。だが、全部でもない。
【八月六日、鳳凰曜日。夕方。裏庭、倉庫脇】
取材対象、ヴァン、ローティ。
籠の試作。
木材と紐が並んでいた。籠と呼ぶには平たく、担架と呼ぶには少し囲いがある。持ち手の位置を何度も変え、ローティが持ち上げ、ヴァンが首を横に振る。揺れたらしい。やり直しになった。
「あなた達、何を作っているの?」
「籠」
ヴァンが答えた。
「それは見れば分かるわ」
「すごいやつだ」
ローティが言った。
「揺れないやつ」
ヴァンが足した。
「それ、記事にしていい?」
「だめ」
ヴァンが即答した。ローティも、珍しく余計なことを言わなかった。
【八月七日、黒龍曜日。午前。図書室】
取材対象、オーレリア。
しおり、頁増加。
しおりは、次に見た時には頁が増えていた。表紙の下に予定表が入り、持ち物欄が加わり、班ごとの記入欄もできていた。さらに、今日見たもの、食べたもの、できたこと、という欄まである。オーレリアはしきりに紙を入れ替え、ミコトから何かを聞いては、新しい項目を書き足していた。
「前より増えてない?」
「必要な欄が増えたのよぅ」
「林間学校って、そんなに記録することがある行事だったかしら」
「あるようにするのよぅ」
オーレリアは、当然のようにそう言った。
【八月八日、銀狼曜日。午後。寄宿舎二階廊下】
取材対象、チャミー。
糸箱、前回と色が異なる。
チャミーが持っていた糸箱には、前とは違う色が入っていた。金色と緑。淡い色と柔らかい色。誰かの髪と、誰かの瞳に似た色。それらはハリエットの机へ届けられ、小さなルナのぬいぐるみの首の後ろへ取り付けられていった。
「今日は、どなたの分?」
ハリエットが小箱を受け取って尋ねると、チャミーは少しだけ嬉しそうに答えた。
「ハリス様の分だそうですだ。髪と、お目々の色だと」
「ありがとうございます。では、この子に付けますね」
そうして、金と緑を含んだ細い組紐が、小さな猫の首の後ろに縫い付けられた。
【八月十日、孔雀曜日。午前。森の入口】
取材対象、ハリエット。
夜光苔、夜灯茸、小木片を収集。
ハリエットは、森で使うものを集めていた。夜光苔、夜灯茸、細い布、目印に使う小さな木片。瓶に入れられた苔は、昼間はただの湿った緑に見える。けれど、暗くすれば淡く光るのだという。
「植物標本?」
「目印です」
「何の?」
「道に迷わないためのものです」
「林間学校で?」
「はい。夜は、昼間より道が分かりにくくなりますから」
ハリエットはそう言って、夜光苔の入った瓶を布で包んだ。瓶の数は一つではない。使う場所も、一か所ではないのだろう。
【八月十一日、日曜日。夕方。寄宿舎談話室】
取材対象、ハリエット、チャミー。
ルナぬいぐるみ、完成数増加。
ぬいぐるみは、机の上に並ぶ数が増えていた。耳の角度が少し違うもの。尾が上がっているもの。顔が少し眠そうなもの。どれも小さな黒猫で、どれも同じルナという猫を元にしているらしい。まだ本物のルナを見たことのない者でも、これだけ作られれば、きっとその猫が大切にされているのだと分かる。そこへ、またチャミーが組紐を届けに来た。
「今日は、どなたの分?」
「ローティ様の分ですだ」
「では、少し元気そうな子に付けましょう」
「レオナ様も、そう仰ってましただ」
ハリエットは、小さなルナの中から、少しだけ尾の上がったものを選んだ。チャミーが持ってきた組紐は明るい色を含んでいて、前のものとはまた違っていた。
【八月十二日、月曜日。午後。教室】
取材対象、ハリス。
取材帳記載事項、整理不能。
ハリスの紙には、さらに書き込みが増えていた。八月十八日。日没。南東。移動時間。休憩。合図。天候。予備案。マリアンナの取材帳にも、同じように言葉だけが増えていく。
ひとつひとつの書き込みは、林間学校の準備と言えなくもない。けれど、全部を並べると、普通の林間学校とは少し違う形になる。下級生達は、何かを作っていた。何かを運ぼうとしていた。どこかへ向かおうとしていた。何かを計画していた。そして、その中心にいるのは、おそらくミコトと、レオナ皇妹殿下だ。
【八月十四日、天馬曜日。夕方。教室】
取材対象、オーレリア、ハリエット、チャミー。
出発前日。
しおりは、冊子の形になっていた。表紙には林間学校と書かれ、内側には予定、持ち物、注意事項、思い出を書く欄、一言を書く欄が並んでいる。オーレリアは最後の綴じ紐を整え、頁が抜けないかを確認していた。小さなルナのぬいぐるみも、数が揃っていた。その数は八。それぞれの首の後ろには、細い組紐が付いている。組紐の色は全部違った。誰かの髪と、誰かの瞳の色。一本ずつ、レオナ皇妹殿下が自室で作ったものだった。
取材帳の最後には、まだ記事にできない一文だけが残された。
特ダネの可能性あり。
ただし、記事にするかどうかは判断保留とする。
林間学校までに残された時間は、あとわずかだった。




