第三十五話 問いかけ
レオナさんの声は、以下略。
そう言いたくなるくらい、可愛かった。大きな声ではない。高い声でもない。起きたばかりだからか、少しだけ息が混じっていて、言葉の端がふわりとほどける。それなのに、ただ弱いだけの声でもなかった。たった一言の丁寧なあいさつなのに、胸の奥のヨワイところをそっと撫でられたみたいになる。
これは、だめだ。わたしは危うく返事を忘れるところだった。
「お、おはようございます」
どうにか返すと、レオナさんは嬉しそうに笑った。声だけでも危ないのに、また笑顔まで来た。わたしの魂は、今日だけでいくつ落としてしまったのだろう。
隣では、ローティさんが石像みたいに固まっていた。さっきまで挙動不審だったのに、レオナさんの声を聞いて、笑顔を見た瞬間、完全に動かなくなっている。オーレリアさんは手帳を抱えたまま、書きたいのに書いていいのか分からない、という顔をしていた。ヴァンさんだけは普段通りに見えたけれど、ほんの少しだけ目元がやわらかい気もした。
マナさんとマギさんは、寝台の少し手前に並んでいた。マナさんは何も言わない。ただ、静かにレオナさんを見ている。マギさんはいつもの表情の薄い顔のまま、少しだけレオナさんへ声をやわらげた。
「今日は、顔色が少しよいですね」
「はい。今日は、少し楽なの」
「それはよかった」
「今朝は、お顔の色もよろしゅうございますだ」
チャミーさんも嬉しそうに言った。その声で、部屋の空気がほんの少しだけ緩む。けれど、扉の近くに立っているドルガン・ベイオベア卿だけは、少しも緩んだ感じがしなかった。大きな腕を組んで、わたし達をじっと見ている。怒っているわけではないと思う。でも、ほんの少しでも変なことをしたら、すぐにでも首根っこを掴まれそうだった。やっぱり熊だ。ただの熊ではない。礼儀と剣と責任感を身につけた、ものすごく強い番熊だ。名前にもベアが入ってるし、わたしの中で、熊さんでイメージが固まってしまった。
「それで、マギ殿下、マナ殿下。本日は、いかなる御用向きでございましょう」
ベイオベア卿の低い声に、マギさんはすぐには答えなかった。レオナさんへ目を向ける。
「実はドルガン、これはレオナの願いだ」
ベイオベア卿は、少し唸ると黙った。レオナさんは、その様子を見てちょっと笑うと、今度はわたしの方を見た。
「ミコト様」
「はい」
名前を呼ばれただけで、背筋が伸びる。でも、サマ呼びは少しくすぐったい。
「ミコト様は、女神さまのお声が聞こえるのですよね」
部屋の空気が、ほんの少し変わった。オーレリアさんの指が手帳の表紙を押さえ、ローティさんは石像のまま目だけをこちらへ向ける。ヴァンさんはわたしではなく、レオナさんを見ていた。
「えっと……はい。たぶん」
「たぶん、ですか?」
「わたしにも、まだよく分からないんです。いつも聞こえるわけではなくて、必要な時に、アーノウズ様の声が届くというか……」
そこで、ベイオベア卿が口を開いた。
「それがもし本当に神の声だと申すならば、確かめさせてもらおう」
低い声だった。怒っているわけではない。けれど、簡単には信じないという重さがある。レオナさんの傍にいる人として、それは当然なのかもしれない。
「は、はい」
「女神アーノウズの名を口にするならば、答えられるはずだ。女神アーノウズと、我等の主神アーダル様の関係を知っておるか」
「知りません」
わたしは、正直に答えた。アーノウズ様が恋愛の女神さまだということは知っている。アーダル神の名前も、授業で聞いた。この国の初代皇帝で、人間を守護する神さまだと教えられたことがある。けれど、その二人の関係なんて知らない。少なくとも、わたしが今まで聞いた話の中にはなかった。ベイオベア卿の目が、少しだけ細くなる。駄目だったかな、と思った。けれど、すぐに思い直す。ベイオベア卿は、わたしが知っているかどうかを試しているのではない。たぶん、わたしが本当に神さまへ尋ねられるのかを見ている。
「あ、でも……ちょっと聞いてみますね」
「聞く?」
「はい。アーノウズ様に」
そう言ってから、わたしは両手を合わせ、ゆっくりと目を閉じた。
アーノウズ様。すみません。いきなりで申し訳ないのですが、アーノウズ様と、アーダル神の関係を教えてください。
心の中でそう尋ねた瞬間、答えはあっけなく返ってきた。長い神話ではなかった。難しい教義でもなかった。ただ、少し困ったような、少し照れたような、それでも絶対に諦めない、明るい恋バナが胸に流れ込んでくる。誰かを好きで、好きで、どうしても諦められなくて、追いかけて、追いかけて、その途中で転んで、死んで、それでもまだ追いかけて、気付けば自分まで神さまになっていた。そんな、努力と幸運と一途な想いの塊みたいな。恋するド根性乙女の物語だった。
わたしは目を開けた。
「アーノウズ様は、もとはアーダル様にずっと恋をしていた一人の乙女です」
部屋の中が、止まった。
「アーダル様が神格に昇ったあとも、諦めずに追いかけ続けて、その間に、本人も死んじゃって、それから知らないうちに神さまになっていました。今は、アーダル様から、渋々ながら庇護を受けているそうです。恋は実っていませんが、というより今もむしろ絶賛恋愛中、みたいな?」
そこまで言ってから、ちょっと女神さまのことを砕けて話し過ぎちゃったかなと後悔した。オーレリアさんは、手帳を開きかけたまま目を丸くしていた。いつものオーレリアさんなら、珍しい話を聞いた瞬間に筆記具が走る。けれど今は、書くことすら忘れているみたいだった。
「……そんな話、知らないのよぅ」
ぽつりと、オーレリアさんが言った。その声で、わたしはようやく分かった。オーレリアさんも知らない。何でも記録していて、古い話や貴族の噂にも詳しくて、学院の出来事なら誰よりも早く手帳に残すオーレリアさんでさえ、今の話を知らなかった。ローティさんは口を半分開けたまま固まっている。チャミーさんも、驚いた顔でわたしを見ていた。マギさんは大きく表情を変えなかったけれど、ほんの少しだけ目の奥が動いた気がした。マナさんは、何も言わない。ヴァンさんは神話とかには、特に興味がなさそうだった。
「……その話を、どこで聞いた」
ベイオベア卿は、しばらくわたしを見て考え込んだ後、そう尋ねた。
「今、聞きました」
「誰に」
わたしは、少しだけ息を吸った。熊みたいに大きな人でも、真っ向から見返す。だって嘘じゃないから。
「アーノウズ様に」
ベイオベア卿は、ゆっくりと腕を組み直した。
「驚いた。その話は、アーノウズ神官達の間でも、軽々しく語られるものではない。だが、一説として確かに存在している。これを神官学部の僧侶科で、それも宗教歴史学を専攻しているような生徒が答えたならまだしも、和之国から来た貴族で、この年齢の娘が知っている道理はない」
わたしは、何も言えなかった。知らなかった。知らないと答えた。それなのに、聞いたら答えが返ってきた。わたしは、今ここで聞いた話を伝えただけ。ただ、その事実だけが、部屋の中に静かに置かれた。わたし、実は意外とすごかった?
「よかろう」
ベイオベア卿は、ようやくそう言った。
「少なくとも、姫様のお言葉を預けるだけの理由はある。頼みましたぞ、ミコト殿」
その一言、そして熊さんの一礼で、ようやく部屋の空気が緩んだ。わたしは大きな大人に頭を下げられて、少しわたわたした。
「は、はい。わたしにできることでしたら…」
レオナさんは、まっすぐわたしを見ていた。
「では、ミコト様」
「はい」
「わたくしの将来の旦那様について、聞いていただけますか」
レオナさんは寝台の上で半身を起こしたまま、少しだけ恥ずかしそうに指を揃えていた。かわいい。これは誰だって旦那様に立候補するに違いない。恋愛相談とか、必要あるのかこれ?
「わたくしは、大きくなったら、どんな人になるのでしょうか。誰かを好きになったり、好きになってもらったり、するのでしょうか」
でも、その言葉を聞いて、わたしは、ほんの少しだけ安心した。やっぱり、レオナさんも年頃の乙女なんだなと。いや、安心していいのかは分からない。恋愛相談なんて、わたしも得意ではない。むしろ、かなり不得意な方だと思う。でも、旧塔や禁断の書に比べれば、ずっと平和な話に聞こえた。
オーレリアさんも手帳を開いている。ローティさんは、さっきまでの石化状態は解けて、興味津々の顔に戻っていた。チャミーさんも、ほんの少しだけ表情を緩める。ベイオベア卿だけは相変わらず険しい顔だった。マギさんも、何も言わなかった。マナさんは、もちろん何も言わない。二人が、わたしとレオナさんを引き合わせたのに、それが少し気になったけれど。
「分かりました。聞いてみます」
レオナさんは、ふわりと笑った。
「お願いします」
その笑顔を見て、わたしは魂を落っことす前に目を閉じた。
アーノウズ様。恋愛の女神さま。縁を見守る神さま。もし聞こえるなら、この子の未来を教えてください。レオナさんは、大きくなったら、どんな人になりますか。誰かと出会いますか。誰かを好きになりますか。誰かに、好きだと言われますか。この子の恋は、どこへ続いていますか。
問いかけた瞬間、世界の音が遠くなった。
部屋にいるはずなのに、足元がなくなる。白い天蓋も、薄いカーテンも、チャミーさんの息遣いも、ベイオベア卿の重い気配も、ヴァンさん達の沈黙も、一枚ずつ遠ざかっていく。代わりに、暗い空間の中へ無数の糸が浮かび上がった。女神さまに見えているものが、わたしにも少しだけ見えた。
細いもの。太いもの。途中で絡まるもの。誰かと誰かを結ぶもの。すぐに切れそうなもの。遠くまで続いているもの。たぶん、縁の糸だ。
恋愛の女神さまに聞いて、わたしはまず、恋の糸を探そうとした。レオナさんがいつか誰かを好きになるなら、その糸はきっと、淡くても温かく光っているのだと思った。誰かからレオナさんへ向かう糸もあるかもしれない。これが俗に言う運命の赤い糸ってやつだ。こんなに可愛い子なのだから、未来で誰かに大切にされていない方がおかしい。
でも、最初に見つけたレオナさんの糸は、あまりにも薄くて、息が止まりそうになった。白くて、細くて、淡い紫の光を含んだような糸。触れたら消えてしまいそうなくらい、頼りない。それでも、その糸はいくつかの糸と結ばれていた。チャミーさん、ベイオベア卿、マナさん、マギさん。それから、まだ細く繋がりかけている新しい糸がある。わたし達だ。ミコト、ヴァンさん、オーレリアさん、ローティさん。これは恋の糸ではないかもしれない。でも、縁だ。そのまま、わたしは糸の先を追った。でも、突然だった。
その先が、ない。
糸は白い霧の中へ消えていて、いくら目を凝らしても、その向こうへ続いていなかった。ぷつりと断絶している。どこにも繋がっていない。わたしは、少し戸惑った。恋の糸が見えないだけかもしれない。まだ恋を知らないから、今は見えないのかもしれない。そう思って、もう一度探した。誰かと手を繋ぐレオナさん。誰かに手紙を書くレオナさん。好きな人の名前を呼ぶレオナさん。頬を赤くして笑うレオナさん。そんな未来のイメージを探そうとした。
でも、見えない。
なら、恋ではなくてもいい。きっと恋愛や結婚には縁がないのかも知れない。だけど大人になったレオナさん。背が伸びたレオナさん。髪を結い上げたレオナさん。廊下を歩くレオナさん。誰かに「おはようございます」と言うレオナさん。そういう素敵な女性に育っているはずのレオナさんを探した。
でも、どこにもいなかった。
わたしは、ようやく怖くなった。違う。見えていないだけかもしれない。わたしが未熟だから。神さまの声を、うまく聞けていないだけかもしれない。そう思って、さらに奥を見ようとした。十三歳、十四歳、十五歳。その先を探す。大人になったレオナさんを、必死に探す。
だけど、やっぱり見えなかった。
十五歳を過ぎたレオナさんが、どこにもいない。ふいに、女神さまの声がした。言葉ではなかった。けれど、意味だけが胸に刺さった。観測できない。その先に、残念だけれど彼女はいない。彼女には、未来がない。
目を開けると、部屋に戻っていた。白い寝台も、薄いカーテンも、レオナさんの紫の瞳も、全部そこにある。レオナさんは、わたしを見ていた。聞く側の顔ではなかった。むしろ、わたしを心配している顔だった。どうして、この子が、わたしを心配するのだろう。
「……見えません」
声がかすれた。オーレリアさんが息を呑む音がした。ローティさんは何も言わない。ヴァンさんも黙っている。
「十五歳になった後の、レオナさんが……見えません」
言ってしまった。部屋の中が、動かなくなった。チャミーさんの手が寝具の端をぎゅっと握る。ベイオベア卿は目を閉じている。マナさんは表情を変えない。マギさんが目を伏せて、短く言った。
「……やはり、そうですか」
「やはり……?」
わたしは、息を呑んだ。マギさんは、すぐには答えない。レオナさんを見る。レオナさんは、小さく頷いた。マナさんは何も言わなかったけれど、片手をそっとレオナさんの肩に置いた。
「他の占術師が尋ねた神託でも、同様の結果が出ています」
マギさんは、さっきよりも少しだけ声を落とした。
「レオナの未来は、途中から見えなくなる。どれだけ術式を変えても、見る人を変えても、結果は変わらない。大人になったレオナが、どこにも出てこない」
大人になったレオナさん。その言葉が、胸に刺さった。さっきまで恋愛相談だと思っていた。誰を好きになるのか、誰かに好きになってもらえるのか、そんな話だと思っていた。それなのに、ふたを開けたら違った。恋の未来が見えないのではない。未来そのものが見えない。わたしは、また言い訳を探そうとした。わたしだけが見えなかったなら、まだ間違いかもしれなかった。でも、他の占術師達も同じものを見ている。何度も、誰かが見ようとして、それでも見えなかった。
「でも、十五歳までは……」
自分でも、変な言い方だと思った。十五歳までならいい、という話ではない。でも、さっきわたしが見えなかったのは、十五歳の後だった。なら、それまではあるのかもしれない。少なくとも、そこまでは。そう思いたかった。マギさんは、苦い顔をした。初めて、そんな顔を見た気がした。
「ミコトさん。申し訳ありません。そこまでの時間もありません」
レオナさんは目を伏せたまま、寝具の上で指を揃えている。チャミーさんの肩が、ほんの少し震えた。ベイオベア卿は、腕を組んだまま動かない。けれど、その大きな手は、強く握られていた。オーレリアさんも、ローティさんも、ヴァンさんも、言葉の続きを待っていた。
マギさんは、少し間を置いた。その間が、とても長かった。たぶん、言いたくなかったのだと思う。レオナさんの前で。ベイオベア卿の前で。チャミーさんの前で。マナさんの隣で。それでも、言わないわけにはいかなかったのだと思う。
「治療師の見立てでは、レオナは十二歳を待たない」
部屋から、音が消えた。
十二歳。
その数字は、小さかった。小さすぎた。十五歳でも短いと思った。大人になった姿が見えないなんて、あまりに残酷だと思った。でも、十二歳はもっと近い。レオナさんは、まだ幼い星級の生徒だ。寝台の上で、白い寝間着を着て、細い指を寝具の上に置いている。その子にとって、十二歳は遠い未来ではない。今のわたしと同じ年齢だ。これは、すぐそこにある、行き止まりだ。来年とか、再来年の話だ。
「十二歳、あと二年しかないのよぅ」
オーレリアさんが、ほとんど声にならない声で繰り返した。手帳を抱く指が白くなっている。ローティさんは、さっきまでの石像みたいな固まり方とは違って、今度は本当に動けなくなっていた。ヴァンさんも静かだ。
「そんなの」
わたしは、言いかけて止まった。そんなの、何だろう。ひどい。かわいそう。おかしい。間違っている。どうして。何で。そんな言葉はいくらでも浮かんだ。でも、どれもレオナさんに向けて言うには軽すぎた。だけど、当のレオナさんは、静かに微笑んでいた。それが、いちばん苦しかった。
「ミコト様」
レオナさんが、わたしを呼ぶ。
「はい」
声が震えた。
「聞いてくださって、ありがとうございます」
違う。お礼を言われるようなことではない。わたしは、この子に、未来が見えないと伝えただけだ。十五歳まで届かないかもしれないという事実を、部屋のみんなの前で確かめてしまっただけだ。
「ごめんなさい」
気付いたら、そう言っていた。レオナさんは、不思議そうに瞬きをした。
「どうして、ミコト様が謝るのですか」
「だって……」
その先が出てこない。レオナさんは、少しだけ首を横に振った。
「知りたかったのは、わたくしです」
その声は、弱々しいのに、ちゃんと芯があった。意志を感じた。
「この耳で、はっきり知れて良かった」
チャミーさんが、ついに顔を伏せた。ベイオベア卿は、何も言わない。マギさんも、唇を結んでいる。マナさんは無言のまま、レオナさんの肩に置いた手を、ほんの少しだけ握った。わたしは、ようやく声を出した。
「あの……病気、なんですか」
すぐには誰も答えなかった。マギさんではなく、ベイオベア卿が口を開いた。
「病、と呼ぶよりほかに言葉がない、というのが実情でございます」
低い声だった。けれど、さっきのように誰かを制する声ではなかった。重いものを、慎重に机の上へ置くような話し方だった。
「大聖堂のローゼン大司教猊下、ならびに白亜塔のフォルテッシモ教授。それぞれ最高位に居られる御二方の見立てでは、姫様の御身は、ただ肉体が弱いだけではないとのこと」
「肉体だけでは、ない……?」
「魂が希薄である。あるいは、半分しかない、と」
魂。
半分。
その言葉の意味を、わたしはすぐには理解できなかった。けれど、それがとても悪い意味だということだけは分かった。ベイオベア卿は、腕を組んだまま続けた。
「人が人として留まるための核、とでも申しましょうか。魂魄とも呼ぶのですが、姫様は、それが生まれつき薄い。その魂が肉体を十全に支えきれぬゆえに、御身体もまた脆くなられる。薬で肉体を支え、魔法で痛みを和らげても、根のところが保たぬ。御二方は、そう仰せでございました」
ベイオベア卿の声は乱れなかった。けれど、乱れないように、震えないようにしているのだと分かった。レオナさんは、静かに聞いていた。自分のことなのに、どこか遠くの話みたいに。
「治らないんですか」
言ってから、胸が痛くなった。治ります、と言ってほしかった。何か方法があります、と言ってほしかった。この世界には魔法がある。神さまだっている。すごい薬や、すごい先生や、まだ知らない奇跡があるのではないかと思いたかった。
ベイオベア卿は、すぐには答えなかった。その沈黙だけで、答えが分かってしまいそうだった。ううん、治るならみんな困った顔はしていない。そもそも聞くべきじゃなかった。
「少なくとも、今この時代において、根治の術は見付かっておりません」
やっぱり。胸の奥が、ぎゅっと縮んだ。
「肉体の不調であれば、支える術はございます。痛みを和らげ、熱を下げ、呼吸を助けることもできましょう。されど、姫様の病根は魂にある。いかなる薬も、魔法も、姫様の魂を満たすには至りませなんだ」
満たす。
その言葉が、胸に残った。欠けているものを、どうやって満たせばいいのだろう。魂が半分しかないと言われた子に、何を足せばいいのだろう。そんなこと、わたしには分からない。でも栄養をとるみたいに、輸血をするみたいに、義手や義足をつけるみたいに、何かで補えるとか、そういう話ではないことだけは分かった。
「宮廷も、大聖堂も、白亜塔も、外つ国の術者も、手を尽くしました。されど、姫様を大人にする道は、未だ見付かっておりませぬ」
未だ。その一語に、わたしは縋りそうになった。けれど、ベイオベア卿の顔を見ると、それがどれほど細い言葉なのかも分かってしまった。そこへ、ローティさんが縋るみたいに割り込んだ。
「ないの? 本当に、ないの?」
いつもの軽さはなかった。むしろ、泣きそうな子供みたいな声だった。さっきまで石像みたいだったのに、今はボロボロに崩れて、必死に問い掛けている。
「ねえ。何も、ないの?」
ベイオベア卿は、まだ答えなかった。大きな腕を組んだまま、じっと床の一点を見ている。その顔は、怒っているようにも、耐えているようにも見えた。チャミーさんが、レオナさんを見る。マギさんも何も言わない。マナさんは、やはり声を発しなかった。ただ、レオナさんの肩に置いた手だけが、ほんの少しだけ動いた。レオナさんは、静かにベイオベア卿を見上げた。
「構いません、ドルガン」
「姫様」
「ミコト様とみんなには、知っていただきたいです」
ベイオベア卿の眉が、わずかに寄る。大きな身体をした人なのに、その時だけ、ひどく苦しそうに見えた。
「それは……」
「お願いします」
レオナさんの声は小さかった。けれど、部屋の誰も聞き逃さなかった。ベイオベア卿は、覚悟を決めたように長く息を吐いた。それから、ようやく顔を上げる。
「治療法は、未だございませぬ」
その言葉で、胸が沈んだ。けれど、続きがあった。
「されど」
わたしは、顔を上げた。オーレリアさんも、ローティさんも、ヴァンさんも、みんながベイオベア卿を見る。
「一つだけ、対策があります」




