閑話休題2 第四話 恋愛相談
放課後の教室には、まだ少しだけ人が残っていた。
わたしは、机の上に広げた皇國語の練習帳を閉じて、そっと息を吐いた。今日は居残りではない。補習でもない。だから、本当なら、このまま寮へ戻って、少し休んで、夕食までに宿題をすればよかった。
けれど、そうならなかった。
同じ教室には、オーレリアさんとローティさんがいた。オーレリアさんは当然のように手帳を開いている。ローティさんは窓際の席に腰掛けて、何となく窓の外を見ていた。特に用事があるようには見えない。けれど、ローティさんは時々、そういうふうに窓の外を見ていることが多い。
そして、わたしの机の前には、女の子が三人立っていた。
エインさん。
アディさん。
クリスさん。
三人とも、イネヴェアさんのそばで見かけることが多い子達だった。完全な取り巻きというより、いつも近くにいる三人組、という感じだ。エインさんは、薄桃色の長い髪をした女の子だった。目立つ髪色なのに、本人はあまり目立とうとしない。アディさんは、静かで引っ込み思案なエルフの女の子。クリスさんは、その隣に自然と立っているだけなのに、はっきりと人目を引く雰囲気の子だった。この三人が並ぶと、それだけでちゃんと絵になる。その真ん中にイネヴェアさんがいると、もう芸術品だ。
わたしは思わず、自分の膝の上に置いた手を見た。皇國語の練習で、指先には黒鉛の跡が残っている。
うん。比べるのは、やめよう。比べると、かなり負ける。なんだか虚しくなる。
だから最初は、また何か言われるのかと思って、少しだけ身構えた。けれど、三人の顔は思っていたより真剣だった。
「あの、ミコトさん」
最初に口を開いたのは、エインさんだった。
「恋愛相談しても、いいですか」
「え?」
「えぇと、恋愛というより、結婚のことなんですけど」
結婚。
思ったより大きな言葉が出てきて、わたしは少し固まった。恋愛相談なんていう高いハードルが、さらに高くなった。オーレリアさんは、すでにペンを動かしていた。助けを求めようと見たけれど、記録する気満々の笑顔だった。わたしは色々と諦めた。
「わたしで、分かることなら……」
そう答えると、エインさんは少しだけ安心したように息を吐いた。
「家の将来のために、そろそろちゃんと相手を考えなさいって言われていて。でも、わたしは、今は結婚する気がないんです」
「はい」
「嫌いなわけじゃありません。いつかは、そういうこともあるのかもしれません。でも、今はまだ、自分が誰かの妻になることを考えるより、もっと勉強したいし、やりたいこともあります」
エインさんは、指先を少し握った。
「でも、家のためには、ちゃんとした相手を見つけなければいけないって言われます。だから入学当初から、実は少し猫を被っているんです」
「猫」
「本当の自分より、少し大人しくて、少し上品で、少し都合のいい子みたいに見えるようにしています。そうすれば、少しでも良い相手に選ばれるかもしれないって。でも、そんなふうにして誰かに選ばれても、それはわたしじゃない気がして。けれど、本当の自分を出したら、誰にも選ばれないかもしれないと思うと、ちょっと怖くて…」
わたしは、すぐには答えられなかった。結婚のことは分からない。家の将来のために結婚するということも、まだうまく想像できない。でも、聞こえてはいた。
「これって……ああ、うん。なるほど」
小さく返してから、わたしは自分が声に出していたことに気付いた。エインさんが、不思議そうに瞬きをする。アディさんとクリスさんも、少しだけ顔を見合わせた。ローティさんは首をかしげ、オーレリアさんのペンだけがすぐに動き始める。
「あ、すみません」
わたしは少し慌てた。そのまま女神様の言葉を口にするのは、たぶん違う。わたしの言葉にしないと、エインさんには届かない気がした。そもそも、わたしは女神様の伝言係を買って出た覚えはない。巫女という自覚もない。
「えっと……猫を被ったまま選ばれると、選ばれた後も、ずっと猫を被り続けることになると思います」
「ずっと、ですか」
「はい。それは、すごく苦しいと思います。だから、良い相手に選ばれるために自分を隠すより、本当のエインさんを見て、それでもいいと思ってくれる人を探した方がいいんじゃないでしょうか」
エインさんは黙っていた。
「結婚生活って、たぶん、長いものですよね」
「はい」
「だったら、つくろった自分を好きになってくれる人より、普段のエインさんを好きになってくれる人の方が、幸せになれると思います」
言ってから、少し恥ずかしくなった。わたしは、結婚生活なんて知らない。その前段階の、恋愛なんてもっと知らない。まったく偉そうなことを言える立場ではない。資格もない。微塵もない。けれど、エインさんに対して、思ったこと、感じたことを素直に伝える。それぐらいなら、できる。
「自分らしく、生きた方がいいってことですか」
「はい。たぶん、その方が、幸せな結婚生活ができると思います」
エインさんは、少しだけ目を伏せた。それから、ゆっくりとうなずいた。
「ありがとうございます。すぐには難しいかもしれません。でも、少しだけ、本当の自分で話してみます」
「はい」
エインさんは丁寧に頭を下げて、一歩後ろへ下がった。わたしは、少しだけ息を吐いた。これで終わりなら、よかった。けれど、三人組は三人組だった。次に前へ出たのは、アディさんだった。
「次は、私でもいいですか」
「あ、はい。わたしで分かることなら」
アディさんは、少しだけ迷ってから言った。
「実は、気になっている人がいるんです」
「はい」
エインさんとクリスさんが、少し驚いたような顔で、アディさんを見ている。
「その人が、他の子と楽しそうに話していると、少し落ち着かなくなるんです。別に、独り占めしたいわけではないんです。ただ、今まで近くにいた人が、少しずつ離れていくような気がして。他の人と楽しそうに話しているのを見ると、胸がざわつくんです」
アディさんは、そこで一度言葉を止めた。
「でも、それを言ったら、重いと思われるんじゃないかって。気になっているなんて言っても、相手を困らせるだけかもしれないって思うんです」
わたしは、少しだけ視線を落とした。
「……それは、悪いことですか?」
思わず聞き返すように言ってしまった。アディさんが首をかしげる。
「悪いことでは、ないんですか」
「いえ、はい。すみません。気になっていることも、寂しくなることも、それだけなら悪いことではないと思います」
わたしは、聞こえてくる言葉を意識の端っこで追いながら、自分の言い方に噛み砕いていく。そこに、なけなしの経験値と、本で得た知識という名の塩と胡椒を少しだけ加える。
「でも、その気持ちで相手を縛ろうとすると、たぶんお互いに苦しくなります。だから、えっと……アイ・メッセージ、だったと思います」
「愛の言葉?」
「あい、わたしの、あい」
「ああ、世界共通語の……」
「はい。相手が悪いとか、こうしてと言うのではなくて、自分が寂しかったとか、少し不安だったとか、そういうふうに伝える方がいいと思います。つまり、あなたが、とかいうユー・メッセージではなく、わたしが、という自分の気持ちを素直に話すことです」
アディさんは、目を伏せた。
「寂しかった……、私は、寂しかった……、」
「はい。責める言葉ではなくて、自分の心を見せる言葉にした方が、たぶん伝わりやすいです」
アディさんは、小さくうなずいた。
「分かりました。言えるかどうかは、まだ分からないけど……でも、考えてみます」
「はい」
アディさんは、エインさんの隣へ下がった。次は、クリスさんの番だった。
「クリスさんも、相談ですか?」
わたしが聞くと、クリスさんは少し迷ったように目を伏せた。それから、静かにうなずいた。
「ええ、そうね。私も、自分のことです」
「はい」
「大事にしたい人がいるんです。でも、どこまで近づいていいのか分からなくなることがあります」
クリスさんの声は、少し小さかった。
「近くにいたいと思うんです。でも、近くにいすぎたら迷惑かもしれない。何も言わないままだと離れてしまうかもしれない。でも、言葉にしたら、今のままではいられなくなるかもしれない。そう思うと、何も言えなくなります。それに何より、住む世界が違い過ぎるかも知れない」
アディさんは、何も言わなかった。エインさんも、黙って聞いている。オーレリアさんのペンは動いていたけれど、少しだけ音が静かになった気がした。わたしは、クリスさんを見た。
「小さく……ああ、はい。そうですね。いきなり大きな言葉にしなくてもいい、ということですね」
「ん?」
言ってから、しまったと思った。今のは、クリスさんに向けた言葉ではなかった。女神様への返事が、ついつい声になって出てしまっていた。これは普通なら、変な子、痛い子だと思われるに違いなかった。
「すみません。えっと、全部を一度に言おうとしなくてもいいと思います」
「全部を、ですか」
「はい。ずっと一緒にいたいとか、大事ですとか、そういう大きな言葉がまだ怖いなら、まずは、少しだけ話してもいいですか、とか、隣にいてもいいですか、くらいでもいいと思います」
クリスさんは、ゆっくり瞬きをした。
「それでも、伝わるでしょうか」
「たぶん、伝わります。何も言わないよりは、ずっと。近くにいたい気持ちを、相手を困らせないくらい小さな言葉にして渡せばいいのだと思います。そうすれば、住む世界が本当に違うのかどうかも、見えて来るらしいです」
クリスさんは、ゆっくりとうなずいた。
「少しずつなら、言えるかもしれません」
「はい」
「ありがとうございます」
クリスさんは小さく頭を下げた。三人とも、最初に来た時より、少しだけ表情が軽くなっていた。わたしは、本当にこれでよかったのか、まだ分からなかった。けれど、三人が少しでも楽になったのなら、たぶん、悪いことではないのだと思う。
「ミコトさん」
エインさんが、代表するように口を開いた。
「聞いてくださって、ありがとうございました」
「ありがとうございました」
アディさんとクリスさんも続けて頭を下げる。
「いえ、わたしは、本当に大したことは……」
「大したことでした」
エインさんは、真面目な顔で言った。わたしは、どう返せばいいのか分からなくなった。
「これは記録すべき事案なのよぅ」
オーレリアさんが言った。
「記録しないでください」
「匿名性には配慮するのよぅ」
「そういう問題ではありません」
ローティさんは、窓際で何となく感心したような顔をしていた。
「ミコトは、相談に乗るの上手いんだな」
「上手くないです。よく分かっていません。それに、わたし一人ではありません」
「でも、三人ともすっきりした顔してる」
「そう、でしょうか」
「うん」
ローティさんは、あっさりうなずいた。三人組も、うんうんとうなずいている。
その時、教室の扉が開いた。
「あなた達、何をしているの?」
入ってきたのは、イネヴェアさんだった。彼女は相変わらず、背筋が伸びていて、少しきつい目をしていた。初めて会った時と、距離感はあまり変わらない。イネヴェアさんは、まず三人を見た。
「エイン。アディ。クリス。あなた達、ここで何をしていたの?」
三人は、少しだけ顔を見合わせた。
「恋愛相談です」
最初に答えたのは、エインさんだった。
「恋愛相談?」
「はい。少しだけ、気持ちが軽くなりました。すぐに全部を変えられるわけではないですけど、次に何をすればいいかは、分かった気がします」
イネヴェアさんは、少しだけ目を細めた。
「アディは?」
「私も……話してよかったと思います。変なことだと思っていたけど、変だと決めなくてもいいんだって、少し思えました」
「クリスは?」
「私もです。ちゃんと聞いてもらえたので、少し落ち着きました。たぶん、次は逃げずに話せると思います」
三人とも、満足していた。少なくとも、わたしにはそう見えた。イネヴェアさんは、少しだけ黙った。そして、わたしを見た。
「……ふうん」
その一言には、納得していないような、納得してしまったような、両方の響きがあった。
「最近、妙な噂があるわね」
「妙な噂、ですか」
「あなたが恋愛の女神の巫女だとか、恋や結婚の相談に答えられるとか、そういう噂よ」
「答えられるわけでは……」
「でも、この三人は満足しているようね」
わたしは、何も言えなかった。
「だから、私が確かめてあげるわ」
「確かめる?」
「検証よ」
イネヴェアさんは、ふん、と鼻を鳴らした。
「たとえばの話よ」
「はい」
「貴族の娘である私が、いずれ結婚しなければならないとして、その時期はいつが適切なのかしら。早すぎても軽く見られるし、遅すぎれば選択肢が減る。相手も、家柄だけで選ぶべきではないでしょうけれど、好き嫌いだけで選ぶほど子供でもいられないわ」
「はい」
「だから、条件と感情のどちらを重んじるべきか。いつ、どんな相手を選ぶべきか。そういう一般論を聞いているのよ」
「一般論、ですか」
「そうよ。検証だから」
その時、ローティさんが窓際からあっさりと言った。
「でも、イネヴェアなら、相手には困らないんじゃないかな」
イネヴェアさんは、目だけでローティさんを見た。
「あなた、何を根拠に言っているの?」
「だって、イネヴェアは綺麗だし、はっきりしてるし、ちゃんとしてるし」
悪気のない声だった。たぶん、素直に感じていることを言っただけなんだと思う。イネヴェアさんは、ふん、と鼻で笑った。一笑に付すとは、正にこれというお手本みたいな笑い方だった。
「そこまで言うなら、今すぐあなたが求婚でもしたらどう?」
「え、いいの?」
教室が止まった。まさかという予感。イネヴェアさんだけが、その予感を抱かなかったようだ。
「言えるものなら言ってみなさいよ」
ローティさんは、少しだけ考えた。
「じゃ、一回しか言わないから、よく聞けよ」
「え?」
「イネヴェア、ぼくと結婚してください」
「お断りよ!」
速かった。
ローティさんは、ぱちぱちと瞬きをした。
「そっか」
「そっか、じゃないわよ!」
オーレリアさんのペンが、ものすごい速さで走った。わたしは、今のは恋愛相談なのか事故なのか、判断できなかった。とりあえず事件として記録はされていそうだった。
イネヴェアさんは、少しだけ息を乱していた。ローティさんは、盛大にフラれたのに特に落ち込んでいる様子もなく、そうなんだ、という顔をしている。わたしは、話を戻した方がいいのか、戻さない方がいいのか、少し迷った。イネヴェアさんが、こちらを向いた。
「それで、検証の答えは?」
「はい」
わたしは、すぐには答えられなかった。
「条件も……はい。でも、それだけでは……」
小さく呟いてしまってから、イネヴェアさんが眉を寄せた。
「誰に言っているの?」
「すみません」
わたしは、少しだけ背筋を伸ばした。
「たぶん、条件は大事だと思います。家柄も、時期も、将来のことも、考えないわけにはいかないと思います」
「ええ」
「でも、結婚と、恋愛は別みたいです。いえ、別というより、同じ秤で量るものではない、という感じだと思います」
「別?」
「結婚相談と、恋愛相談は、本当は分けるべきだって」
イネヴェアさんは、少し目を細めた。
「結婚は家や将来を考えるものだけど、恋愛は自分の心がどこへ向いているかを見るもの、という感じだと思います」
「普通ね。それは結婚相手とは別に、愛人を作れってことなのかしら?」
「あー、はい。すみません。そういう解釈もできちゃうそうです」
「謝るところではないわ。むしろ普通ね。貴族社会でも、至極ありふれた話だもの」
イネヴェアさんは、腕を組んだ。
「でも、普通だからこそ、少しは検証結果として扱えるかもしれないわね」
「検証結果……」
「今日だけで結論を出すのは早いわ。具体的なアドバイスは何も頂けていないですし」
「アドバイス? やっぱり恋愛相談なんじゃ……」
ローティさんが口を挟む。
「違うわよ!」
「はい」
素直だった。
イネヴェアさんは、わたしを再び見て、宣告した。
「検証は、一度で終わらせるものではないでしょう。また来ますわ」
「はい?」
「明日の放課後、少しだけ時間を空けておきなさい」
「恋愛相談ですか?」
「検証よ!」
また声が大きかった。ローティさんが、ぽつりと言った。
「やっぱり、恋愛相談だね」
「おだまり!」
オーレリアさんのペンが、今までで一番速く走った。わたしは、明日の放課後も逃げられないのだと、少しだけ分かった。その時、教室の外から、小さな声がした。
「あの……」
わたしは振り向いた。扉の外に、知らない女の子が立っていた。その後ろにも、もう一人いる。さらに、その後ろにも、何人かいる。列だった。短いけれど、たしかに列だった。行列ができていた。
「……何でしょうか」
わたしが聞くと、一番前の子が、恥ずかしそうに両手を握った。
「ここで、アーノウズの巫女様が、恋愛相談所を開設してるって聞いて……」
「違います」
わたしは反射で言った。けれど、その子は真剣だった。後ろに並んでいる子達も、みんな真剣な顔をしていた。
逃げたい。
とても逃げたい。
でも、あの顔を見て、何も聞かずに逃げるのは、少しだけ難しかった。わたしはオーレリアさんを見た。オーレリアさんは、手帳を構えながら、神妙な面持ちで言った。
「ミコトちゃん」
「はい」
「外を見るのよぅ」
「見ています」
「需要があるのよぅ」
「需要なんて言葉、今は聞きたくありません」
ローティさんは面白そうにしている。イネヴェアさんは、まだ帰っていない。帰っていないどころか、なぜか列の方をじっと見ている。検証の続きだと言いたげな顔だった。わたしは、もう一度、扉の外を見た。並んでいる子達は、みんな何かを抱えている顔だった。わたしに恋のことは分からない。女神様のことも、正直よく分からない。女神を騙る悪霊かも知れないとすら思っている。けれど、聞こえた言葉を、自分の言葉に直して伝えることくらいなら、たぶんできる。
「……次の方、どうぞ」
そう言った瞬間、オーレリアさんのペンが走った。
たぶん、何かが始まってしまった。




