第三十四話 来訪者
七月。
旧塔での一件が皆の記憶から少しずつ薄れてきた頃、学院は、もうすぐ夏休みに入る時期になっていた。教室の中では、生徒達が休暇中の予定や、夏の行事について話している。誰がどこへ帰り、誰が学院に残るのか。そんな話が、まだ授業の熱が少し残った教室のあちこちから聞こえていた。
わたしは、その中に座っていた。教室には、ヴァンさんと、オーレリアさん、ローティさんもいる。ヴァンさんはいつものように窓際、風に近い場所にいて、オーレリアさんは手帳を開いて何か考えごとの最中だった。今日は少し静かだなと思ったら、ローティさんは机に突っ伏して寝ていた。それぞれが、夏休み前の日常の中にいた。
「ミコト」
ヴァンさんの声。呼ばれて顔を上げると、ヴァンさんはわたしではなく、その向こうにある廊下の方を見ていた。まだ誰も見えていない。けれど、ヴァンさんは言った。
「廊下、誰か来る」
そう言われて、わたしも入口の方を見る。この時間帯に、わざわざこの教室まで来る生徒は、忘れ物を取りに戻るか、恋愛相談をしに来る生徒ぐらいだ。わたしは少し心構えをした。
少し遅れて、廊下の足音が近付いてきた。急いでいるわけではない。けれど、迷っている足音でもなかった。一定の歩幅で、まっすぐこちらへ来る音だった。やがて、二人の生徒が扉をくぐった。
双子だ。
その二人が並んで立つと、顔立ちも、薄桃色に近い白金髪の色も、背の釣り合いも、ほとんど同じものを少しだけ角度を変えて置いたように見えた。けれど、瞳の色だけは違っていた。赤と青、真紅と紺碧だった。
二人は恐らく月級の生徒だ。ただし、普通の制服とは少し違う、特注のものだった。同じ布地、同じ仕立てのはずなのに、色のついた線の入り方が、他の生徒達とは違っていた。どことなくイネヴェアさんと似た様な雰囲気がある。貴族特有の何かだろうか。その二人は、微塵も笑わず、教室内を見渡す。オーレリアさんの、低いつぶやきが聞こえた。
「マナ様、マギ様……」
その声で、わたしの中でも二人が誰なのか分かった。マナとマギ。前にオーレリアさんから聞いた子達に間違いない。二人は現皇帝陛下のかなり歳の離れた双子の妹と弟。その情報が、ハンナの日記に出てきた「あいつ」と繋がった。
わたしは少し身構えた。苦手意識、防衛本能、拒否反応、そんな感じの嫌悪感的な拒絶反応だと思う。もしかすると恐怖なのかも知れない。わたしにも、はっきり分からない。まさか双子サマが恋愛相談?
マギさんが、口を開いた。マナさんは喋らない。
「ミコト・サトーは、どこ?」
短い言葉だった。頼むわけでもないし、命令している訳でも、高圧的でもない。けれど、その立場を知っている者からすれば、皇帝陛下の勅命、その次ぐらいに重たいはずだ。また、その声のトーン、無機質さが、更に教室の空気を硬くした。
「……はい」
わたしが答えると、マギさんは表情を変えないまま、次の用件を告げた。
「一緒に来てくれ」
それだけだった。ヴァンさん達は、わたしを見る。必要以上には口を挟まない。ただ、わたしがどう答えるのかを待っている。
「ヴァンさんと、オーレリアさんも一緒なら」
わたしは、そう答えた。用件の理由も何も分からない。分からないから恐かった。二人が一緒なら心強い。ヴァンさんは、言った。
「ローティも」
その声で、ローティさんが起きた。ヴァンさんは、それ以上の理由を言わなかった。けれど、わたしが警戒しているから、もしものことを考えて仲間を増やす。そういうことなのかなと思った。
マナさんとマギさんは、同じだけ沈黙の時を置いた。そして、二人の間で交わされた視線も言葉も何一つないのに、全く同時にうなずいた。了承の意味だ。
「ついて来て」
双子さんが先導して、わたし達を案内する。二人は何もしゃべらない。他の生徒達は何事かと遠くから見守るだけで、何もしない。オーレリアさんは手帳を抱え、ローティさんは何も持たず、ヴァンさんは珍しく鞄を肩にかけて後に続いた。
わたし達は、廊下を進み、渡り廊下を抜けて寄宿舎へ向かった。夏休み前の教室の声が背後に遠ざかり、廊下を進むほど、人の声は少なくなっていく。階段を下りて校舎の外、渡り廊下を進んでいる時、無遠慮にヴァンさんが尋ねた。
「おまえたち、寄宿舎だった?」
オーレリアさんが口の利き方に少し戸惑っているようだった。いかに相手が月級の下級生とは言え、皇家の子供達だ。無礼なことをしたら不敬罪とか、そういう感じの何かがあるかも知れない。貴族社会のルールとか、よく分からないけれど。わたしは少しドキドキした。
二人同時に振り返る。表情が無い。怒っているのか、呆れているのか、何も読めない。恐い。この双子、本当に恐い。
「妹の部屋に行く」
弟のマギさんが答えた。姉のマナさんは何一つ喋らない。この二人の妹って言うと誰だっけ?
「レオナ様?」
わたしの質問を先読みしたみたいに、オーレリアさんが尋ねる。双子さんは、うなずいた。
「え!? なんで?」
ローティさんが慌てたような声をあげた。そう言えば、レオナさんに食堂でスープをかけそうになった張本人は、この人でした。
「来れば分かる」
ヴァンさんは何も言わずにうなずいた。レオナさんと聞いて、警戒を解いたような感じがした。逆にローティさんは緊張が高まってしまっている。オーレリアさんは、もう何か事件の匂いを嗅ぎ付けたのか、いつもの記録者の顔になっていた。
二人が前を歩くと、道が勝手にできる。寄宿舎のラウンジを通り過ぎる時には、上級生達ですら道を譲る。これが皇家の御威光というやつか、なんてことを、わたしは他人事のように思っていたが、その上級生達がヒソヒソしているのが見えた。これは、もしかすると注目を浴びてしまっているのかもしれない。困った。恥ずかしい。
「着いた」
そんな風に下を向いてる間に、レオナさんの部屋の前に着いたらしい。聞こえた声に顔を上げると、扉の外にいる四人の兵士さん達が目に入った。学院には不釣り合いで、すごく物々しい鎧姿だ。腰に提げた剣も、鞘に収まっているのに少し恐い。でも、この人達がレオナさんを守っているんだと思ったら、ちょっと頼もしい気がした。
「ドルガンに伝えろ。マギとマナが面会に来た」
兵士さんの一人がうなずき、扉をノックした。部屋の中から年老いた男の声がする
「なんじゃ、騒々しい」
「ベイオベア卿、レオナ様に面会です。マギ皇弟殿下と、マナ皇妹殿下が来られました」
その兵士さんが状況を説明すると、しばらく沈黙があってから、扉が開いた。見知った顔の女性が出て来た。レオナさんの専属メイド、チャミーさんだ。開いた扉の隙間越しに目が合って、ちょっと驚いた顔をしているのが分かったけれど、その後、すぐに笑顔を返してくれた。チャミーさん、なんか好きだ。
「どんぞ、お入りくださいまし」
「マギ殿下、マナ殿下、どうぞお通り下さい」
案内されたので、わたしも後に続こうとしたら、兵士さんに止められた。ちょっと、ビクッとした。
「少し待ってて」
マギさんが言い残して先に入って行った。マナさんは入らずに待ってくれている。わたしの方を、じーっと見ながら…。ん? 見られている?
「………、………。」
何か言ってください。沈黙が恐いです。恐すぎます。下級生のはずなのに、上級生の不良生徒に睨まれている感じが、とても恐いです。きっと、冷や汗ダラダラになっています。やばいかも、これ。
「あのう、皆様もお入り下さいとのことですだ」
助かった。チャミーさん天使。
マナさんが、ようやく視線を外した。何も言わないまま、すっと扉の方へ向かう。わたし達も、その後に続いた。ヴァンさんは堂々と、オーレリアさんは興味津々に、ローティさんは少し挙動不審だ。
部屋の中に入ると、まず目に入ったのは、扉のすぐ近くに立っている大きな男の人だった。初老、という言葉が合う年齢だと思う。けれど、背筋は少しも曲がっていない。背が高くて、肩が広くて、腕も太い。灰色の混じった髪と、深く刻まれた皺。年を取って弱くなった人ではなく、長い時間をかけて鍛えてきた感じがする。鎧は着ていないのに、鎧を着ていた兵士さん達より強くて硬そうだった。
この人が、ドルガン・ベイオベア卿なのだと思った。熊みたいな人だ。大きくて、重くて、きっと強い。そんな感じがする。わたしは、自然と背筋を伸ばしていた。怒られたわけでも、睨まれたわけでもないのに、悪いことをしていないか確認されているような気持ちになる。隣では、ローティさんが緊張のあまり石みたいになっていた。オーレリアさんも手帳を抱えたまま、さすがに今は開こうとはしていない。ヴァンさんだけが普段通りだった。ちょっと安心する。
部屋の奥には、天蓋付きのベッドがあった。薄い布のカーテンが幾重にも垂れていて、その向こうは柔らかく隠されている。外の光は窓から入っているはずなのに、ベッドの周りだけは少し違う時間の中にあるみたいだった。静かで、白くて、誰かを守るために作られた小さな部屋の中の、さらに小さなお部屋。
そのカーテンの奥に、レオナさんが寝ている。そう分かっただけで、わたしは少し息を止めた。チャミーさんが、そっとカーテンを潜った。布が揺れて、すぐにまた閉じる。向こう側で、小さな衣擦れの音がした。チャミーさんは何かを急かすようなことはしない。ただ、寝台の中にいる人を起こすために、できるだけ静かに、できるだけ優しく動いているのが、布越しでも分かった。やっぱり、チャミーさん大好きかも。
少しして、カーテンの奥で、レオナさんの身体がゆっくり起こされる気配がした。チャミーさんが支えているのだと思う。半身を起こすだけでも、すごく時間がかかる。寝具が少し動いて、枕の位置が直される。布の向こうに、細い影ができた。
わたし達は、その間、何も言わずに待っていた。いつも騒々しいローティさんも石化したみたいに静かで、オーレリアさんがペンを走らせたりもしない。ヴァンさんも、何も言わない。マナさんも相変わらず。マギさんも、表情を動かさずに立っている。
カーテンの向こうで、チャミーさんがレオナさんの髪を軽く整えているのが見えた。あの白くて柔らかそうな髪が、指先でそっと梳かれている。次に、顔を拭いているらしい。水を含ませた布なのか、ゆっくりと、頬のあたりを拭う動きがあった。
起きたばかりの顔を、人に見せる前に整えている。それが、たぶんレオナさんにとって普通のことなのだろうと思った。わたしなら、寝起きのまま誰かに会うこともある。寝ぐせも全開で。でも、レオナさんは違う。寝台に伏せていても、誰かに会う時には、ちゃんとレオナさんの上に、皇帝陛下の妹君という仮面を被せられてしまう。
それが少し不思議で、少し寂しい。ううん、とても寂しい。やがて、チャミーさんの手が止まった。カーテンの向こうで、小さく身じろぎする気配がある。準備ができたのだと思った。チャミーさんが、内側からカーテンに手をかける。薄い布が、ゆっくりと左右に開かれた。閉じ込められていた光が溢れ出すようだった。
そこに、レオナさんがいた。
普段、廊下ですれ違ったり、食堂で見掛けたりする時とは、まったく違うレオナさんだ。寝台の上で半身を起こし、背中を枕に支えられている。細い肩。白い寝間着。少しだけ薄紫色に近い白金の髪は、今整えられたばかりで、頬の横に柔らかく落ちていた。肌は透けるように白くて、窓から入る光を受けると、消えてしまいそうなくらい儚く、もろく見える。
けれど、目が合った瞬間、レオナさんは笑った。それは、びっくりするくらい可愛い笑顔だった。弱っているとか、寝台にいるとか、守られているとか、そういうものを一瞬だけ全部忘れてしまうくらい、ふわっと花が開いたような笑顔だった。紫の瞳が柔らかく細まり、頬にほんの少しだけ色が差す。小さな唇が嬉しそうに弧を描いて、部屋の中の空気が、そこだけ急に明るく清々しくなった気がした。わたしの語彙では、もうその他に言い方を知らない。これは反則だろと思った。その場で平伏してしまいたい気持ちすら沸き起こった。
レオナさんは、その笑顔のまま、わたし達を見て言った。
「おはようございます」
その声は、以下略…。
わたしは、魂が抜かれちゃったかもしれない。




